むかしむかし、伯耆国河村郡に小さな村がありました。
村の中をきれいな小川が流れ、楽しく遊ぶ幼子や暖かく見守る優しいお母さんお父さんそしてお爺さんお婆さん達がそれはそれは平和に暮らしていました。
ある日、村の若者は山の仕事に出かけることにしました。
お爺さんは、山の上にあるきれいな泉の水をお婆さんのために汲んできて欲しいと頼みました。
若者は山の仕事が終わり、お婆さんの水を汲もうと、いつも行っている山の上の泉に近づいていきました。
泉に近づくと、何ともいえない香しい匂いがしてきました。
若者は、匂いにつられて近づいていくと、匂いは泉のほとりからするでは有りませんか。泉のほとりの大きな岩の上に、これまで見たこともない美しい衣がおいてありました。
若者は、お婆さんに持って帰ってあげようと手に取ったとき、水浴びを済ませた娘が現れ「私は天女ですが、その羽衣は私にとっては大切なものです。どうかお返し下さい。」と頼みましたが、若者は天女の美しさに見惚れてしまいました。
若者は「返してあげるから、私のお嫁さんになってください。」といって、羽衣を懐に入れ、お婆さんの水を汲むと、山を降りてしまいました。
天女は、仕方なく山を降り若者の後に着いていきました。
天女は若者のお嫁さんになり、可愛い二人の子供をもうけました。
幸せな年月が過ぎて行きました。母になった天女は子供に鼓や笛を教えてやりました。子供達はそれは見事に奏でるようになりました。
子供も大きくなり、父親となった若者は、子供達に羽衣を見せ、誰にも見せてはいけないと念押しをしました。
天女は幸せな生活が続くにつれ、幸せに暮らしていた天の父・母との生活が思い出され、ふと泣く日が続きました。そんな母を見て、子供達は悲しくて貰い泣きしていました。
あまりにも悲しむ母の姿を見て、子供達は納戸の奥の葛籠に隠されていた羽衣の在処を教えてしまいました。それからの天女は一人になると羽衣を取り出しては、また泣き崩れる日々が続いていました。
天女が、羽衣の在処を知ってしまったと気づいた夫は、子供と天女を招いて、「約束した羽衣を返してあげるときが来ました。天の父母が恋しかろう、明日の朝、天に帰ってあげなさい。」
年に一度は、子供に姿を見せることを約束させました。
翌朝、天女は羽衣を身につけると子供と夫の見ている所で、天に昇っていきました。太陽の光を受けた七色の虹橋を登って行きました。
子供達は虹の橋を追って走っていきましたが、とうとう大きな川の側まで来た所で母が天に消え、虹も消えてしまいました。
次の年の春になると子供達は、川の側にある山の頂に登り、音楽が好きだった母の天女に聞こえるように鼓を打ったり、笛を吹いたりして天女の母を待っていました。子供達の鼓や笛の音が山々に響いていました。
その後、子供達の姿は誰も見てはいません。天女に連れられ天に昇ったのか、それから後のことは誰もわかりません。
でも、山の上からは何時までも子供達の鼓や笛の音が聞こえ、誰ともなくこの山を「打吹山」と呼びはじめました。
打吹山の麓の村は、鼓や笛の音が聞こえ、大変くらしよい村になり、「くらしよし」と呼ばれましたが、いつしか鼓や笛の音も聞こえなくなりました。
天女と虹の消えた大きな川は、天の神様に続く川として「天神川」と呼ばれました。
一人になった天女の夫は、天女と初めて会った泉に行き、羽衣を見つけた石の上に座り続け、天女との生活を懐かしんでいました。
誰ともなしにこの石を「羽衣石」と呼び、天女と暮らした村を「羽衣石村」と呼びました。
天女の泉(羽衣池)は、何時でも天女が水浴びすることが出来るように、大旱魃(かんばつ)でも水は涸れませんでした。
昭和59年8月15日から雨が降らなく二十世紀ナシの影響が出始めた9月1日農協職員や地元民達30数名が天女の泉に集まった。
天女の泉の水を汲み出すと、大雨が降るといわれていたため、この泉の大掃除をはじめ約1時間で綺麗になった。
2日後に、雨が降り始め農作物には恵みの雨になったという。
東郷町の民話を参考に創作しました。
それでは、天女伝説の「羽衣石」を訪ねてみましょう
羽衣石は、鳥取県東伯郡東郷町にあります。
東郷町は、「湖」「温泉」「梨」「中国庭園」そして「俺の実家」があります。
4月には、梨の花が満開となり湖面に花びらが舞っています。
5月には、伯耆一の宮のお祭り
6月には、「菖蒲の花」が咲き見事です。
7月は、水郷祭「花火」と「浪人踊り」
「浪人踊り」は、南条氏の一味が流浪した時に踊った。
8・9月は、梨の出荷、梨狩り
等と、列挙に困らない大変な観光名所であります。
東郷町には大きな湖「東郷湖(池)」があり、その湖に注ぐ羽衣石川の上流、山間の静かな集落が「羽衣石」です。
この羽衣石集落では「羽衣」伝説がありました。この羽衣のあった山は、色々な名前で呼ばれていました。
「崩厳ノ山」−−−「伯耆民談記」によると、北朝の貞治(じょうじ)5年(1366)には、「崩厳ノ山」と呼ばれていたがこの山に城を築いた南条氏が凶名を嫌い、「拾遺和歌集」の「君が代は天の羽衣まれに着て」にちなんで「羽衣石」と改名した。
「上石ノ山」−−−山の上にある大岩石群を、「羽衣石」伝説に見立てて「上石(うえいし)ノ山」とし、のちに「うえし」と、つまり「羽衣石」となった。
江戸期の記録には、羽衣石集落は「上石村」と呼ばれていた。
天女の泉は、羽衣石山の中腹にあり、約10平方mの池である。
羽衣石城
戦国時代になり、出雲守護職佐々木塩冶氏の一族の南条氏が、この山に城を築き羽衣石城となり、幾多の戦いが繰り返されたが、最後は、豊臣秀吉により4万石の大名になった。
関ヶ原の戦いでは、西軍に組みしたために徳川家康により領地没収となり、城も廃城となり十代250年の栄華であった。
本丸は、標高360mの羽衣石山にあり東西66m南北20m、この他に、本丸を中心に数十の郭があり戦国時代の山城として見るべき価値がある。
血の出る松の木
羽衣石の本谷地区の裏山に、樹齢数百年と思われる松の大木があった。その根元に一つの五輪塔があります。
天正年間、羽衣石城主南條元続の時代は、毛利氏との間に合戦が相次ぎました。ある年羽合平野における激戦に撤退を余儀なくされた南條方は、門田、長和田、羽衣石と後退し、籠城態勢に入りました。
その中でただ一人本谷に踏み止まり、敵中に馬を乗り入れ、刀を振り回し奮戦した武将がいた。しかし寄せ手は多勢、とうとう片腕を切り落とされてしまったが、それでも気丈に戦いを続けましたが、ついに気力が尽き小さな松の根元で息絶えてしまった。
戦いのあと、城主南條元続はこの武勇にいたく感じ、その場所に屍を丁重に葬り五輪塔を据えた。
この小さな松は年々大きくなり、見事な大木となったが、昭和10年ごろにある人がこの松の枝を切ったところ、切り口から鮮血が滴りおちた。
この松の木は、残念ながら昭和50年代に松くい虫の被害にあい枯れてしまった。
(東郷町報61年4月より)
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