「赤石山系の縦走(四国法皇山系)2007年10月

  アキレス腱断裂から1年が経過し、ようやく山に登れるようになった。
 もう少し早くから登れただろうが、臆病になった俺の心・体が、闘志を萎えさせていた。
 10年程前に、四国の赤石山系を登った友人から、「赤石は、良かった。」と聞いていた。高山植物の宝庫としては四国随一、また稜線の岩稜も景観も良かった、山の価値は高さだけではないと言っていた。
 愛媛県新居浜市の南部で、石鎚山系から東に延びる稜線が笹ヶ峰の東部(ちち山別れ)で平家平への稜線と、北東に伸びる支脈が赤石山系で、別名「法皇山系」ともいわれている。
 山系の中心となる東赤石山(1,706m)は赤石山系の最高峰で、日本二百名山、花の百名山の一つである。東赤石山から八巻山そして前赤石への稜線は、岩稜となり、四国の山には珍しい岩場の連続であり、前穂の北尾根のようであった。
 地質的には三波川変成帯に属し、エクロジャイト、カンラン岩などの特徴ある岩石が分布し、赤茶けたカンラン岩の荒々しい岩峰、そしてオトメシャジンに代表される特有の高山植物の宝庫で県の天然記念物で知られる。全山橄欖岩からなり、この岩に含まれる鉄分が酸化され赤く見えることから、赤石山の名がついたといわれている。

 9月の中旬に自宅近くの標高差400m程の山に登り、足首と筋肉等の状態を確認した。
 登山は、足を様々な角度に置き、体重を掛ける為、不安があったが、少し足首付近に若干の違和感が残ったが、痛み等は無かった。ゆっくりとした山登りなら出来ると、山行を決めた。
一年ぶりに登山用具を引っ張り出し、愛車に載せ一路四国に向かった。
 予定は、新居浜市の旧別子山村の登山口で車中泊、翌日は筏津から八巻山から東赤石山、権現越、権現そして赤石山荘泊、前赤石山から銅山越そして日浦に下山。石鎚方向に向かいつつ、経路上の山を登りつつ、途中で山小屋か車中泊、石鎚山の頂上を踏んで近くの宿に宿泊し広島に帰る計画であった。
 「しまなみ海道」を快調に走り、村上水軍の城跡「能島」見学するために、カレイ山展望台に車で登る。狭い海峡の早い潮を利用した城跡で、遺跡の調査が実施中であった。
 新居浜ICを出て市内のスーパーで生鮮食料を購入する。スーパーの一角に金糸銀糸に彩られた絢爛豪華な飾り物が置かれていた。近くにいた婦人に聞くと、あと10日ほどすると、新居浜や西条市で太鼓祭りが開催されますよと、ポスターを指差した。
 登山後自宅に帰り調べて見た。新居浜太鼓祭り(にいはまたいこまつり)は、愛媛県を代表する秋祭りで、毎年10月16日〜18日の3日間、金糸銀糸に彩られた40台以上の絢爛豪華な太鼓台(たいこだい)と呼ばれる山車が練り歩く。
 新居浜の人は単に「太鼓」と呼ぶ。新居浜の太鼓台は、豊年の秋を感謝して氏神様に奉納しているものであり、起源は平安とか鎌倉時代といわれているという。記録として出てくるのは江戸時代の文政年間というから200年以上昔からであるという。
 スーパーを出ると、旧別子山村に向かって車を走らせる。途中の別子銅山記念館に立ち寄り見学する。別子銅山は、元禄年間から約280年間も日本の貿易・産業を支え、現在の住友グループの礎となり昭和48年にその幕を閉じた。
 資料館は別子銅山の歴史や技術を後世に伝えるために、1975年(昭和50年)に住友グループ各社が共同で設立した。(資料館は、毎週月曜日及び祝日が休館)a
 銅山記念館から国領川に沿って進むと、マリントピア付近から人家はまばらになり、谷は狭く急峻な道になる。山紫水明の感が漂い、大永山隧道を通過して旧別子山村に入った。
  

