立山古道を訪ねて(立山曼陀羅の旅)

 立山古道は、立山の開祖とされる佐伯有頼が鹿を追って、立山山中に入り込んだ道がおもに歩かれている。
 その道は、岩峅寺から芦峅寺を通り藤橋から千寿ガ原、材木坂を登って弥陀ガ原に一ノ谷、畜生ガ原、鏡石から天狗平、室堂から雄山に達していたものとされている。
 有頼は大宝元年(701)に熊に出会い、矢を放つと命中し傷つきながら山中に逃げ込んだ。熊は玉殿の岩屋に逃げ込んだ。有頼は追いかけて入ると、熊は阿弥陀如来に化身していた。驚いた有頼は殺生の罪を悔い、僧となり慈興と号して頂上に雷殿を築き、室堂を建て、道を切り開き立山を開山し83歳で亡くなって。

 富山地方鉄道に乗ると、有峰駅で下車する。
 有峰口駅は薬師岳登山の駅として多数の登山者が改札口を通過していった。
 「そうなん死して 1年のすぎしいま 吾子と見まがう 山男たち」
「そうなん死の 我が子思いて 冬山の 姿もときめきぬ 小見駅」
駅舎に牛田てる子さんの詩がかかっている。
 私の立山古道の旅は、この小見の駅(有峰口駅)から始まり、平成13年4月から9月立山縦走までの間、数回に分けて旅を続けた。時期は前後し、下りつつ書いた記事を、登り続けたとして書きつづって行きますのでお付き合い下さい。
 ここ有峰口駅から薬師岳の登山口に続く道を500m程登った山中に越中七金山の一つ亀谷(かめがい)銀山があり、前田利家から徳川に「花降銀」が献上されたが40年程の歴史しかなかった。
 駅舎を出ると常願寺川に架かっている大きな芳見橋を渡ると40m程下の河原に高さ22mの本宮堰堤があり、500万立方mの沢山の土砂を留めているのが見え、橋の上からは立山連山が見渡せる。
 

 岩峅寺から千垣、そして立山に通ずる県道6号線立山街道を登っていくと、雪解け水がゴウゴウと音を立てる庚申谷川をわたる。庚申谷川は三途の川である。三途の川の左岸に死出の山(死後の世界)がある。立山芦峅小学校を巻くように旧道が走り「六地蔵」がある。「六地蔵」は、地獄、畜生道、餓鬼道、修羅道、人道、天道を司る地蔵をいう。
 「死出の山」は、亡き人の霊は死後7日以内に閻魔大王の前に出頭しなければならず、この「山」越え、「三途の川」を渡る。人間が死後の世界に行く途中の「三途の川」は生前の業の軽重により渡る深さがあり、膝下、腰まで、肩までの深さを進むそうである。
 岩峅寺にある雄山神社の前立社前から続いていた6番観音立像は三途の川の右岸に、7番観音立像は小学校の上手にある駐在所の前にあり室堂まで33体あった。大洪水による流失と盗難のため数を減らしている。ここでは駐在さんが観音立像を守るようにある。
 水田の中を歩くと正面に大きな山がある。地元の人に尋ねると誇らしげに「立山だ。」と返ってきた。

 

