俺たちのゲレンデには変わったルートがあった。
初めて連れて行ってもらったとき、田んぼのあぜ道を歩き廃線の土手を登り、まだ線路が残っているトンネルに入った。暗いトンネルの中はレールのかすかな光を利用して歩いていった。なぜこんなところを歩くのか不安だった。そしてザックを降ろして登攀の準備を始めるのが不思議だった。
トンネルの入口から10mほど入った地点から登り、ハングの壁を登るようにアブミの付け替えで進んでいく。このアブミの付け替えと、空中での姿勢で体力を消耗すると、トンネルの出口で体力を消耗しギブアップとなる。トンネルの出口ピンは15センチの位置で、アブミの一番高い付近に乗り腹筋とバランスなどで微妙かつ強引な体力勝負で乗り越していくが、出口ピンの上のピンに手が届くか微妙な距離あった。ホールドはまったくない、コンクリートの壁だった。
ルートは2本あり、入口に向かい右側のルートに取り付いた。トップはTMが登り、次に俺が取り付いた。誰かのアブミを借りてスタートしたが、3mほど登ったときに落ち、宙ぶらりとなり、なすすべも無かった。TMがザイルを緩めて地上に降り立った。
落ちた原因は、靴の土踏まずの部分にトリコニーかムガーという金具があり、アブミの上で滑り体制を崩した。当時の普通の登山靴にはムガーやクリンカー、トリコニーの金属が打ち付けられていた。その夜、全ての金具を抜き取った。
左側のルートは右より間隔が遠く一段と難しかった。ブランコの上に座り、厳しい姿勢で打ち続けた、ルート開拓には敬意を表したい。
現在の国道184号線の宇比多伎(ウイタキ)トンネルの下に「一畑電鉄立久恵線跡」の「桜トンネル」があり、このトンネルにわれわれのゲレンデがありました。
われわれは「トンネル」と言っていたが、正式には「一畑電鉄立久恵線桜トンネル」である。
誰がこんなルートを開拓したのか。それは松江クライマーズクラブの狂ったやつらだ。その当時の様子をアウトドア菊信の社長が次のように書いている。
1968年の春、松江市内で山道具を探して偶然入ったのが、竪町の「Mスポーツ」。店の奥から眼光鋭い青年が出てきた。敏捷そうな体躯。
M戸氏だった。日曜日に松江郊外、岩坂、切通しのゲレンデでクライミングをすると聞いて、俺は二つ返事で、参加を申し込んだ。楽しいクライミングの一日が終わる頃には、俺は「松江クライマーズクラブ」のメンバーになっていた。次の週末は、出雲、知谷ゲレンデに行く事になった。神戸川の川岸に40mの高さで聳える岸壁らしい。嬉しくて、週末が待ち遠しかった。
国鉄出雲駅からバスで向かった先は、トンネルだった。昔、立久惠鉄道というのが走っていたが、当時すでに廃線になって、軌道跡とトンネルだけが残っていた。多くのトンネルは農家の倉庫代わり等に使われていたが、一部そのままになっているのもあり、そこに目をつけたのがMCC(松江クライマーズクラブ)だ。トンネルの天井裏にボルトを打てば、素晴らしい人工登攀ルートになる。と言う訳で暗いトンネルの中でボルト打ち作業が開始された。一本打つのに20〜30分はかかる。これを20本くらい打ってトンネルの天井を出口に抜けるのだ。
当時世界中の登山界は人工登攀が大はやりで、確か国内では谷川岳コップ状岩壁正面の初登攀争いで初めて埋め込みボルトが使用され、これを使えば不可能なルートは無くなっちまう。荒っぽい道具が登山界に持ち込まれたものだ。元々はアメリカ、ヨセミテの大岩壁エルカピタン、ノーズのウオーレン・ハーデイングによる初登や、フランスのドリユ西壁でギド・マニョーヌに使用されたのが最初だろう?当時もフリークライム派と人工派の間でかなりの葛藤があったらしい。結局フリーでどう頑張っても登れないブランクセクションに打つボルトはやむを得ないという事になったらしいが。当時はデイレッテイッシマという言葉も流行り、先鋭的?なクライマーは定規で引いた様な一直線のルートを作ったものだ。これもボルトがあったればこそ。アイガー北壁JECCルートなど典型的なものだ。しかし、次第に登山界にそのような行為に対し疑問を呈する人達が増え、現在では、そんなルートを登る者はいなくなって、ボルトも朽ち果てている。ちょっと下らぬ事を書き過ぎたが、そういう訳で田舎クライマー達も時代に後れてはならぬと、トンネル工事が始まったのだ。しかしMCCのメンバーが人工オンリーだった訳ではなくて、フリーで行ける所は出来るだけフリーで、人工でも出来るだけA0といって、アブミを使わない様、心がけていた。このおかげで、我々は人工登攀には、絶対の自信を付けた。後に穂高屏風岩東壁の緑ルート等のクライミング(当時の6級ルート)は楽勝だった。今では垂直のハイキングコースと揶揄されるル−トだが。 (「アウトドア菊信」のホームページから)