 筏津山荘に立ち寄りバーベキューハウスの利用の許可を受ける。夕食は焼肉にしたが、新居浜で安い肉を購入した為、まずい焼肉になったが、酒さえあればご機嫌な俺がここに居た。
 翌朝、6時に朝食を食べる。ザックを担ぎ、筏津山荘の標識のあるバス停が登山口である。
登り始めは調子が出ない。植林の中の登山道を登っていく。私の直ぐ後に女性を交えた5名のパーティが続いた。お喋りが鳥の声のように止むことなく続く。
 ヒノキ林の中の道が水平道になり、そして平坦な水田の跡地のような草原にでる。頭を上げると遠くに赤い岩壁の東赤石山の山頂が見える。
 草原は50mほどで終わり、竹薮の中の屋敷跡のような石垣や人手の入ったような平坦な地点を通過する。このあたりは豊後と呼ばれる集落の跡で、屋島や壇ノ浦で破れた平家伝説の落人の集落であった。
 嶺南地域には後白河法皇にまつわる説話が残り、多くの平家の落人伝説やそれにまつわる地名もある。
伝説の一つによると、平家の落人の三兄弟がこの地へと落ちのび住み着いた。三兄弟にちなみ、余慶(よけい)、豊後、葛籠(つづら)という地名が村内にはあるそうだ。
 沢の水音が大きくなり、道が急なジグザグになり登山道に岩場が現れると、右下に八間滝が見える地点に着いた。
登山道は急な斜面を横切るように続き、滝の見える地点から直ぐの左手の沢には、パイプから水が流れている。右下に電力会社の保線道が見える。
 登山道を進むと水音が遠くなり、そして緩やかに下り水音が近くなると、瀬場谷橋に着いた。
 岩と水そして木々のきれいな休憩地点である。ザックを降ろし疲れた足のストレッチをする。
瀬場谷の本流に架かる橋を渡り、数十m進むと道標があり、右は旧赤石登山道、左は瀬場谷沿いに赤石山荘に進む道に分岐する。
瀬場谷沿いの登山道を登る。左股の左岸沿いの道は、九十九折れに高度を稼ぎ(喘ぎ)ながら登っていく。造林の林を進むと谷の水音は遠くなり、砕石されたような小石の斜面を進んでいく。

   

 水の音が近くなると初めの渡渉点となる。河原の平たい岩の先ある大きな岩の下流側を巻くように進む。右岸沿いに進み、そして渡渉点を過ぎるとまた左岸を登って行った。蛇紋岩系の岩石に変わって行くそうだが、私には一向に判らない。
 低木の中で登山者に追い越された。暑くて風の無い山道は、苦痛しかない。白馬の八方尾根では寝不足で歩き、太陽に照らされた苦しい登りはこんな感じだった。いや、折立から太郎小屋に登った道もそうだったなと、考えながら歩く。
 追い越した登山者は、草花を撮りつつ登っていく。疲れた私にはそんな余裕は無かった。ただ喘ぎながら、美しい花を横目で眺めつつ、歩を進めるだけになっていた。
 石の上を歩くようになと、道端の看板には「自然(草花)保護のため石の上を歩け」とある。樹林帯を抜け、笹原を進むと前方に八巻山の岩の稜線が見える。東赤石山や権現越方向と赤石山荘との分岐点に着いた。
 分岐点を左手に進み低木の木々の間を進むと数分で山荘の前に出た。
 山荘の周辺には、沢山の布団や枕・毛布等寝具が干されている。寝具の間を縫うように歩き、山荘の中に入る。
 玄関の土間で山荘の主人が、登山者と話している。土間の長椅子にザックを降ろし、汗を拭く。
 登山者が小屋から出て行くと、主人は部屋に案内しくれた。部屋は太陽が差し込んでいる明るい部屋であった。主人は直ぐにお茶を入れてくれた。
 東赤石山に登るため、カメラや行動食等を持って山荘を出た。小屋の外に出てみると、主人は小屋の周辺の草刈中であった。
 山荘から直接八巻山に登る道(20分)があるそうだが、よくわからないためにトラバース道から赤石越のコースにした。
 先程の分岐点まで帰り、屏風のような八巻山の岩壁が迫り、権現越方向にトラバース道を東に進む。岩についたコケの一種を写真に撮りながら歩き、水平道を東に進み、赤石越に登る分岐点まで進んだ。
 急な斜面を登り赤石越の鞍部に到着した。河又への道、八巻山、東赤石山への分岐点である。
 道標には東赤石山には10分と記されていた。私はまず八巻山に登り、帰りに東赤石山に登ることにした。
 岩稜の登山道は踏み跡も少なく標識も無い。大きな岩や木の根っこに注意し、ホールド、スタンスを求めつつ進んで行くが、体力の不足や弱くなった足に負担が掛かり弱気になる。
 到着した山頂には、八巻大権現の小さなステンレスの祠が祭ってあった。

