新潮文庫「風の盆恋歌」の始まりは、
゛水音が聞こえない゛
そう思って、太田とめは足をとめた。
高山線の八尾駅の近くにある自分の家から、
一気に長い坂一つを登って来た。七十歳を
こした身にはこの坂がこたえる。越中八尾と
呼ばれる富山県婦負郡八尾町には、坂の町と
いう別名があって−−−−
八尾は水音の町なのだ。
それほどの水音を、とめが聞こえないと思ったのは
明日九月一日からの三日間のために、
町が顔つきを変えはじめているせいだった。
゛風の盆゛と呼びならわされた年に一度の−−−−」
この行から始まる、高橋治氏の小説は、富山県に在中の間に何回読んだのか。
主人公の「都築」と同年代の私は、恋人「えり子」の出来事を自分の夢の中に求めていたのでした。
私はこの「風の盆」が見たくて、平成13年9月1日の夕刻、八尾の駅前に降り立った。
駅前広場では上の写真の舞台が催されていた。
「おわら」は、元禄15年(1702)町立てに関する書類取り戻しの祝いとして歌い踊って町を回ったのが始まりという。
おわら節は大正時代から東京の劇場で歌われたり、レコードに吹き込まれたりして全国的に有名になった。越中の代表的民謡「おわら節」の古里は、婦負郡八尾町である。
もとは盂蘭盆に歌い踊られたのが、後に二百十日の厄日除けの豊年を祝する風の盆として、9月1日より3日間の町練りが行われるようになった。(台風の被害を避ける「風の盆」である。)
おわら節の町流しは、元禄15年に始まり最も盛んであったのは幕末から明治初年ごろで、各町村から沢山の団体が出たという。男女混淆で、女子が声をそろえて歌い、男子は三味線・太鼓・鼓弓・手拍子で合わした。
医師「川崎順二」が、改良に取り組み現在のように洗練された「おわら」に生まれ変わった。これまでの「おわら」には、地方的な卑俗があった。野卑な部分が無くなったのは寂しい感じがするが、優雅な「おわら」として再生し、今日のようなメジャーなお祭りに変化させた「川崎順二」の先見の明に脱帽である。
現在では、三味線等は専門とした地方の男女、踊りは若い男女の人達であり、激しい男踊りが一瞬その動きが停止する。次の瞬間に力強く動作を繋げていく勇壮な踊りである。優雅でお色気一杯の女踊りは動きが柔軟で線や形が常に流れ、同じリズムの中で踊られている。
唄い手・囃子方・笛・太鼓・三味線・鼓弓のはやしで若い男女が法被、編笠姿で町内を練りながら踊る。
例年の「風の盆」には、全国から沢山の観光客が集まり一夜13万人3日間で30万人にも成るという。八尾は2万人の小さな町でありる。宿屋の確保、食事、休憩場所、トイレの問題など注意してお出かけ下さい。富山駅から臨時列車が運行されているが乗車までの混雑は凄いものがある。
おわら節
越中で立山 加賀では白山 駿河で富士山 三国一だよ
歌われよ わしゃ囃す
八尾よいとこ おわらの本場 歌で糸繰る オワラ 桑も摘む
来る春風 氷がとける うれしや気ままに オワラ 開く梅
城ヶ山から 白帆が見える 二つ三つ四つ オワラ 有磯海
あなた百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の オワラ はえるまで
白銀の光る波立つ 海原遠く 野にわ黄金の オワラ 稲の波
花や紅葉は 時節で色む 私しゃ常磐の オワラ 松の色
ままになるなら 京の三十三間堂の 仏の数ほど手代や番頭を沢山おいて
そして三万三千三百三十三軒ほど 支店を設けて オワラ 暮したや
あいや可愛や いつきてみても たすき投げやる オワラ ひまもない
思い染川 渡らぬさきに 浅さ深さを オワラ 知らせたや
小杉放庵の「八尾の四季」
越中で立山 加賀では白山 駿河で富士山 三国一だよ
歌われよ わしゃ囃す
八尾よいとこ おわらの本場 二百十日を オワラ 出て踊る
歌われよ わしゃ囃す
歌の町だよ 八尾の町は 歌で糸とる オワラ 桑もつむ
三千世界の 松の木ア 枯れても あんたと添わなきゃ 娑婆に出た甲斐がない
歌われよ わしゃ囃す
竹になりたや 茶の湯座敷の ひしゃくの柄の竹に
いとし殿御に持たれて 汲まれて 一口 オワラ 呑まれたや
春風吹こうが 秋風吹こうが おわらの恋風 身についてならない
ゆらぐつり橋 手に手をとりて 渡る井田川 オワラ 春の風
富山あたりか あのともし火は 飛んで行きたや オワラ 灯とり虫
見送りましょうか 峠の茶屋まで 人目がなければ あなたの部屋まで
八尾坂町 わかれてくれば 梅雨かしぐれか オワラ はらはらと
もしや来るかと 窓押し開けて 見れば立山 オワラ 雪ばかり
