砺波までの旅は、4月上旬新幹線の車中から始まり、車窓に流れる桜の旅であった。
京都では散る桜、琵琶湖の西岸を北上すると桜の生長を逆に見ることができる。福井を通過するときは今は盛りの桜、金沢に近づくと白きたおやかな峰 白山を眺めることができた。
金沢の駅舎はホーム全体を屋根で蓋ってあり、雪国にやってきた感じがする。これまでの旅では見ることの出来ない駅舎である。百万石の町「金沢見聞録」は又の機会に譲り列車の旅は続く。
石川県と富山県の境には、木曾義仲の火牛の計有名な倶利伽羅峠がある。
富山県側から石川県側に攻め上る義仲軍は一部の部隊を石川県側に大迂回させ夜半に山の上から牛の角に火の着いた松明を縛り、敵陣にめがけて解き放ち暴走させると、大歓声とともに切り込んで行った。
峠を越えると石動駅を過ぎ、いよいよ立山の国である。4月の立山連峰は春まだ遠しであろうか。
大伴家持の高岡は歴史の跡がここかしことあり、とても足を降ろす事が出来ずに、駅舎で過ごした。高岡駅から城端線に乗り換えるため1時間以上もの列車待ちであった。駅のホームには鋳物師の町に相応しい大きな鍋等の工業製品が誇らしげに飾られている。
城端線の車窓から見る風景は雪国を感じる。車窓から見える1000m程の連山は中腹から山頂にかけて雪の衣をまとっていた。
そんな4月の陽光うららかな日の午後、一人で砺波駅に降り立った。
砺波市はこれから9月の半ばまで過ごす町である。
太陽は暖かく、風はやさしく、のんびりとした町は、どこか揺ったりとして時間が止まったようにな町である。駅前は、ケバケバとしたネオンや派手な看板はない。だからといって、田舎の感じはしない。静かな落ちつきのある町である。
遊興を求めるには、場違いな町である。静かに雲が流れ時が過ぎていく町である。
砺波市
砺波市は散居村とチューリップの里として有名である。
砺波平野は、散居の村として知られ、家々の周りを「かいにょう」と呼ばれる垣根に囲まれている。各農家は100から300m程の間隔をおいてバラバラに建てられていて国内の一般的な村落の形態は見られない。
砺波は古来から八乙女山から吹く「いなん風」といわれる強風、台風、フェーン現象、冬の強風と豪雪から、個々の家々で立ち向かって行く必要から、強風の吹きつけてくる西・北・南の三方に杉を中心に欅、樫等の背の高い木を植え。
また、雪囲いの材料である竹や果実の採れるイチジク、柿、栗やクルミ等が見られ東側には垣根を低くしている。
杉等は冬などの防風林、夏の暑さを防ぎ、枝は燃料となり、幹は建築用材として活用されていた。
この垣根「かいにょう」と同じものは、出雲の「築地松」等が有名である。
散居村の起源は、一向一揆の団結を恐れ農民の集団化を警戒した。幕府の巡検使の眼から広大な耕地を隠す。庄川の氾濫の扇状地で自然に出来た。との諸説がある。
私としては、どうであれ景観の優れた砺波の散居を後生まで残し、私の眺めた鉢伏山からの夕日が水田に反射してあたかも水に浮かぶ家々。牧草地の根釧原野、穀倉地の黄金の海などロマン溢れる景色を伝えたいものである。
砺波の来てすぐに子供歌舞伎が砺波駅周辺の出町で行われた。
砺波では農村地区は秋祭りに重きが置かれた。町中は春祭りは神明社の子供歌舞伎の曳山が出され、曳山の上に設けられた舞台では小学生の男女が浄瑠璃や三味線に合わせて歌舞伎を演じていた。
現在砺波の子供歌舞伎曳山は、出町地区といわれる東・中・西町が交代で出している。
天明年間に始まった曳山は町の藏宿として栄えた鷹栖屋、小幡屋や不動島屋といった商人が負担した。元禄の頃に生まれた冨商たちが豪華な曳山を造るだけの経済的余裕を持つようになった。
曳山が町中を回るには、道路の整備も行われていなければならず、砺波の状況が想像できる。
大正7年水野豊三が種屋のカタログからチューリップの球根を見つけ日本で最初に咲かし球根栽培の研究を始め大正13年に仲間を集い球根組合を始めた。
昭和13年に初めてアメリカに3万球、翌々年には40万球を輸出したが、戦争が始まると生産が禁止されたが、畑の片隅でこっそり栽培し150の品種を守り通した。
戦後、球根栽培は多いに発展したがこれは先人の努力のがあればこそであり、輸出農産物・産業の花形として、農家の副産業として「富山のチューリップ」は有名である。
砺波平野はゴールデンウィークの前になると一面のお花畑に大変身する。
黄色・紫の絨毯は見事なものである。
砺波市内の一角にチューリップ公園がある。恋人と連休に、訪ねていただきたい。沢山の種類のチューリップが咲き乱れ香しく優美な世界に生きている幸せな時間を共有出来る。
