雪崩か土石流等で流された枝や、河原に落ちている朽ちかけている大木を集めてくる。流水に浸かっている枝も、至る所に落ちている枝も集める。枯れたイタドリの枝も落ち葉も集めてくる。焚き火の材料は何でも集める。
何回も往復し、小脇と両手一杯の持ちきれないほどの枝を集めて回る。誰かがキャンプを張った所ではなかなか集まらない。
着火から水を十分に含んだ大木を燃やすには技術が必要である。
マッチかライターを持つことが一番大事なことである。
石の炉を作るが逆三角形になるように石等で炉を造れば最高である。空気が補充できるように作るが、風上からは壁を作り石の隙間から空気が補充できることが大事なことである。
イタドリや落ち葉又は竹の小枝等を敷き詰め新聞紙を手帳の2頁分位を破り、手で揉み軽くねじるとその上にイタドリのような繊維の柔らかいモノをマッチ棒の様に小さく切り刻み何十本も紙の上に置く。白樺またはダケカンバのような皮を横にさく。竹林では落ちている竹の枝や笹の葉を集めるこれらは小さく小さくすることである。
次にマッチ棒位の太さの小枝を出来るだけ沢山押せえるように積んでいく。マッチ棒からそれより太くと段々太い木にしていくが出来るだけ沢山そして押さえるようにして積み上げる。この時、木々の隙間が少なくて熱効率が上がるように積み上げる。
枝から大木にこのあたりから三角形になるように積み上げ、濡れた木も火の力で乾燥するように積み上げていく。いよいよ着火である。マッチやライターで紙に着火するが、このときに小さな木に火が着けられたら最高である。小枝に燃え広がり段々と大きな枝に燃え広がると成功である。
雨の中でも雪の所でも焚き火が出来るように訓練することである。
雪の中では火床を作ることが一番難しい。数本の枝を横にして小枝の山が崩れないようにすることである。
焚き火の最後は消火である。火が燃えていないと思っても炭火のような状態で長時間残ることがあるから手で触れるくらいまで責任を持つことである。
消火は石があるところでは、石を積み上げ砂を掛け燃える物が直接触れないようして水を掛けるとか、土の場合は土を掛けることで温度を下げる空気を遮断することである。要するに物が燃えることは「燃える物」「温度」「空気」のどれか一つを取り去ることである。
木々に隙間が出来たら細い枝を追加し火力の維持に努める。大きい枝に火が着き赤々と燃えだしたら気分は高揚してくると共に安堵感も出来ていくる。
朽ちていく木々に火を与え、元火のお陰で今栄えと燃ゆる。
木と生まれては、朽ちるも良いが、また、灯明のとなるも、ほだぎ(椎茸などの)となるも、運命であろう。
キャンプファイヤーの如くいや輝くごとく燃え上がるも木の一生であろう。
始めに、ライターで着けたのかマッチで着けたかは問題でない。燃えるに連れて原子の火となっていく。原子の火とは木々の最小単位・原子核の大きさで燃えていくためか、赤く、黄色く、青白く複雑な色を出していく。温度で色が変化するともいうが、酸素が水素がと、色々な化学記号で表されている物が燃えていると考えた方が面白い。
いよいよ盛んと燃える枯れ木よ大木よ。
小さな木(火)に煽られてなお盛んとなる大木よ、炎は形を変え千差万別、一度として同じ炎にはならない。一瞬で姿を変えていく。
私の生き様に似たるかどうか。人生も一度はパット咲きパット散りたいモノだが。
小さな種火から始まった火の競演。誰が輝いたのか、誰が補助したのか。私も我もと競い合い、誰が勝ったのか負けたのか。そんな考えは関係なくお互いが助け合い競い合い演じあって燃えていく。
先に燃えたモノは、オキとなって下で赤々と演じ、熱気を送り乾燥させ燃えやすく補助していく。補助された木は大きな火をだすが、先に燃えたモノがいて自分がある。
古木や大木を人生に直して見ると、人の生き様に見て見た前。何が良くて悪いのか。色々な人がいて自分があり、自分があって人がある。
大山の峰が騒動して何なのか、地震に揺れて崩れた。今大山に人が登れなくても、以前には太古には誰も登れなかった火の神山。
明治の登山家が語る日本の登山史も、それが初登頂ではない。単に記録をつけ、発表しただけである。猟師が登り歩いた尾根、播隆上人が登った槍が岳、平安に誰かが登った剣岳、そして平成になり君が登った高き峰。誰が先で、誰が後なのか。
崩れた大山はそれはそれで生きている。人が登れる所を登らせていただいている感謝の気持ちが山との共存である。
誰が、我がなんて小さな出来事は、つまらないことかもしれない。地球の歴史では。
私の人生は地球の歴史と考えると、大きな事ではないのか。
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