見たさ逢いたさ 思いがつのる 恋の八尾は オワラ 雪の中
手打ちされても 八尾のそばだよ ちっとやそっとで なかなか切れない
野口雨情
わたしゃ野山の 兎じゃないが 月夜月夜に オワラ 逢いに来る
軒先雀が また来てのぞく けふも糸引きゃ オワラ 手につかぬ
おたや地蔵さん この坂下は 今宵なつかし オワラ 月あかり
佐藤惣之助
八尾おわらを しみじみ聞けば 昔山風 オワラ 草の聲
歌の種類は、おわら節の他に松阪節、糸ひき節や浄瑠璃や常磐節があったらしいが、おわら節が盛んになって、他のものは廃れたらしい。
350年前に八尾の町が出来たころ、絹糸の原料「蚕の繭」から糸を取り出す時に歌われたのが始まりという。熱い繭鍋から娘達が糸をあやつる苦しい作業の中か生まれた。素朴で若い男女の情感等が歌に込められていったのだろう。
八尾の祭は、おわら風の盆以外に、八尾の八幡社の春祭り「八尾の曳山」があり、の曳山は井波の大工・彫刻、城端の漆工の技術の粋を結集した豪華な屋台造りの文化遺産である。
寛保元年社殿葺き替えの遷宮式に上新町が花山を出したのが始まりで、富山藩主から拝領した人形を神の依代として曳山の二階に安置したことにより曳山は人形屋台に定着した。曳山の一階にはお囃子があり横笛、太鼓、三味線を使用し雅楽調や長唄調のものがある。
聞名寺は、坂の町八尾中央にある浄土真宗の名刹である。南北朝の頃飛騨に創建され、永禄6年(1563)八尾町に移った。
井波の瑞泉寺と連契を取りながら、婦負郡に真宗の根拠地が聞名寺である。
八尾に出てくるまでに婦負郡の南部の農民を門徒化しいよいよ富山平野に打って出る地としたのが平野の南端にあり生産力の豊富な平野を見渡すことの出来る地「八尾」である。
飛騨と婦負郡を掌握した聞名寺は井波の瑞泉寺と一向一揆を起こし真宗王国への道をたどった。
蓮如は文明3年(応仁の乱の最中)吉崎御坊創建し、惣村の中心である、坊主・年寄・長(おとな)をまず門徒化して農民の深部まで真宗を浸透させ、門徒を増大させ、本願寺を中心に一大勢力として団結していく。
一般に真宗末寺は坊主であっても地方の有力地主である中小の名主であり村落土着の武士でもあったらしい。寺といっても在家を寺とし阿弥陀の絵像か名号を本尊とした程度であったが、信仰では指導的立場であり農民の先頭にたって活動した。それを束ねたのが、聞名寺と井波の瑞泉寺そして城端の善徳寺、高岡の勝興寺である。
城郭造りの各寺は一見の価値がある。
富山県では八尾の紙は特に有名で、優雅で、札入れ、懐紙入れ、書簡箋等で土産物として是非ご利用されたし。
八尾の町は「坂の町」といわれるだけウオーキングには適している。
町内の中央部を流れる井田川の河岸段丘に町が出来ている。町民広場近くの禅寺橋から見る石垣の上に街並みが素晴らしく風情ただよっており、一見の価値がある。
諏訪町は「石畳の町」として「日本百選の道」に選ばれた。諏訪町は道幅6mであろうか。軒と軒を接した旧市街が続き提灯に照らされる町は祭りの情調を盛り上げている。
諏訪町の近くに「曳山展示館」がある。
八尾の町は、造り酒屋、和菓子の店、和紙、骨董屋、道具屋、喫茶店等の商店が続き、この坂の町の家々の軒下に溝があり清水が勢いよく流れている。屋根や道の雪を流すための溝であり「エンナカ」と呼ばれる雪国の生活の知恵である。
小説の始めに゛水音が聞こえない゛と太田とめは足をとめた。越中八尾は水音の町なのだ。とある。
「酔芙蓉」
「風の盆恋歌」に出てくる花「酔芙蓉」は、アオイ科の落葉低木で別名「きはちす」と呼ばれ「芙蓉」の一種である。
朝に咲いた白い花が昼頃から薄く色づき夕方には紅色に染まり一日で散る花である。「風の盆恋歌」の中で題材とされて、八尾の人たちは丹誠こめて育てている。
私と妻の実家の玄関を出た庭先に咲いているのは奇遇である。
石川さゆりの「風の盆恋歌」
蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉
若い日の 美しい
私を抱いて ほしかった しのび逢う恋 風の盆
私あなたの 腕の中 跳んではじけて 鮎になる
この命 ほしいなら
いつでも死んで みせますわ 夜に泣いてる 三味の音
「風の盆恋歌」は、平成元年 第10回記念音楽大賞 大賞
同年 第15回日本テレビ音楽祭 最優秀歌唱賞
同年 第31回日本レコード大賞 最優秀歌唱賞などを受賞した。
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