 芦峅寺の集落に入ると、立山杉の森の中にある雄山神社の鳥居の前に立った。
 雄山神社は立山中宮寺の中心施設であり、江戸時代の頃にはこの地域には、御前立の大宮・若宮の権現両宮、講堂、閻魔堂、うば堂、帝釈堂、大門、仁王門、鐘楼堂、布橋等の堂塔が建ち並び33の宿坊が集まり一大宗教集落を形成していてが、明治の神仏分離令により仏教的要素は排除された。講堂は祈願殿となり、大宮、若宮を残すだけとなった。
 神社から慈興上人(佐伯有頼)の開山堂に参り、立山博物館の見学にいく。
 観覧料300円の大枚を叩いてまず3階の展示室では、立山信仰の源を探る。「立山信仰」は人々の立山周辺の大自然への大いなる畏怖により、開かれた信仰の場であり、人と自然の長い間の歴史の中培われたことを、私は悟ってしまった。
 2階の展示室は曼陀羅の世界でる。
 2階に展示室で私は見てしまった。私の死後の世界を。閻魔様に裁かれ堕ちていく地獄で苦しみ針の山『剣』に投げ込まれ、喜々として源治郎や八峰、チンネ、池ノ谷の登攀を楽しんでいる私がいた。
 展示室を出るとかつての三十三宿坊の一つ「教算坊」を訪ねる。
 宿坊は、全国からの参詣者の登拝の拠点で、宗教的儀式や登拝者のための宿泊、登拝案内等を行った、現代版「仏教ホテルで宿泊、アルパインガイド付き美味な旅と曼陀羅を体験するツァー」であった。
 「教算坊」は、摂津、難波、越前等に布教の教区(檀那場)を持ち、信徒を立山詣に誘い自分の寺に誘っていた。
 私の出身地『因幡』は長覚坊であり、等覚坊は『陸奥』、宝珠坊は『出羽』というようにはっきり決まっていてそうである。幕末には1年に6000人くらいの人が登っていた。
 教算坊を出ると8番観音の前から県道を横断し住宅地を下っていくと、数段の石段を上がると閻魔堂がある。
 閻魔堂から右手に下ると9番観音そして「天の浮き橋(布橋)」がある。

 江戸時代には、彼岸の中日に女性だけの「布橋灌頂会」が行われ、橋渡りの舞台となった。この「布橋」は、この岸(この世)対岸の彼橋(あの世)の境界で当時の人は108枚の敷き板(煩悩の数)を一枚ずつ踏みしめて渡った。
 立山に登ることを許されなかった女人は、まず死装束で閻魔堂に入り地獄の閻魔様に罪業を懺悔し、閻魔堂からうば堂まで敷き詰められた白い布の上を歩き、布橋(天界へ生まれ変わる橋)を渡り、姥堂にはいると真っ暗の中一心に浄土への転生を願うと、やがて戸が開き夕日に輝く立山連山を目の当たりに見て、地獄へ堕ちずに浄土に生まれかわったことを喜んだ。
 現世の女性どもに嗣ぐ、悪行の限りをこの際閻魔様に申し上げて立山博物館の「遙望館」に入りたまえ、姥堂での女人救済の疑似体験が出来るそうだが、行いによっては地獄に堕ちるぞ。
 芦峅寺を堪能した私は、一人とぼとぼ有峰口駅に引き返していった。
 ウエストンガ歩いた道を遡ることにする。ウエストンは小見の集落で書いている「この近くの左の方にある横谷の中に有峰村がある。」と書いている。小見から本宮の駅を過ぎ、原の集落まで歩く。ウエストンは「ここの民家が奇妙な構造になっておるので有名な集落である。」と、書いているが明治27年のことである。
 千寿ガ原(地鉄立山駅)から称名の滝を見学に行く。常願寺川の支流称名川の大きな橋を渡ると砂防ダムの凄い景観が飽きることなく続く。大自然に立ち向かう人間の英知と全財産との限りなく続く闘争である。
 傍若無人に暴れ回った常願寺川の水系に「もう、いいでしょう。」「エェーイ 静まれこの紋所が目に入らぬか。」と、印籠を見せてやりたい。
 七姫平を過ぎ桂台から立山高原道路と別れて右岸を車は唸りながら登っていく。右岸・左岸は登攀を拒む悪壁であり泥壁である。レストハウス前の駐車場から歩くが道には落石があり、冷や冷やしながら通過する。
 称名の滝の轟々たる音が聞こえてから十何分歩き、水飛沫を浴びながら歩くこと数分して、ようやく大瀑布の下に立った。
 富山の友人は、この飛沫を浴びながら珈琲を沸かすといって道具を取り出したが、『滝特有の風と、飛沫に濡れつつ沸かす哀れな酔狂者』と、観光客に笑われたため場所を移動した。