トンネルで墜落した翌週から出雲山岳会の一員となった。
トンネルの近くにある知谷橋のゲレンデは、出雲市からバスで15分の所にある。旧採石場を利用したほぼ垂直な岩壁である。ブッシュは無くすっきりとしていた。左からハングルート、人工ルート、スラブ、九ノ字ハング、孔雀、獅子岩、凹角ハングなどがあった。一番易しいルートでもW級であった。
トンネルから落ちてからは、基礎訓練が始まった。まず、ゲレンデの下で、トラバースを徹底してやらされた。地上から30センチの部分を右から左、そして左から右と移動し、次は50センチ、60センチの所でとやらされた。手がかり、スタンスの求め方、利用方法などみっちり仕込まれた。ゲレンデに出かけてザイルパートナーが居ない時は、一人でトラバースの練習をやり、数mほど登っては下る練習をやった。
数週間後、トンネルに行ったが出口の部分で登れなくなり、またザイルで地上に降ろしてもらった。苦労させられた「一畑電鉄立久恵線桜トンネル」だった。
トンネルの全長は246メートルもあった。だが、このルートは道路工事の為埋められ今は誰も見ることができない。
一畑電気鉄道立久恵線は、出雲今市(現:出雲市)〜出雲須佐間延長18.7kmで11駅(起終点駅を含む)で、当初は陰陽連絡鉄道を目指し、大社宮島鉄道という社名を付けた。名前のとおり出雲大社と厳島神社を結ぶという社名をつけ、出雲から三次(広島県)間91.7kmに鉄道を敷設する計画であった。三次を終点としたのは当時すでに芸備鉄道(現在のJR芸備線)が広島から三次まで開通していたので、それと結ぼうということであった。
出雲須佐からは険しい地形、資力の乏しさ、昭和恐慌、沿線人口の少なさ、鉄道省鉄道計画(木次線や庄原線)により計画中止となった。出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず大社宮島鉄道は陰陽連絡をあきらめ、免許も失効のやむなきに至った。社名も出雲須佐〜三次間73.0kmの免許失効後間もなく昭和13年に出雲鉄道に改称し一畑電気鉄道に昭和29年吸収され、「一畑電鉄立久恵線」となった。
昭和39年7月18日深夜の集中豪雨によって島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨で路盤が流出したことを契機に復旧されることなくそのまま翌年廃止営業は中止され、そのまま廃線へと追い込まれていった。駅は、出雲今市駅、古志町駅、馬木不動前駅、朝山駅、桜駅、所原駅、殿森駅、立久恵峡駅、乙立駅、向名駅、出雲須佐駅の11駅で、保存車両は、米子市の元町商店街の広場に木造客車が1両だけ保存されている。イギリス製で、関西鉄道→国鉄で使われた後に一畑電鉄立久恵線で使用され、更に日ノ丸自動車法勝寺電鉄線に転用されたため、米子市にある。
トンネルは、山の質が悪かったようで,「湧き水によってドロドロに溶け出して崩落し,乾燥すると岩石のように硬くなるという独特な性質に悩まされ,坑口の崩落が続き開業直前までかかる難工事であった」(祖田定一「神々の里に消えた鉄道」から引用)そうである。
その後、一畑電鉄立久恵線が廃線となり、島根県によって「桜トンネル」を2車線の道路に拡幅する計画で工事が始まったが、土質の悪さから崩落や出水のため工事は難航し、崩落で生き埋めの死亡事故が発生したため工事は変更された。「桜トンネル」は埋められ、法面の安定を図った後に、トンネルの上にコンクリートの宇比多岐トンネルが建設されて、両側からの土圧を支えている。そのため開通が予定より数年遅れたそうである。
30年振りにトンネルを探しにいったが、入口が発見出来なかったのも無理は無い。宇比多伎トンネルは峠越えのトンネルではなく、峠越えの市道が神戸川寄りにあります。1車線の短いが趣のある道です。
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