「富山県見聞録」

城端「麦屋祭」

 城端の町に訪れた、柳田国男の紀行文「木曾より五箇山」に、
 「城端は機(はた)の声の町なり、寺々は本堂の扉を開き聴聞の男女傘を連らね、市に立ちて甘藷の苗を売る者多し、麻の暖簾京めきたり」とある。
 城端の絹織物は善徳寺の寺内町・門前町として町が出来たときから始まった。と聞かされた。
 城端の町は、慶長年間(1648〜52)には、善徳寺を中心として、東上町、西上町、東下町、西下町、新町、野下町、大工町、出丸町などの11町が成立されている。元禄のの「組中人々手前品々覚書帳」には、総戸数689戸のうち絹に関わった者は375戸で、半数以上の家庭が生産・販売に関わり、加賀藩は保護政策を続け安政元年(1854)には5万9155疋(疋=布地二反、一反=二丈八尺=11m)となった。原料糸は五箇山及び福光の曽代(そよ)糸が用いられ、加賀絹として高い評価を受けた。
 城端は文化7年(1810)と明治31年(1898)に大火があったが絹織物は近代日本の富国強兵策の一翼を担い花形産業として、沢山の女工を雇い発展した。明治40年(1907)に柳田国男が城端に訪れた。
 まもなく手織りから力織機による産業革命が訪れ、増産の時を迎え昭和10年(1935)に城端の絹生産は39万1002疋となり、ピークとなった。そして絹生産は消長をたどり今日に至っている。
 城端には、貞享2年(1685)に神明宮の再建を機に始まった城端曳山祭りは、享保年間(1716〜36)に御輿、傘鉾、獅子舞、曳山等ができた。1719年に曳山が作られた。曳山は、城端の絹関係の豊かな商人、大工、塗師、人形師等の高度な美術工芸により作られ、道の整備も整えられていなければ出来ない祭りである。江戸時代の古い形式の祭りは、5月15日に神明社の春祭りで、10数本の曳山車、屋台が出る。曳山車は豪華な彫刻で飾られ屋台は京都の豪華な茶屋を模して絢爛・豪華・優雅である。
 城端は善徳寺の寺内町、門前町、市場の町、絹織物の町として栄え、五箇山との密接な経済交流や浄土真宗王国との関係があり、麦屋節を始め五箇山民謡も伝えられ、毎年9月15・16日の麦屋祭りは始まった。ここで踊られるものは、「麦屋節」「筑小(こきりこ)踊」「古代神」「といちんさ節」「お小夜節」等である。
 近年盛んになった行事で、私の友人で城端で育った人が誘ってくれた。
 善徳寺の境内において、五箇山を始め地方の麦屋自慢の競演が行われる。
 また、町内の若い男女による町流しが行われる。

 平成13年9月15・16日に麦屋祭りに出かけた。15日の土曜日に砺波からJR城端線で出かけ、夕暮れの福光の町を見学中に豪雨に襲われた。前触れもなく突然の豪雨であったため引き返しざるをえなかった。
 16日再びJR城端線に乗車し城端町の「麦屋祭」の見学に出かけた。
 列車が城端の町に近づくころ、私はふいウトウトと微睡みアナウンスに立ち上がってみると、不思議なことにある一団の中に居た。
 一団はトボトボと歩いている。一行は落人の様に鎧・甲に折れ曲がった矢が刺さり、俯きながら歩く集団の中を私も歩いていた。
 話し声から少しずつ判ってきた。一行は壇ノ浦の戦いに破れ山陰道を徒歩や日本海を船で逃れてきた平家の落ち武者達である。
 深山の渓谷を辿りつつ、年老いた人、美しき女官の群れを傷ついた武者達達が前後を守っているが、一行の流す涙に、小矢部川の水は勢いを増し、源氏に味方する落ち武者狩りを遮り、無事峠を越えて庄川のほとりに辿り着いた。追っ手は小矢部川の濁流に流されたものと思いこんでしまった。
 落ち武者でも、天下を収めた平家の一族である。歌も踊りも見事なものであった。一族の中に「平の紋弥」がいた。紋弥が歌う「波の屋島を遠く逃れきて、薪樵るてふ深山辺に」落ちる涙でなお歌う。「烏帽子 狩衣(かりぎぬ)脱ぎ捨てた 今日越路の杣やかな」
「心淋しや 落ち行く道は 河の鳴る瀬と 鹿の声」つい私も貰い泣き。
 紋弥の歌は、格調高く平家の残党の心に残り歌い継がれ、人々は「紋弥節」として称えつつ時代は流れた。
 五箇山は庄川の上流、飛騨との境に近く平、上平、利賀の三村であり砺波平野や飛騨への交通が困難で古来、孤立性が強いといわれていた。交通が困難で平家の落人が長く自分達の文化を保つことが出来た。ということから平家落人によって開かれたという伝説が生まれたのはご理解いただけることでしょう。
 川の流れが途切れることなく幾年月流れたであろうか、元禄(1688〜1704)の時上平村小原に能登輪島の遊女「お小夜」が流されてきた。「お小夜」何時しか私と恋仲となり、加賀藩から許され、「お佐代」と改名し私と夫婦となった。「お佐代」はこの歌を発展させ、「麦や」と始まったことから、「麦屋節」と言われ始めた。
東砺波郡上平・平・利賀の村々は五箇山いわれ、平野部と隔絶した山村であり、平家の残党が定着し、幾多の古い民謡を伝えている。「麦屋節」は特に格調高く、かつ土の香りもあって、いかにも平家伝説にふさわしい。