 この大自然の中で、この轟音の中で友人達と頂くことは、今生の至福の一杯を楽しむ。
 本来なら立山詣は、千寿ガ原から台地に徒歩で上がる。
 今の人達は美女平まで一気にケーブルカーを利用して一気に上がっている。だが俺はそんな軟弱者ではない、桂台から車道沿いに歩いて上がることにした。しかし車両専用であり危険な為、バスに乗って下さいと頼まれたので、乗車してやった。
 桂台からバスは唸りながら、苦しそうに登っていく。登る毎に景色は変わり眼の下に、いやバスの下、もとい足の下に桂台と称名川の河原が見える。良くこんな所に車道を開通させたものだと感心する。
 曲がりくねったトンネルを過ぎると、美女平の台地に上がる。台地では立山杉の中に駅停があり道祖神が祭られている。
 千寿ガ原から美女平に登るケーブルカーでは材木坂が見える。
 材木坂には、材木になった石がごろごろ転がっている。これは昔女人堂を建てるため苦労して材木をここまで運んできたが、尼さんがその材木を跨いでしまっため、一夜にして全部の材木が石になった。
 美女平からは、文明の利器である、高原バスで弥陀ヶ原ホテル前まで登り、下車する。本来はここまでしっかり歩くべきだったが、私は地方財源確保のため、地域振興のため大枚を捧げた。(旧立山道は、美女平から弘法を経て、追分けまで歩くことが出来る。登り8時間、下り6時間)

 弥陀ガ原ホテル前で下車するとホテルの左脇を通り裏側に出ると、庭園状に整備された広場を北西方向(大日岳に向かう)に500m程歩くと追分の料金所の手前250m位の所から来た道に出会う。
 この辺りは天上に来た思いがする。私のように心の汚れた者にとってはなんと素晴らしい所ではないか。休憩用のベンチもありこんな所で、天女をはべらせ御神酒を一杯(沢山の意味)やりたいモノだ。
 木道に入り小さな沢を渡る。草原を気持ちよく歩いて行くと、笹原から下る道に入り進んでいくと、一ノ谷の大きな石の上で休憩しよう。谷風が火照った身体に心地よい。
 一ノ谷を渡り尾根を巻くように進むとトリカブトの花が咲き、キヌガサソウ等が見られる。川の左岸を進み、河原に降りると対岸に渡る。
 河原から唯一の難所が始まり、鎖などに捕まりながら急な湿った岩壁に足場が切られている。弘法大師像の岩窟や役の行者の洞窟を見逃すことのないようにゆっくりと左右を確認しつつ歩いていこう。
 歩くことが大切である。転げると元の河原に落ち、次は登れない。何故なら全身打撲の大事故になるから。
 50m程登ると獅子ガ鼻の突端に出る。
 大きな露岩の上に立つと弥陀ガ原が箱庭のように見られる。
 獅子ガ鼻を過ぎ、見通しの良い地点まで登った所にある池塘が『ガキ(餓鬼)の田』である。ガキの田は数百m程続く。
 昔、餓鬼が腹を空かせたため、池塘の中に稲を植えて育てたが何時まで待っても稲は育たなかった。
 ダケカンバやミヤマハンノキの大木の木が少なくなり草原となり、チングルマやニッコウキスゲ、イワイチョウのお花畑が気持ちよく感じる。
 木道から車道を横切る所に出る。車道を行けば地獄の赦免滝(ソーメン滝)を左手に見る。
 この近くに鏡石という直径3m程の大石が有るらしいが発見できなかった。私が来るのを知った地元の人が隠したためである。鏡石は、有頼を慕って乳母がここまで来たが進めなくなり鏡を投げたら石になった。

 