福野町
砺波から城端線で3駅の福野町は私の5ヶ月にわたる生活の上での重要な町であった。
福野の町は散居の村であったが、慶安2年(1649)砺波郡本江村の阿曽三右衛門の発案で生まれた市場町である。
経済的価値の高い新しい町を作ることによって、商品貨幣経済の成長に乗っていく事にあり、生産力を近在の農民に与えるにあったようである。
慶安3年雪解けをまって野尻野追分に町割りが始まり四つ辻を中心に東西南北に道が延び奥行き25間町口三間三尺から8間3尺の屋敷地が決められた。翌年常願寺を含めて七軒が立ち嘉永4年(1851)に419軒となったそうである。
福野の産業は桟留縞(木綿)の生産と集荷があり、また年貢米の収納を二軒の蔵宿があつかい安定していたようである。
この福野駅から10分程歩くと福野神明社(祭神天照大神)がある。
福野の町が出来て数年後に大火があり、町の人たちは神仏の加護を求め慶安5年に伊勢神宮の分霊(勧進)を迎え福野神明社を創建した。分霊を迎えるときに倶利伽藍峠で日が暮れた。そこで福野の人たちは行灯をもって出迎えた。この故事に習ったのが「夜高行灯祭」である。
神明社の春祭り(5月1日から2日の深夜)は、この「夜高行灯祭」には30余りの夜高行灯がでる。行灯には武者絵が描かれ、赤色を主体に豪壮である。
行灯の町内引き回しが行われ、勇壮なお祭りであり行灯は一番大きい物は11mのものがあったが電線が町内に張られると高さは7m程におさえられた。
福野神明社には京都の北野天満宮の社前で阿国歌舞伎が行われている様子が描かれた「北野社阿国歌舞伎図」が保存されている。
福野駅から自転車で20分位の小高い丘の上に「やっすいの観音さん」と砺波の人に親しまれている安居寺(あんごじ)がある。
安居寺は、驚くことに養老2年(718)にインドから渡来した善無畏三蔵が創建したという。大伴の家持が越中守に赴く26年も昔のことである。
旅川と小矢部川を渡り参道を進み小川を越えると舗装された坂道を進むと右手の門をくぐると広い広場があり、しだれ桜と本堂そして庫裏がある。
先程の坂道をもう少し進むと苔むした石畳の先に仁王門をくぐるとミニ高野山の趣のある観音堂がある。
この丘陵一帯は砺波臣の墓などがあり公園となっており砺波の穀倉地帯、散居が目の前に広がり悠久の歴史を感じる。真言宗の名刹でありその雰囲気は落ち着き、軽いハイキング、歴史散策に最高である。
木造の聖観音立像(鎌倉末期作)、三枚の絵馬は前田利常が元和8年(1622)に奉納したものであるからスゴイの一言である。
砺波から南にバスで20分のところに井波町がある。
井波は明徳元年(1390)に創建された瑞泉寺の門前町として発達したが、平成の現在でも瑞泉寺を抜きにして語れない。
瑞泉寺は浄土真宗の名刹であり、一向一揆の拠点である。
井波の名物といえば、まず当代一の木彫りである。木彫りの技術の粋が瑞泉寺の門、柱、壁、天井等全て目に付く所にある。必見物である。
文禄年間秀吉の朝鮮出兵の際井波の大工肝煎与三右衛門らは肥前長崎において船を造り更に天正14年越中中山城普請をつとめ井波の地に土地などを与えられた。肝煎は金沢に移ったが与八郎は宝暦から安永にかけて瑞泉寺再建の時、京都の棟梁柴田新八郎をたすけて彫刻の腕をふるった。この家は田村を姓とし、番匠屋といって井波彫刻の宗家として多くの徒弟を養成した。
天保のころ松井角平がでて棟梁となり瑞泉寺の太子堂を建立した。
太子信仰の盛んな越中では特に井波の太子に人気があるのは、大工・彫刻の盛んなこの町で、職人の守護神としてあがめられているからであろうか。
田村・松井に導かれた井波の大工達は越中各地の寺社や八尾・城端の曳山等に技術の跡を残している。
江戸時代の寺社大工に起源をもつ井波大工は、近年になって欄間彫刻が盛んとなり帝展から日展へと打って出て評価を挙げた、日本一の彫刻の町である。
この木彫りは、欄間の最高品は7年から10年もの時間を必要とするそうである。
井波の名物に「落雁」があるそうである。
古く室町時代からの歴史をもつこの菓子は、瑞泉寺の門前町における、真宗王国の生んだものである。
「この菓子 白き上に 黒胡麻を蒔きたれば あたかも雪の上に 雁がねの 落来るさまなり」と、綽如上人がいったとそうである。口に入れ舌にのせると泡雪のごとく溶ける美味しいお菓子であるらしいが、私は食べていない。
でも、本当に美味しいと思うから、皆さん食べて見てください。
そして、私に土産として持ってきて下さい。
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