「麦屋節」
   麦や菜種は 2年で刈れるが    麻が刈られりょか 半土用に
   波の屋島を遠く逃れきて       薪樵るちょう深山辺に
   烏帽子 狩衣うちすてて       いまは越路の杣屋かな
   心淋しや 落ち行く道は       河の鳴る瀬と 鹿の声
   河の鳴る瀬に 絹ばたたてて    浪に織らせて 岩に着せよう
 (はやし言葉)
   小谷峠の七曲 昼寝しょんなら よいとこじゃ

  小谷峠の七曲 猪豆食って エヘホノホイ
      大野の権兵衛は 色こそ黒けれ 名代の男だ 
  オーソコソコソコ 三里もおいそに 鉢叩くよな
      天井板はじけるよな

 というように。
 我が「お佐代」が伝えた歌を、輪島の「漆掻き」や「塗師」が伝えたともいうやつがいる。
 また、「お小夜」は村の青年「吉間」との悲しい恋の末、庄川の淵に身を投げ28歳の生命を絶ったので、吉間は四国33番のお札所を巡拝して終えたと伝えられるが、「お佐代」今も生きて私の側にいる。今は300歳と少し。
 だが、上平村小原の「お小夜塚」は、哀れな遊女の菩提を弔うために建てられた。
 「お小夜節」は、遊女お小夜の悲しい恋物語を歌ったものである。
 城端の善徳寺で麦屋祭りの「のど自慢」大会で五箇山地方の民謡の競演が行われていた。
 民謡の宝庫といわれる五箇山は、麦屋節の本場である。
 五箇山の麦屋祭りは9月26日は白山社境内で、自慢ののどを聞かせてくれる。

   

 「古代神」は五箇山三村で、麦屋節についで重要なレパートリーで、飛騨白川郷でも盛んに歌われている。「小大臣」ともいわれ越後の「新保広大寺」の系統をひき、江戸時代中期に五箇山に入り明治の頃には製紙の作業歌として歌われ軽妙な楽しい歌である。
    「古代神」
    おらっちゃサイ お背戸に 山椒の木がござる
    そのマ 山椒の木に 蜂が巣をかけた 蜂も蜂かよ 長足蜂よ
    羽根が四枚あって 足が六本ござる
    そのマ 蜂めは尻に剣もござる わしとお駒が御拝の縁で
    心中噺をしておりました そこえ蜂めが ぱっと来て 
    チクリと刺す ツーツと来ては チクリと刺す
    わしもその時や 死ぬかと思うた サーイー

    赤いタスキを チョイチョイかけて 背戸の 小川へ 朝水くみに
    船の船頭サに 晒布(サラシ)三尺もろた なにに染めようかと
    紺屋の兄さんに問うたら 一に朝顔 二に杜若(カキツバタ)
    三に下り藤 四に獅子ぼたん 五にい山の千本桜
    六にむらさき桔梗に染めて 七つ南天 八つ八重桜
    九つ小梅をちらしにそめて 十ォ殿御の好きなように
    そめしゃんせ サーイー
 軽妙な歌に秘められた中にはさっぱりとした乙女の恋心が有るように思われた。苦しい労働の中で働く女工達と青年との恋が囁かれたのではないだろうか。

 「北国巡杖記」にこの「筑子踊」のことがでているそうである。
 鍬金・太鼓・笛等ではやし、七・八寸位の竹を綾織り、手玉にとる等の曲芸をし、打ち鳴らしたりする。この竹を”小切子の二つ竹”と称するところからコキリコの名がある。

   

    「こきりこ」
  筑子(こきりこ)の竹は七寸五分じゃ
   長いは袖のかなかいじゃ    (はやし言葉)マドのサンサもデデレコデン
           ハレのサンサもデデレコデン 
   向かいの山に啼くひよどりは 
  啼いては下がり 啼いては上がり
  朝草刈の眼をさます 朝草刈の眼をさます
  向かいの山に光るモン何じゃ
  星か蛍か 黄金の虫か
  今来る嫁の松明ならば 差上げてともしゃれ 優男
  踊りたきゃ踊れ 泣く子を起こせ 
  ささらは窓のもとにある
  向かいの山を かつごとすれば
  荷縄が切れてかつがれぬ
 
 西の麦屋節に対して、東に八尾の「おわら節」がある。