元 谷 小 屋 の 夜

 スキー客で喧噪の大山寺の集落から、元谷の小屋をめざして、吹雪の夜、山道を一人で登っていく。
 通いなれたいつもの山道だが、登るにつれ多くなる雪に苦しめられる。

 大神山神社の境内で、ザックを下ろし風雪を避ける。身体から湯気のように水蒸気が発散している。一人のボッカは、夜道と吹雪で一段と厳しいが、神社で半分の行程が終わった。と思うと気分的に楽になった。
 夜の帳の中に溶け込むように、神社を後に杉の林に入っていくと、風が幾分和らぐ、道標の導くままに急坂の登山道から林道に出る。一段と風が強くなっているが、それ以上に私のあえぐ息のほうが強くなっている。
 林道が大きく回る場所まで来ると、いつも大山に帰ってきたと、実感する。月夜には幽玄の山水画のような北壁、氷の天狗沢、雪の着かない屏風岩、別山の胸壁が圧倒してくるが、今夜は吹雪の夜とあって、残念ながらかいま見ることも出来ない。
 林道の終点から吹きさらしの沢の中に出る。元谷の小屋まであと少しである。沢を真っ直ぐに横断するとガレの堤を越え林の入る。林の中央を進むと石垣に突き当たり、今後の登山のベースになる元谷小屋に着いた。
 入口でザックを下ろし、ヤッケの雪を払うと小屋の中に入った。土間は8畳程で石畳になっている。暖炉があり、壁から天井は一面霜の結晶でカンテラの明かりでキラキラ輝き氷の御殿に迷い込んだようだ。
  土間から右手のドアを開け入っていくと天狗の間で、広さは四畳半くらいである。左手のドアは三鈷の間で、縦長く10畳位である。
  天狗の間にザックをおろし、ナイロン袋を取り出すと持って雪の中に出ると食事用の雪を取ってくる。
  部屋に残っている一升瓶の上にローソクを立て燭台を作る。ガソリンコンロに圧を加えて、メタにより加熱して火を付けると、水を作るため、コッフェルを掛け雪を入れる。
  水にかわるまでにザックから登攀具を取り出すと、壁に掛ける。ヘルメット、ザイル、ピッケル、アイスバイル、アブミ、カラビナを壁に掛ける。羽毛服を着込むとシュラフの上に座り込む。
 コンロの火を眺め、麓で買った安物のブランデーをシュラカップに注ぐ。コンロで暖める。山小屋の夜に琥珀色した液体は、不思議な気分にさせてくれる。
  液体は今宵の恋人であり、生活の全てである。現実の世界から逃避し、遊離し、ゆらりゆらり、揺れるローソクの灯火が室内を覆い尽くしている氷の壁に不思議な感覚を覚える。
 明日の登攀を考え、友を思い浮かべる。男は感覚と想像で生きる動物である。頭の中に思い、想像で幸せになれる動物である。魅惑の液体が体内を走り回ると、その思いが倍加される。
 大きな登攀の前に飲酒することは、危険な飲み物になるが、興奮する脳を紛らわすには必要な場合もある。
 元谷小屋に、幽霊伝説があり、天狗の間には、安全バンドを着けた幽霊が出た。月明かりが窓を照らしたある夜、夜半に壁にあらわれ、静かにたたずんでいた。この幽霊を数名が同時に見ている。
  小屋の中に残っていた遭難者の寝袋を手に取り眺めた者だけが、天狗の間の入口左手の壁に現れた幽霊を見た。この壁は月の光が差さない壁である。
  三鈷の間にも現れ、天井裏に通ずる穴から覗いていたという。
  だから、アルコールの力を借りたのかも知れない。
  天狗の間はキラキラの氷の部屋。振り返り見る壁も、窓も仰ぎ見る天井も御殿のようである。しかし現実のディナーはラーメンとウインナーの串焼きである。
  ローソクを燭台から下ろし、皿の上に置く。小屋の中に残ったローソクを集合させると、次々に火をともす。コンロを消して、静寂の夜を楽しむ。
 夢幻の空間。無限の時間。
 ザックの中に半シュラフを差込み、上は羽毛服、下半身は半シュラフ、寝込みつつ、そして飲む。何時しか眠り込み、ロウソクが消えると急激に室内の温度が下がり寒さが襲ってくる。真夜中に何回目が覚めるのか、晴天の朝ほど恐ろしい寒さがやってくる。
 厳冬期の山小屋は、エキスパートにのみ与えられる、許される。
 大自然の小さな山小屋、楽しい山小屋。寒く厳しい山小屋
 山小屋の夜は静かに過ぎていく。             61.10.22 2300 記す

 私達が愛した元谷小屋は壊され、別の台地に新しい2階建ての小屋が建っている。クライマー好みの山小屋でなく、和む小屋に変わっている。