   

 赤石山荘の主人から、来週、全国の行者さんが大勢集まり、ここ八巻山の祠や、山荘の前で盛大にお祭りが行われると聞いた。
 八巻山と呼ばれる頂きはなく、東の赤石越から西の石室越の岩山全体を八巻山と呼ぶそうだ。
 山頂の祠の直ぐ下で、コーヒーを沸かし、至福の時を過ごす。デジカメで東赤石やその先の峯々や、瀬戸内の海に浮かぶ島々、石鎚方向等360度にカメラを振り回す。
 山頂を後に赤石越に戻ったが、東赤石山は断念した。弱った足では山荘に帰るのが精一杯と判断し、弱い足をかばいながら17時に山荘に帰り着いた。
 小屋の主人から、予約無しで夫婦連れ(石鎚から縦走)が1組増えたといわれ、東京から遅くなるが1人小屋に泊まると聞いていた。今夜は主人を入れて5名となりそうだ。
 一人で豪華(?)な夕食を造る。ラーメン2個に魚肉ソーセージ、鯖缶そして焼酎である。
 エンジンの音が響くと蛍光灯に灯が点いた。シュラカップに焼酎を入れ赤石山水を適量いれると、極上の酒になる。
 一人で飲んでいたら山荘のご主人が、「こちらに来て一寸やりませんか」と、誘って下さった。「チョット」に弱い私は、誘惑に勝ってアルミの容器に入れた焼酎を持って部屋に移動した。
 石鎚から来たご主人も来られ、3人で一頻り山の話が咲いた。ご夫妻は二ツ岳に登り縦走を終えたいとのことであり、コースの状況を山荘のご主人に教えてもらっている。
 小1時間で退出し、寝床に入った。布団は今日太陽の陽射しを十分に受けた為最高の寝床になっていた。小屋の中も静かになり、私も眠りに落ちて行った。
 真夜中、小屋の玄関入り口が開く音がして目が覚めた。ご主人の部屋の開く音がしてご主人さんが起きて行かれた。時計を見ると0時を指していた。足音がして暫くして、小屋の外を歩く音がして、炊事場の方に回る音がした。
 寝床の中で、こんな深夜でも登山者が到着すると対応される山小屋の人は大変だと思っていた。再び玄関に回る音や炊事場でも音がしていたが、私は再び眠りに落ちた。
 5時に目が覚めたが、体中が悲鳴を上げもう少し、もう少しと寝床に縛り付けた。

   

 6時起床、7時前にご夫妻が出発。私は7時過ぎに部屋を出て玄関で靴を履いていると、ご夫妻を見送っていたご主人に会った。
「昨夜は遅くに登山者が着かれ、大変でしたね」というと、「イヤ、昨夜は来られなかった。ビバークでも―――」といわれた。「でも、玄関が開く音がして、ご主人の足音がして、炊事場に廻る音や   」というと、「テン場に学生が一人居るが、来たのかな、それとも でたのかな  」と言葉が止まった。それ以上私は聞くことが出来なかった。
 ご主人が、「水は十分に持たれたかな。稜線で水は 」。私は「2.5は、持ちました。ダイヤモンド水までは十分と思います」
 山荘をあとにして石室越に向かった。途中テン場があったが、誰も居ないし、使ったような痕が残っていない。木々の間から八巻山の稜線や青空が見える。
 石室越ではゴウゴウと木々を揺らす風の音がする。霧が流れている。石室越から下り見晴らしのよさそうな地点に出ると、顔を風が殴り続けるようだ。前赤石の基部に達した時、天気予報を確認すると、山や海は荒れているという。今日は昨日と違いかなり風が強い、稜線は霧に覆われている。
 前赤石(1677)のトラバースは、目印も梯子も、ロープ一本もない。踏み跡を探しながら岩を抱き、スタンスを探し、ホールドを探し前進する。北アルプスでは、岩にマークが有り、鎖があるだろう。これが本来の自然の登山道であるまいかと前進する。前赤石のトラバースが終わり物住頭(ものずみのあたま)に向かう。
 物住頭の三角点に触れてからザックを降ろす。小休止を取りながら、前赤石、八巻、東赤石山を撮ろうとするが、霧に邪魔される。
暫くすると、西赤石方向から3人の登山者が登って来た。3人は私と同年代の若い人(?)達で、一人が東赤石を指差し「あそこまで2時間で行けるのだろうか」といい、もう一人が「歩けば着くだろう」と言っている。私は「そうですね。歩けば--」と頷いていると、3人は前赤石を目指して出発した。

