立山三山珍道中花の旅(1997.8)

平成9年8月1日夜の京都を歩く二人があった。
格好は半袖シャツの登山服に登山靴である。街行く人々はこの二人連れを避けるように歩いている。顔中汗でしたたり落ちるがごとくである。
 京都の町に相応しく、歩くながら「お経」のごとく口から出る言葉は「ブツ ブツ」である。東本願寺の門前を、お経を唱えながら修験者のように念仏を唱えていた。
 こうして立山の登山が始まった。
登山計画は練りに練った素晴らしい物だったが、その計画を相変わらず勝手気ままに変更し、熱帯夜の京都駅周辺で過ごすこととなり、今回もまた妻の気持ちを害してしまった。
 重たいザックを背負って京都駅ビルの食堂等を覗いていると、目の前で次々と閉店していく。計画では、京都駅に21時48分であったが、私の得意ワザ「計画変更」で20時には着いてしまった。
 バスは22時45分発で2時間半も何もしない熱帯夜の京都。それでも東本願寺の門を見学したり新しくなった京都駅を見ながら二人だけの京都の夜をロマンチック(?)に楽しんでいた。
 やっと許可を得て「缶ビール」を購入して準備万端の我々を乗せたバスは定刻より15分遅れで京都を出発した。私の好物は分かり切っているのに、嫌がらせのように反対している。息子はすぐに賛成してくれるのに−−−。
 名神から北陸自動車道と快調にバスは走り富山から一般道を私み、立山有料道路の入り口「桂台(標高663m)」に2日朝5時15分に到着した。桂台のゲートは6時に開くため大休止となった。同乗の登山者は朝食をむさぼる者。我関せずと眠る者。ミーハーのごとく写真を撮る夫婦と様々である。
 ゲートが開くと980m(じ後標高は省く。)の美女平めがけて5.5Kmの有料道路をバスは登っていく。
 美女平を過ぎ原生林の中を私んでいると、スピードを落とし「称名滝」とアナウンスしてくれる。落差350m日本一の壮大な滝である。この数秒間だけ目を開け、すぐ眠りこける「トド(メスらしい。)」がいる。
 弥陀ヶ原高原を過ぎ天狗平を通過すると雪の大谷で有名な地点を通過するとバスは終点室堂に6時55分到着した。
 ターミナルビルの中は我々が到着した時は閑散としていたが、7時をすぎると突然多くなり、朝の大事な行事をすませるのに行列ができ臭いと汚さに閉口する。
 行事が終わると、今回の主人公「夫婦者」が、今日の宿に向かうためにバスの駐車場に再び帰り、登山道に出ようとして駐車場を「室堂を良く知った顔」で歩いていると駐車場の従業員に怒られた。「あんたら どこいくんかいねー。登山道はそっちじゃネーベ このビルの3階じゃーネ。」
 ビルの3階から屋上に出ると、立山トンネルから流れ出る延命水の広場にでる。水筒に満々と延命水を入れる。そして大急ぎで延命水を何杯も飲む。「いい人」と「美人」は薄命だから。
 延命水を飲むと今宵の宿「雷鳥荘」に向かう。道標があったが昔の記憶にもとづき勝手しったる道とばかりに私んでいると、どうも様子がおかしい。道標に「雷鳥荘」の表示が無く違った山小屋の表示がある。あぁこれは道標が間違っているのかと進んで見たが地形がおかしくなり、このままでは宿に着けないとある。
 道を楽しみながら、わざと間違えながら「ミクリガ池」湖畔を過ぎ、えんま台のベンチで朝食をパクついていると、霧が我々を包むように、小学生の大集団が我々を取り巻いてしまった。今回は私的な旅でありサインは丁重にお断りしこの場を去った。二人の身分(スター)が判っていたのか、カメラをもって我々と同じ道を歩きカメラを構える人たちが多すぎる。
