鳥 取 県 の 歴 史

  役小角が美徳山「投入堂」を造った。」
   慶雲3年(706)美徳山に立寄った、役小角は三仏寺を開創した。三仏寺奥の院「投入れ堂」は、役小角が組み立てて法力により山頂近くの岸壁の岩窟に投げ入れた。
 しかし、三仏寺という寺号は、嘉祥2年(849)慈覚大師によって名付けられたという。慈覚大師は、本堂を創立自ら釈迦・弥陀・大日の三体仏を安置し、大山におもむいたという。奥の院の造りは、平安末期の建築様式を示す懸造り(舞台造り)の国宝建造物として山岳仏教の粋を示している。本尊は胎内に仁安3年(1168)の名のある座像権現像が入っていたという。だから、役小角の時代には「無かった。」とか「もっと小さいものだった。」と言う人がいる。
  700年もの昔には、クレーン、ヘリコプターも無くて、どうしてあんなに大きなものが、断崖絶壁、洞窟の中に作れよう。やはり「法力」しか無いのである。
 役小角は本当に「投入れ堂」を投げ込んだが材料が粗悪品であり、400年たった1100年代に腐り始め、お寺の住職や民達が現地で組み立てたのである。これ本当、狂言綺語ではない、私は役小角が法力を使っているのを見ていたのであります。
  三仏寺は900m前後の山々で囲まれた美しい谷の中にある。三朝温泉から車で登っていくと耕地がなくなり、谷沿いに登って直ぐに売店があり、「豆腐」の看板がある。ここで下車し、木綿豆腐に生醤油をかけて、食べていってもらいたい。
  石段を登っていくと、皆成院、正善院、輪光院そして三仏寺とお寺さんが続いているが、役小角が三仏寺を開山してから、大山と並ぶ霊場として修験者(山伏)を沢山集め、何十という僧院があった。
  比叡山、高野山などには、正規の僧が居て、学問をして僧衣僧階を受け中央とつながっていたが、諸国の山々には非僧非俗の山伏等が居た。山伏等は仏教渡来以前から山岳信仰をもち、山の自然の力(嵐)に触れることによって、六根を清浄しようとしていた。「六根清浄お山は晴天」と言いつつ登っていく山岳宗教・登山は、嵐に対する敬意と恐怖に自分を重ねていたのだろうか。
  山伏は、密教教典や密教仏を奉じていたらしく、密教に近いものをもち、山に霊があるとし、そういう山々を探しては「山(せん)」と呼び、付近の集落から財を集めては「堂」建てた。そうして美徳山という山々で生き続けたのであろうか。
  38寺49院を数えたが、1100年後半の僧兵の戦いによって多くは焼失してしまった。
  美徳山は、今日「三徳山」といわれている。
  三仏寺の奥にある沢から奥が、行場となり、急な泥壁を登り、樹の根っこ、カズラ、クサリに助けられ登っていくと、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、馬の背、牛の背と進み一枚岩を回ると始めて、懸崖の中に「投入堂」を見る。
 恐ろしい断崖の上に建てられた「投入堂」は、やはり投げ入れたのだ。