  

 3名と別れると、西赤石に向かって緩やかな稜線を下っていく。低木のさわやかな稜線を下り、最低鞍部から緩やかに登る。
 私は、水平道や登りになると、呼吸を整えるため頭の中で数を唱える。時には口から出るが。登りは右足が地面に着くときに十の位を、左足が着くときに、一の位を。こうして百まで数えると、一から数えなおす。平地では、右足が十の位で、もう一度右足が着くときに一の位。すなわち4歩で「一」と数える。
 呼吸は数を唱えるときに吐き、そして吸う。吐くことに注意をして吸うことは考えない。
 地図と現地の地形を見ながら、次の登りは「100の三段登り」とか、「100の五段登り」と考えながら登る。登りきれなかったら、「追加、100の二段」とする。
 数を呼称しながら下ると、大怪我に繋がるので絶対にしない。
 西赤石山(1625)の頂上に立ち、これから下る稜線や周辺の山々を眺めていると、前赤石で感じていた強い風も収まってきた。コーヒーを沸かして飲むことにした。少し甘く作り糖分補充する。飴を舐めながら歩く予定だったが、誤ってノンシュガーにしてしまいブドウ糖が摂れない。
 眺める下界には、瀬戸内の海や島、山の中には東平(トウナル)の駐車場や建物。稜線の先には銅山越やその先の峰々が見える。
 下りは登り以上に足に負担が掛かり、次第に疲労となり蓄積されていく。覗き(1482)と称する地点でまた休憩する。目の下に東山のなだらかな稜線が見えるが、覗きから急激に下っている。これは疲れた脚には恐怖だ。
 東山の穏やかな稜線は庭園のようである。銅山で働く人たちが遊びに来たのだろうか。そして銅山の子供たちも此処まで登り遊んだのだろうか。
 東山から下ると、コナラの林の中に入った。林の中は舟形の地形の中を進む。この船形は銅山関係の建物が風を避ける為であろうか。そのような跡地が多くあり、銅山の栄枯盛衰感じた。林を抜けて明るい広場に着いた。ここが銅山越といわれる峠である。数人の若者が休んでいた。
 この銅山越は元禄15年(1702)から明治19年までの184年間別子銅山の粗銅を新居浜の港まで運び出す重要な峠であった。銅山から中持人夫によって粗銅が運ばれ、帰りは鉱山で働く数千人のために、食料や衣類などが背負われた苦しい汗が流れ落ちている道である。
 峠の一角に石垣に囲まれた地蔵さんがあった。暖かい四国とはいえ、海抜1294mの峠は、厳しい気象のため、風雪の中生き倒れた人の無縁仏を祀ったものであるという。
 地蔵さんの縁日は旧暦の8月24日で、道筋には幟がはためきお店が立ち、子供相撲などが行なわれたという。
 峠から少し下ると牛車道が右手にある。私は左手に水平な道を日浦に下るため石の道を進んで行く。石に数本の溝があり、石の性質かと思った。(下山して資料を確認すると、車の轍だという。大八車であろうか)
 銅山越(1294)は銅山峰とも言われていたのだろうか。資料には、銅山峰は1300mと記入されていた。また、資料には銅山峰から日浦の旧別子登山口までの高度差500m道程約3.2Kmの間に元禄時代から大正5年までの225年間の産業遺跡がある。今日の住友グループや新居浜の発展の原点はこの谷にあるという。
 整備された溝が現れ、段々と深くなった。左手に水平な道が見え看板には牛車道とあった。分岐から直ぐの地点に歓喜間符、歓東間符の看板があった。
 登山道には銅山の資料が掲げられている。
 別子本鋪(ほんじき)に着く。本鋪とは一山の主たる生産坑。元禄4年5月9日に幕府の稼行の許可があり、泉屋の番頭田向重右衛門は、ここに坑道を掘り、掘り出した鉱石の中から銅を摘出する拠点を決めた。
 こうして最初に掘られた坑道(口)が歓喜間符、歓東間符である。番頭が決めた坑道は明治に東延(とうえん)斜坑が主たる生産坑になるまで約200年間ここが本鋪であり続け、この周辺には鋪方役所があり砕女小屋や工夫の住宅があった。
 稼行許可の日に新居浜市の大山積神社に住友の関係各社の例大祭が斎行されている。