 室堂は、えんま台、地獄谷、大日(如来)岳、(阿)弥陀ヶ原、血の池、餓鬼田、浄土山など宗教に係わる地名が多く、えんま様がえんま台で裁きをつけ、剣岳の針の山に投げ込んだり、地獄谷に蹴落としたりしていたが、善人の夫婦者は極楽往生できるようになっているらしい。
 血の池とリンドウ池との稜線を上り下りすると雷鳥平の一角にある「雷鳥荘」に8時過ぎに着いた。フロントで宿泊手続きを済ませると、ザックから今日の行動に必要な品々をナップサックに詰め替え宿を9時前に出る。今日の目的「室堂山から浄土山そして一の越」に向かう。
 立山三山は「浄土山」「雄山」「別山」と言われている(または剣岳・立山・薬師岳とも言う)。今日はその浄土山を登り、明日(3日)雄山と別山を登り立山三山の大事業を完成させる素晴らしい前人未踏の雄大な大計画だ。
 先程通過した血の池、えんま台、ミクリガ池を歩き良く整備された広い道を旧室堂山荘と進み、0930に山荘の前から山道らしい登山道を進んでいく。緩やかな道の両側にはイワイチョウやコバイケイソウの高山植物がしおらしく咲いている。高山植物は「わたし弱いの触らないで」と、しなを作り俺の心をくすぐる。と、思っていると突然険しい道に変わった。ツガザクラが「この道は険しいのよ。」笑っている。
 傾斜の急な道を小1時間歩くと、草原状の道になり数分歩くと2650mの室堂山展望台に着いた。展望台からは、1000m以上ズバット切れ落ちた噴火口の跡が見え、龍王岳、鬼岳、獅子岳の岩峰が連なり、その先に緑の草原(カーペット状)で美しい五色ガ原、雄大な山容の薬師岳、顕著な黒部五郎岳、天高く突き上げる槍が岳と穂高岳の名山が見えるはずであった。
 霧のため何も見えない展望台で二人静かに座り、汗をかいた身体に高山の風が優しく感じられると、突然食欲がおこり私は自分のザックから重たそうな食べ物を取り出すと妻に、「さぁ 食べなさい。」と優しく差し出す。どん欲なハイエナのごとく食べ始める。(早くザックを軽くした者が後で楽になる。登山の鉄則)
草原状の平坦な道を浄土山に分かれる地点まで引き返すと、雪渓の上に降り立ち対岸の岩の道へと渡る。
 浄土山に登るガレキの急斜面を喘ぎながら登って行くと、灌木が現れ大きな岩を登りきると浄土山の肩にでた。
 道が平たんになりハイマツの中を進む、「アンデスの空中都市」に負けない祠の建物の跡(石垣の跡と古い木片)があった。ここが浄土山(2831m)であった。室堂と雄山の見える残雪の近くで大休止をとる。
 室堂方面からの風が気持ちよく感じられゆったりとして気持ちになっていると、次第に霧が通り過ぎ、目の前の展望がひらけ雄山の頂上から室堂そして奥大日岳と眺められるようになってきた。室堂が箱庭となり、もって帰りたい気持ちになってくる。
 一段と大きな雄山の連山が明日の登頂を待っていてくれる。
 石垣に囲まれた祠を後にして、山頂から平坦な縦走路を富山大学の研究所に向かう。この縦走路にも高山植物が小さな花ながら色鮮やかに、しおらしく咲いている。
 研究所のある龍王山分岐は広々とした山頂状で、数十名の登山者が休憩している。ここから道は五色ガ原から薬師岳方面と、登ってきた室堂山、そして今から下る一の越へ、一の越から雄山と室堂に分かれる。
 研究所の北側にある三角点の近くで小休止として「延命水」のコーヒーを飲む。周辺で休んでいる登山者は、中年が多くその中でも中年女性が全体の半分を占めている程である。五色ガ原に向かう女性GPのリーダーの指示をにしたがい、我々も腰を上げ反対方向に進む(1312)。
 一の越に下る道を高山植物に見とれながら下っていく。一の越は登山道の十字路であり多数の登山者で賑わっている。一の越山荘(2690m)の前で大休止(1350〜1420)をとる。我々の登山はネパール語の「ビスターリ(ゆっくりと)ビスターリ」である。