 車道を進み天狗平山荘前から木道の上を進み、立山高原ホテルの所で再度車道を横断し、天狗平を前進すると、右手に車道を見ながら水平道を進む。
 振り返えれば富山湾の方に虹が架かり大日岳・奥大日岳に日輪のように、またお釈迦様の後光のように見えた。左手から大谷が入り込み水平道が大きく左に曲がるところに室堂のバス停の方向に上がる道を過ぎ、斜面の中腹を巻くように進んでいく。
 地獄谷から流れてくる臭気が強くなり荒れ果てた地獄谷の真ん中に出る。
 地獄谷では、毒性のある亜硫酸ガスが発生し、硫黄の結晶が積み重なって出来た蒸気の出る、高さ2m以上もある噴気塔がある。ここが鍛冶屋地獄だ。
 鍛冶屋地獄から地獄谷沿いに遊歩道がありその道をたどれば、草木が育たない地獄をとおり雷鳥平に至る。
 鍛冶屋地獄の噴気塔から右手に上がる。道はコンクリで固められている。
 標高差85mを一気に登らされる。急坂でその上コンクリの道は歩きにくいが、景観維持のため雨等による崩壊を防がないとミクリガ池は無くなる。
 地獄谷からミクリガ池(火口湖)にあがると、湖面に姿を映す立山三山の姿が美しい。
 ミクリガ池から左手の道を上がるとミクリガ池温泉である。
 温泉から左手に100m程進と、平坦な広場は閻魔台であり立山連峯の展望が素晴らしい。
 閻魔台の東側(右手)に血の池。西側(左下)は地獄谷。閻魔様の裁定により地獄か血の池に落ちる。
 血の池は酸化鉄の含有量が多いために地面が血の色である。
 雷鳥平に向い、血の池とリンドウ池を分ける狭い尾根をいく。リンドウ池も血の池も火口湖である。尾根は雷鳥台にと続き雷鳥荘の前に出る。
雷鳥荘から標高差70mを下ると雷鳥平の西端にでる。ここには雷鳥沢ヒュッテ(旧房治荘、ニューフサジ)とロッジ立山連峰の二つの山荘がある。山荘の前を進と鍛冶屋地獄に戻る。

 

 ミクリガ池から閻魔台に行かずに右手に進むと、ミドリガ池(火口湖)とミクリガ池の間に道がある。正面に立山連峰を仰ぎ見る。まもなく室堂山荘につく。
 室堂山荘の右手に日本最古の山小屋『立山室堂』があり、現在のものは享保11年(1726年)の建築(復元)されたものである。
 室堂山荘から良く整備された道を一ノ越に向かい歩き、右手の浄土山の山麓を歩くと夏でも数カ所雪の上を歩く。
 左手の谷に玉殿の岩屋がある。玉殿の岩屋は旧室堂山荘の真下である。
 玉殿の岩屋は、『立山の開祖佐伯有頼が大宝元年(701)に熊を追い岩屋に逃げ込んだ所、熊は阿弥陀如来に化身していた。』岩屋である。
 一ノ越に続く道を歩くと右に左にジグザグに進と祓堂(標高2580m)に出る。ここからが雄山神社の神域で、お祓を受け祓戸川で口や手を清め、ワラジから足袋になって進んだ。これは神聖な山の土を持ち帰らないためである。
 一ノ越は広い稜線上の鞍部で、槍・穂高や後立山の見える好展望地で山小屋がある。登山道の十字路でもある。薬師岳や黒部ダムに行くことが出来る。
 一ノ越から雄山の山頂まで二ノ越−−五ノ越と阿弥陀如来を祭る祠が建てられていた。
 雄山神社の頂上社務所が大きく見えてきて、傾斜が落ちたところが四ノ越で、落石の危険性が少ない唯一の場所である。「ヨーおいでた。休んでいかレェー。(富山弁)」
 四ノ越を過ぎると最後の急登だ。あと一息頑張れば、一等三角点(2992.0m)の広場に出る。
 雄山の頂上はこの先にある峯本社の祠があるところで、標高3003mである。しかし雄山の頂上は、ケルンの様に積み上げたような感じがする。