 小足谷川沿いに下って行く。その周辺を散策すると、遺跡の様子が判るだろうが、今日の私にはそんな余裕は無い。掲げられた看板を見ながら下るのが精一杯であった。
 目出度(めった)町鉱山街入口前を通過する。目出度町は別子銅山の中枢で勘場があり、銅蔵や食料庫、資材庫等があり厳重な柵があった。勘場の下に商店街、料亭、郵便局や小学校があった。写真は急斜面の中に石垣の上に家が立ち並んでいる。明治25年に大火災があり、勘場が焼失し勘定場の上に遷り、重任局と改称されていた。明治には別子鉱山の組織改革が行なわれ勘定場は会計課に、吹方役所は製鑛課となった。
 トレーニング、リハビリ不足の為か、コースタイムの1.5倍の時間が掛かっている。
 沢沿いに下ると、ダイヤモンド水についた。地下数十メートルの所に、時価数億円のダイヤモンドが眠っていて、怪盗ルパンが狙ったが、ゼニガタのトッサンに邪魔された程のお宝らしい。真偽の程は発掘された時点で判明するだろう。
 昭和26年に掘削を行い新たな鉱床を発見しようとした。予定深度まであと僅かの所で水脈に当たり大量の水が噴出しジャミングという事故がおきてダイヤモンドを散りばめた先端部分が残ってしまったために、そう呼ばれている。
 病院、劇場に使われた事務所や小学校、測候所、山神社、接待館、醸造所等の跡を見ながら疲れた身体を励ましつつ下っていく。この他に東延斜坑、大切、天満、第一通洞南坑(代々坑)、斜坑、大和間符などの坑道がある。また蘭東場、火薬庫、大山積神社、精錬所、溶鉱炉、酒や醤油の醸造所、円通寺の跡地等がこの小足谷川の周辺ある。
 私はよれよれになって登山口の駐車場に下山し登山道具を降ろした。
 数個のアメとペットボトルの水だけを持ち、車を回収に筏津山荘に向かった。行程6k標高差150mを歩き始めた。車道は1車線しかなく車が来るたびヒヤヒヤしつつ、歌いながら歩き、そして数を数えながら、弱々しく歩いていく。
 目標となる村や家は無い。南光院がくれば半分は過ぎる。南光院はまだか。弟地の集落を過ぎれば後1kと歩いた。
 南光院の境内には小足谷にあった、円通寺小足谷主張所が移され銅山の事故や自然災害等の諸霊の供養が今も尚続けられているという。a
 筏津山荘が見える地点まで来ると、三人の登山者とすれ違った。三人は物住頭で会った人たちであった。彼らは日浦の登山口に車があるという。
筏津山荘のご主人に今晩の宿泊をお願いすると、17時過ぎであったがOKとなった。
 山荘の上の駐車場までの100m程が遠く感じるほどヘトヘトであった。
 愛車に乗り込む。疲れていてもアクセルを踏むだけで車は千里を行く。南光院を通過した時、先程の登山者に追いついた。「車の位置まで乗りませんか」と、1名を車に乗せ、そしてもう一人を乗せると、あとの一人はこの地点で待ってもらうことにした。二人を乗せて登山口に向かった。
 車内で、色々と話している内に、私の親会社の人達であることが判った。三人はこの後、剣山に移動するという。登山口で二人を降ろすと、登山道具を回収し筏津山荘に引き返す。
 山荘の風呂に入り、疲れた足をマッサージする。
 夕食は虹鱒の甘露煮や塩焼き、お刺身が出てご満悦であった。ビールを頼み一人で山の無事を祈り、山の神に感謝して乾杯する。
 中高年の登山者が十数名で食事をしていたが、話題は山の話でなく年金の話ばかり。
部屋に引きこもると、直ぐに寝入った。翌朝は雨の音で今日の行動への闘志が萎える。朝食のため食堂に移動すると、河の水音を雨の音と勘違いしてしまった。昨夜は疲れていたため聞こえなかったのに。
 石鎚の予定を中止し、銅山の施設(マイントピ・東平地区など)を見学し旅を終えた。

 宿泊施設の予約(電話)等は山岳関係の冊子を確認してください。
 赤石山荘(要連絡)は、法皇山脈唯一の山小屋で寝具はありますが自炊です。筏津山荘(月曜日休み)は手ごろな値段であり、コテージ等の施設もあります。