 室堂に下る山道は良く整備された石畳であるが、歩き始めが急で滑りそうな道をジグザグに下っていく。傾斜が落ち緩やかな道になると「祓堂」となりさらに下っていく。数カ所の雪渓を渡っていくと、上部で夏スキーを楽しんでいる雪渓を最後に、今朝 室堂山に登っていった分岐点に帰り着いた。(1455)
 分岐点にある旧室堂山荘は現存する日本最古の山小屋で、江戸時代の山小屋がそのまま残っている。旧室堂山荘と隣の新しい山荘を後にしてミドリガ池・ミクリガ池へと向かう。
 午前中はこのあたりは霧に覆われていたが、今は立山の稜線まで見え風もないため、ミクリガ池付近から見る景色に期待する。登山関係や案内書に「ミクリガ池に映える立山連峰は立山の代表的な景観である。朝は逆光になるため夕方のほうが実に素晴らしい。」と、書かれている。
 私たちの目の前に「案内書」そのままの景色、空間があった。「残雪と深緑の立山」、「白い雲」と、何もかもが素晴らしい。時間帯も景色も最高な時に湖畔に立てたのは、普段の行いが良かったからだ。
 雷鳥荘に帰ってみると、我々の部屋は10畳程であり京都と横浜からの3家族6名で泊まることになった。
 2500mの高山で温泉に入り今日の汗を洗い流すのは、最高にいい気分である。
 夕食には、妻に内緒でビールの大瓶2本を頼んだ。山小屋で瓶ビール・温泉付きとは贅沢三昧である。部屋に帰り同室の人と山の思いで話をする。横浜から来た人は親子で母親は70歳位で八ッ岳・丹沢がホームグラウンドと言っていた。そうこうしているとゆったりとした気分になり、私のマブタ同士が仲良くなってしまった。
 翌朝(3日)6時に朝食をとると、ナップサックで立山縦走に出発する。旧室堂山荘(宿泊者の顔をしながら用足しする奴がいた。)前で小休止をとり、一の越へと昨日の道を登っていく。雪渓を登り祓堂の手前で休憩をとる。
 祓堂から上は雄山神社の神域で、昔の登拝者は祓堂でお祓いを受け、近くの祓戸川で口や手を清め、山上の土を持ち帰らないためにわらじを脱いで足袋だけで登ったという。
 一の越から雄山山頂までの道は、数百年間「山岳信仰」として登られ昔からの道である。この道は休憩地点も少ないので確実に高度を稼ぐしかない。あわてず焦らず登っていくと、傾斜が落ちた地点が四の越で頭上に社務所が見え小休止を取る。あえぎつつ最後の大きな岩の所を登り切ると2992mの一等三角点がある頂上広場である。(0930)
 社務所の近くにザックを降ろすと雄山神社の峰本社(雄山の本当の山頂3003m)に参拝(有料)し、神官からお祓いを受け御神酒(4・5杯飲みたかった。)を頂き「登山の無事と家族の安全」を祈願する。
 社務所に下るが早いか、お土産を物色する「者」がいる。売店を見つけるといつもながら素早い行動が出来る御仁である。しかし、もう一人「巫女さんは綺麗だなー。」と、いつまでも眺めている「奴」もいる。平和(?)夫婦である。絵馬に息子の無事と発展を祈願し、奉納する。
 立山連山の縦走は峰本社の鳥居の所から始まる(1000)。稜線を室堂側をトラバースする道を進み、大きな岩の道になった所に大汝山(立山最高峰3015m)がありその直下に大汝休憩所があった。(ビールが売っている)休憩所を横目にしながらお花畑を進み大きな石の地点で小休止をとる。この頃から室堂側から強い風が吹き出す。
 休憩地点から数百m進み大きな雪が残る地点で休憩をとる。富士ノ折立(2999m)の肩である。黒部湖が眼下に見え写真を数枚撮ると出発準備にかかる。他の登山者から「ここから大下りが始まりますか。」ときた。たしかに大きく下る(200m)ことは下るが、「大下り」はまだ先(500m)である。地図もろくに見ないで、地形も概念図も頭の中で描けないで登る登山者が居るのには、驚きである。優秀な登山者(我々)が、正しい地点を教えてやった。
