大山北壁大屏風岩鏡岩ルートの登攀(1973年1月)

 大山は鳥取県西部、江府町、溝口町、岸本町、淀江町、大山町、名和町等12市町と岡山県の真庭郡にまたがる山で、総称して大山(大山という頂上は無い。)という。
 中国地方の最高峰で三角点の置かれている主峰弥山は1711m、最高峰は剣ヶ峰で1729m。古くは大神山(火神岳)といって(出雲風土記)白山火山帯の死火山である。独立峰で美しく伯耆大山、出雲富士とも呼ばれてはいるが、見る角度では恐ろしい形相も持っている。
 船上山・勝田ヶ山・甲ヶ山及び矢筈ヶ山等の外輪山と、弥山から三鈷峰までの主稜線などカルデラ内の中央火口丘を中心とし、山麓に分布する大小の寄生火山群等から成り立っている。
 頂上の弥山を中心に東西4Kmの陥没カルデラは浸食が激しい。日本海まで裾野が伸び、秀麗な姿は古来より人々の後付き信仰の対象となり、古代の山岳信仰が高まるにつれ多くの山伏が入山し、開山は役の行者が弥山を開いたと伝えられている。
 大山には、金門・賽の河原・三鈷峰・宝珠山・擬宝珠山などの仏教用語の地名が多く残っている。
 享保年間から開催された大山の牛馬市は、大山詣りに拍車をかけ、中四国の各地から大山寺に通じる道は大山道と呼ばれ、大山時を中心に放射状に広がっている。
   明治期の大山の牛馬市は、日本随一といわれ大山寺集落のバス停に博労座という広場がある。交通機関が徒歩の時代に博労座には1万頭を越える牛馬が集まったという。牛馬市の小屋は、博労座の広場から美しい台地の末端の赤松の池まで伸びていたという。
 この牛馬小屋があった赤松集落の近くから大山寺に向かって黒松の並木がある。並木道の幅は20mあるであろう。黒松の見事な並木道と享保年間に作られた一丁地蔵が現在も残っている。植氏と私を乗せたバスが、並木道の中を登っていく。

  冬の早い帳の落ち始めた、大山寺の博労座で下車する。
 俺たちのあこがれの娘の居る喫茶「キャラボク」に立ち寄る。彼女のいれた美味しいコーヒーを飲みながら、店内でオーバーズボン、ロングスパッツ、ヘッドライト等を準備して入山の準備をする。
 「キャラボク」の前から道は、雪道の急坂となり旅館群を通過し大山寺の寺院の横を過ぎると、一人が歩けるだけのトレースが着いている。杉木立の中を登り一歩毎に深山に入っていく。金門の側の雪道を植氏のヘッドライトの明かりに続いて登っていく。大神山神社の神殿にたどり着く。
 ザックを降ろし呼吸を整えると神殿に手を合わせ、屏風岩の鏡岩ルート冬季登攀の無事を祈る。普段神に手を合わせたことのない二人だが、ここ大神山神社だけは別格である。いつも元谷に入る時、俺達はこの神社に心から神に祈っている。
 神社の右脇から大杉の下をラッセルし、いよいよ神の領域に分け入る。黙々と、重荷に喘ぎつつトップを交代しては、通い慣れた雪の下の道を正確に辿っていく。
 急なラッセルが終わり、林道に出る。林道を数回曲がると、月に照らされた稜線と幽玄の悲しい北壁を見つめる。二人には声がない。吐く息だけが荒く、白く流れていく。夏場は、脆く崩れる岩場も、凍結し、手強い氷を纏い、岳人を寄せ付けないのかも知れない。
 たどり着いた元谷の小屋は、厳冬期になると静かになり、先鋭的アルピニストのみが宿泊するが、今夜も二人だけの酒の宴が始まった。天狗の間にはローソクの明かりと、コンロが火を噴き二人の影が、白銀に凍っている小屋の壁に映っている。
 寒さのため飲んでも酔わない酒も、寝袋に入り横になり、まだ飲み進んでいくと眠くなりいつしか朝がきた。
 午前4時半、明け方の寒さと尿意で起き出し、コンロに火を着けゴソゴソしていると、寒さに強い植氏も起き、無言のうちに準備にかかる。
 植氏とは、色々な登攀をしてきているので、沢山の言葉はいらない。
 ザックを担ぎアイスバイルとピッケルを手に持ち5時半小屋を後にする。小屋の外は、月が消え少し風があるが、悪天候の兆しがない。暗い雪原を登っていく。山下ケルンを過ぎローソク沢の出会いを過ぎたあたりから屏風岩の中央部を目指して詰めていく。雪の斜面はきつくなり、ラッセルが二人を苦しめる。何時しか視界が広がり朝になったことを感じた。仰ぎ見る屏風の岩は、大きく迫って覆い被さる。
 屏風岩の下部を右手に進み、西ルンゼの左手リッジの影でアイゼンを点検し、二度目の簡単な朝食を取る。ザイルを結び、アイスバイルとピッケルを両手に、二人はルンゼの中央に進み出た。西ルンゼの取付きは圧雪状態で雪崩の心配はなかった。壁は何時しか雪の塵が舞い始め視界が無くなっている。
  私は、ピッケルを雪面に差し込み、そしてバイルで叩いてカラビナを着けザイルをセットし確保体勢を取る。6時半に植氏はスタートしてルンゼを詰め。壁に突き当たる部分まで登りピッチを切る。次は私の登る番である。登っていく雪面は、アイゼンの前歯だけが入る状態で快適に詰めていくことが出来た。