 何でも、うがった考えをする小生は、次のとおり考えた。
 佐伯有頼の頃から雄山の頂上は2999.9mであった。しかし、ある人(名前を隠したい。)が3000mの高さが欲しくて、信者に適当な所から小石を運びあげ夜のうちに頂上に置いてくれと懇願した。
 頼まれた信者は、多数の人に頼み込んだ。信者は我こそはと、近くの山の頂上から採取して運びあげた。驚いた国土地理院は再度測量してみると、雄山は3003mになり、近くの山が低くなり、2998mになってしまった。
 3001mあった剣岳は、それ以来2998mになってしまった。(昭和40年の事である。)剣は3m低くなり、雄山が3m高くなった。つじつまが合う。
 穂高岳は、南アルプスの北岳に2m程負けて第3位であり、北岳に負けるなと石を積み祠をその上に置いた。以来この頂上に立てば富士山に次ぐ第2位になると、子供じみた事をして喜んでいる人がいる。そんな人達を軽蔑していた私は、誰もいない夕刻の雪に埋もれた頂上に立ちこっそり喜んだ。

       立山曼陀羅等
 立山信仰は、修験者や登拝者によったものであるが、江戸時代に加賀藩主前田氏の保護を受けた宿坊の人々により全国各地で布教が盛んに行ったことによることが大きい。
 布教は晩秋から春にかけて行われ、まず岩峅寺の宿坊は、出開帳といって越中・加賀・能登を中心に回った。芦峅寺はその遠方を担当した。芦峅寺では御師という宿坊の衆徒達が家来とともに立山曼陀羅と色々な護符・経帷子・熊の胆や薬草などを携行して、各宿坊が受け持つ国に赴いて拝札し布教した。
 拝札は、前もっていくらかの数量を預けて次の年に使った分だけ精算する、先用後利の方法をとった。
 また、各地に立山講という組織がつくられ、衆徒はそこで立山曼陀羅によって立山信仰のありがたさを独特の節回しで絵解きした。
 『立山曼陀羅』には大きく分けて2種類ある。『芦峅寺系統』のものと『岩峅寺系統』のものである。
 両方に共通する図は、紅日と白月が描かれている。内容としては白い鷹と矢傷を負った熊に導かれて立山に分け入り、これらが仏の化身であったことに気づいて立山を開いたとする立山開山縁起である。次に立山地獄で、とりわけ哀れを誘う賽の河原、ほとんどの人が生まれ変わる三途(餓鬼、地獄、畜生道)と修羅道、それらとこれから救うための施餓鬼法会、女性が必ず堕ちるとされていた血の池地獄と血盆経供養の様子などが恐ろしく書かれている。それと対象に阿弥陀如来を中心にした菩薩の来迎に象徴される極楽世界が描かれている。そして登拝者のために山中の名所案内が盛り込まれていた。
 『芦峅寺系統』には、中宮寺で盛大に行われた「布橋灌頂会」の様子が紹介されているのが特徴であり、『岩峅寺系統』にはこの描写が見られない。
    修験者の山
 立山はもともと修験者の山であり、天台宗や真言密教の勢いとともに盛んとなり、剣岳や大日岳頂上で発見された錫杖等や文書によると、天台宗の修験者は有頼のたどった立山開山の道を取り、真言宗は上市の大岩日石寺を基地に折立を経て伊折に至り馬場島から剣岳や大日岳へ修行の場を求めたようであるが、江戸時代に通行禁止となった。しかし天台宗の道は認められた。
 日本において登山が盛んになると、立山、剣岳の山案内を一手に引き受けた感じの芦峅寺の人たちは、有頼の道を利用してガイドした。
 参謀本部陸地測量部の芝崎芳太郎は、三角測量のため剣岳に登る必要に迫られた。
 明治40年(1907)にガイド宇治長治郎の案内で、雪の谷を登り剣岳に登頂した時に、山頂で発見した錫杖の頭が平安前期のものと推定された。
 芝崎が登った雪の谷は、案内した長治郎の名前をとり長治郎谷(タン)と呼ばれている。
 また中大日岳の七福岩屋からは、修験者が岩場を登るときに使用されたと思われる道具が発見されている。