 「富士の折立」の岩峰下を急激にりると、鞍部状になった平たんなのびやかな稜線を歩く。黒部側には内蔵助カールが大量の残雪(内蔵助カールの大量の雪渓には万年氷の存在が確認されている。1500年以上前のハイマツが氷の中に発見されている。)を残し雄大に広がっている。
 伸びやかな稜線が真砂岳の登りに変わる所に斜面をトラバース気味に室堂側に下る道があった、ここが「大下り」の分岐点である。(1120)
  大下りの分岐を通過して若干登った地点で我々の昼食タイムにする。担ぎ上げた水でラーメンを作り、雷鳥荘の愛情こもった(?)弁当を広げる。弁当は、登山者が来ると隠したくなるような代物で、ラーメンと「ふりかけ」で誤魔化しながら食べる。
 別山方向から下ってきた夫婦者の登山者が我々の近くに腰を下ろした。女の人は短パンで足が綺麗だったが、日焼けで黒かった。(しかし、短パンからチラチラ見える肌は白くて鼻血ブーである。)

   

 昼食を食べていると遠雷の音がする。何時この稜線に来るのか常に頭の片隅に入れて行動するようにする。
 いよいよ真砂岳に向かって幅の広い尾根を登っていく。稜線の右手方向に内蔵助山荘が近づいてくる。富士ノ折立方面から来る登山者とは200m以上の差がついているのを確認しつつ、ゆっくりと真砂岳(2861m)を過ぎ内蔵助山荘分岐まで登り切る。
 分岐から少し下って見ると別山方向から登ってくる登山者の姿が見えない。時折ガスが視界を閉ざす。この瞬間にある種の大事な行為を実施する。その後すこぶる快調なり。
 別山の登りは岩尾根状になり室堂側が崖になっている。別山の三角点(2874m)のある頂上に登り切る(1250)と右手に残雪が残り硯ガ池が半分くらい覆われている。三角点から400m進み大きな岩(2880m)のある地点で剣岳眺める。
 剣は前剣、源次郎の岩峰、八ツ峰の岩峰群を従えた針の山である。この針峰群を30年前仲間と登った。剣を眺めるのに最高の地点がここ「別山」である。
 別山に登りたかった一つの目的が今日この瞬間にかなった。誰も聞いていないのに青春の思い出を語り続ける男がいた。(昔を懐かしむのは年を取ったことである。)
 別山の三角点までもどり別山乗越へ下る。先行している女性登山者に追いついた。登山者は道を譲るのではなく(遠雷は気になるので急ぎたいが)、自分のペースで下っていく中年の女二人である。剣沢に降りる分岐点を通過して下り続けると剣御前の小屋に出る。女二人と一緒に小屋についた。
 小屋の前から剣を見るのに小屋の感じが昔と違っている。小屋を後に雷鳥坂を下ろうと石垣(暴風対策)の陰から出る(1400)と。身体が吹き飛ばれそうなすごい風であったが雷鳥坂を下り始めると風は無くなり、西日を受け暑い位である。
 雷鳥坂は急激に高度を落とす。ジグザグにドンドンと下って行くと、一日の行動で疲れ足が弱まっているのを感じる。と、思った瞬間に転びそうになる。「体重が重いから」と笑う者がいる。

   

 中間まで下ると道は緩やかになりお花畑の大斜面を行くと、目の前にハイヒールに近い靴の男女に出会った。女はスカートであり男は背広である。こんな道を良くここまで登って来たものだと感心し、反面軽蔑してしまう私達であった。なんと二人は失楽園であり、この場所を最後にと思っていた。(うそだヨーン。)
 浄土沢まで下って簡単な橋を渡るとキャンプ場である。剣方面からか遭難者1名が数名の登山者に守られ背負われて下ってきた。キャンプ場から雷鳥沢ヒュッテ横の急なコンクリート坂を息も絶え絶えと登り切ると、やっと雷鳥荘(2420m)にたどり着いた。最後のコンクリ坂(70m)がバテバテの身体を苦しめやがる。雨雲が追っかけてきて急き立てるし、後半は年齢を感じる一日であった。