 左手の壁状を左上に登る。雪を払い落として、ホールドを掘り出すつらい作業を続ける。しかし、雪の中から確実なホールド、又はスタンスを見つけだした時は、喜びは格別なものである。岩場は凸凹して突起はあるが、凍ったような身体には、ちょっときつい感じがした。夏に登った人によると浮き石帯で嫌らしいが、今日は、ガチガチであった。10m程登りリッジの上に出る。ここでピッチを切り植氏に登ってきてもらう。
 このリッジからは、鏡岩の下をトラバースし、港・ダイレクトカンテの方に40m程で達することが出来る。
 テラスからリッジ上の部分を植氏が進む。この部分は鏡岩の右手で、夏は鏡のような感じで一枚岩となり、冬場は雪を着けない黒っぽい岩である。雪の塵の中に植氏が登りザイルが伸びきりホイッスルが聞こえてくる。私が登り10m少し進み壁状となり数m登ると植氏と一緒になった。
   [取り付きから左に、もう一歩ルンゼを詰めて滝状を登り左の凹状を登るとハングに行き詰まる。トラバース気味に回り込み少し下ると同じようにこの地点まで登ることが出来る。]
 植氏から上はスラブ上のハングとなりアブミ(簡単なひも等で作った2〜3段のハシゴ)を使って乗り越していく。先頭を切ってルートを拓いていく楽しさは、クライミングでの最高の快楽である。左手に少し移動し、ぼろぼろの凍った泥壁を登り、外側に傾いたスタンスで、行き詰まってしまった。
  この上部は私より植氏が得意そうであり、ここでピッチを切る。(このスタンスで昭和34年2月6〜7日新三菱雪稜クラブ鷲田漠・藤井博・前田清三氏がビバークし初登攀しているようだ。)
 植氏は、そのまま右へ少し寄り若干のハング気味の部分を登り、雪煙の中に消えていった。二人は、ひたすら非常な雪の岩との闘いの中で、攀じる行為を生きる喜びとして生き甲斐としている。
  私の登る番がきて、植氏の延ばしたザイルの沿って登っていくが、登れなくて、強引に行くことにして、植氏にザイルを引っ張ってもらい、それを頼りに引き上げられるように登り切る。
 植氏は、ブシュ帯に入りそこで確保していた。雪の斜面はまだ強く、もう1ピッチ登ることにして、ブッシュの中をラッセルし、時折ブッシュに捨て縄を付けザイルをセットし40m程登ったところで大きめのブッシュで確保の体制を取り、植氏を迎えて、このルートの登攀の全てが終了する。垂直の緊張から解放され登り切った喜びは急激ではなく、滲み出てくるような感じで襲ってくる。
  屏風岩尾根は、長く痩せた尾根である。36年1月2〜3日ダイレクトルートを登っていた八幡岳人社の中谷安雄、白石昭徳、仁科義光の3氏は、壁を登攀後3日午後10時頃屏風の頭下付近で遭難している。
  12時半植氏とコンテで登る準備をしていると、天候が回復し、足下に元谷の賽の河原が見える。宝珠尾根が見え金門が−−−と、素晴らしい景観が我々を祝福してくれている。
 痩せ尾根をラッセルし、振り返って元谷を眺め登ってきた稜線を二人のシュプールが確実に残っている。雪庇に注意しつつ1時間ほど登って大山の主稜線に飛び出る。すると、松江の連中が数名登ってきていた。祝福を受け、弥山を経由して元谷小屋に向かう足取りは軽い。
 登攀が完了した後は、あの娘が待つ(?)「キャラボク」に向かって下山するだけである。
  大山の北壁は日本アルプスにでも行けばどこでもあり、屏風岩等は登攀の対象にならない岩壁であろう、アルプスのスケールからいえば見落とされる程度の岩場である。しかし、山陰や九州地方の登山者、クライマーは、西日本唯一の登攀を対象とした壁があり、色々な雪の尾根があり、氷の滝がトレーニングの場を与えている。
 大山の屏風岩の初登攀は、終戦直後の混乱期であり、クライマーと呼ばれた人たちは、いかなる装具を用いてこの屏風岩を登攀し、厳冬期の登攀をしたのであろうか。
 23年11月23日中央ルンゼ、大山山岳会の港叶、岡田 克
 24年10月18日中央ルンゼ港ルート、広島山岳会青木厳、福間旭氏等が初登であろうか。その当時「大山同人」という方々が居て、大山の各壁・沢を登っていたという。
 昭和40年高校生の頃から大山を登り始め、昭和44年出雲山岳会に入会し、せっせと元谷小屋に通い始め、中央の「RCCU」をまねして「元谷同人U」を名乗ってお互いに切磋琢磨、練武を重ねていた。
  久松山岳会、伯耆山岳会、岳友会、MCC、津山山の会等、そして山口から九州にかけての峨眉同人の人たちと登りそして、12月第1日土曜日にザイル祭りと称して元谷小屋で飲み会をやったものである。
  その夜に元谷小屋に泊まれなくてビバークした人達が何人か居られたが大変申し訳無く思っています。