 山荘のフロントでザックを受け取ると、今夜の部屋に移動する。今宵は2段ベッドの8名部屋である。先に長岡京市の親子4名が入室している。男の子と女の子(マキちゃん)の可愛い兄弟がジャレ合っている。時折お母さんの叱責が飛ぶ。
 登山道具を整理し終わって、ベッドに横になっていると、部屋に男女の二人連れが入ってきた。入ってきた女の人を見て驚いた。稜線ですれ違った短パンチラチラ白肌の鼻血ブーの人である。(男の方は全然記憶がなかった。)
 風呂から帰って来てみると、二人が同じベッドの中で寝ていた。羨ましいと思っていると、妻が缶ビールをもって帰ってきた。明日のコースを話し合っていると晩ご飯の案内があり、食堂に降りるとまたビールが飲めた。
 夕食が終わり、部屋に帰ってみると、窓の外は完全な雨になっていた。隣の部屋から若々しい方々(?)のエーデルワイスの歌声が聞こえ、私の子守歌になっていった。
翌朝、4時頃登山者の声で目を覚ますが、雨の音が激しく聞こえる。こんな天気でも出発するのかと眠り込んでしまった。7時に子供の声で起きだし窓を開けると外は霧だった。雨だれが下のトタン屋根に落ち激しい雨と間違えたのだ。
 京都のマキちゃんが「お母さん京都は何県?」と聞いている。「マキちゃんどうして?」「おばちゃんが何県から来たのと聞いたの」
 他の登山者から「数年前に称名滝から大日岳を登ったことがある。昨夜の大雨で大日岳から称名滝の下山路(標高差千数百m)がグチャグチャに成っている」との話で決心した。
 8月4日、今日の予定、大日岳方面を中止して黒部湖に降りることで決定した。(4日広島に帰って、5日は全国的に大雨が降った。あの下山道は滝の様になっていたのではなかったかと、決心変更の正しかったことが証明された。)
 霧の中を室堂のバスターミナルに移動する。可憐な高山植物が「また来てね。」と見送る。最後の室堂を楽しみながら歩く。
 バスターミナルでは霧を残念がる人たちで混雑したいた。我々は昨日まで素晴らしい天候・景色であり大満足である。
 アルペンルートの室堂から(トンネル)大観望までのトロりーバスを待っていると大観望付近は霧があがっていると聞く(歓声が上がる)。大観望から黒部平にはロープウェイで空中移動する。大観望に到着すると黒部側は霧があがり素晴らしい天候になっていた。ロープウェーに乗り継ぎ下っていくと後立山の稜線が見え始め、黒部平の乗り継ぎ駅の屋上で一時を過ごす。
 ケーブルカーで黒部湖に下ってみると、我々を待っていた観光客で溢れ帰っている。夏の太陽が厳しく降り注ぐ中を人混みをぬうようにダムの堰堤を歩いく。何時も監視される我々は登山姿が恥ずかしいように観光客の中歩いている。私の周辺で一斉にカメラのシャッターが切られる。
 後立山の山中に作られたトロリーバスの駅に向かう。トロリーバスは黒部ダムから信濃大町の扇沢に通じるトンネルを走る。このトンネルは黒部ダム建設時の資材運搬用に関東電気KKが作成し、現在は同会社が観光客用運営している。後立山中を快適に走り富山県から長野県に入った。
 扇沢駅からバスに乗り大糸線信濃大町駅にて普通列車で松本に移動、松本から特急、名古屋から新幹線と乗り継ぎ広島(1847)に帰り「立山三山珍道中花の旅(1997.8)」は異常なく終わった。
 この列車の旅で信濃大町から松本の間で「雷鳥荘弁当」を食べ、塩尻で新婚旅行の際に購入した思い出の「釜飯」を購入・食べたのは、旅の後半の楽しい思い出になった。

平成9年9月9日午後9時9分記す