元谷小屋の「瀬戸の花嫁」

(1) 瀬戸は日暮れて 夕波小波    あなたの島へ お嫁にゆくの
    若いと誰もが 心配するけれど   愛があるから 大丈夫なの
    段々畑と さよならするのよ    幼い弟 行くなと泣いた
    男だったら 泣いたりせずに    父さん母さん 大事にしてね
   (2) 岬まわるの 小さな船が     生まれた島が 小さくなるわ
     入江の向こうで 見送る人たちに  別れつげたら 涙が出たわ
     島から島へと 渡って行くのよ   これからあなたと 生きてく私
     瀬戸は夕焼け 明日も晴れる    二人の門出 祝っているわ

 俺 大山昇は昭和21年の生まれです。
 幼い頃から夕日に輝く大山を見ながら、常に憧れを持ち育ちました。
 小柳ルミ子が昭和47年に歌ったヒット曲である。
 瀬戸の花嫁を歌いたくて、練習したが音痴の俺には無理だった。それでも練習し、音痴なりに最後まで歌うことが出来るようになった。
 その頃、俺には山仲間に好きな娘がいた。瀬戸内の町に住んでいる東山優子だった。
 仲間の結婚式で一緒になったり、冬山合宿に来たり、山小屋などで出会ったりしていた。山の仲間に隠れてこっそり文通をしていた。
 12月の便りに、「今、『瀬戸の花嫁』を練習している」と書いた。
 そして、ある年の冬、優子に「一人で大山に入る。その日は大休小屋泊まり、次の日に野田ヶ山からユートピアの小屋、土曜日の夕方には頂上又は宝珠から元谷小屋に入る。」と告げた。
 心の中では、「元谷小屋に上がってきてほしいな、翌日は二人で北壁の沢を登るか、稜線を歩きたい。山小屋に登って来てくれるだろう」と淡い気持ちを抱いていた。
優子が、返事を書いても、受け取れない日を選んで投函した。
 木曜日の朝、スキー客で溢れる中の原・上の原スキー場を横切り、国際スキー場から川床に下り始めると、積雪は少なくなってきた。上はセーター、下はニッカズボンにロングスパッツの軽装で歩く。
阿弥陀川を渡ると、樹林帯の急坂をジグザグに登っていく。積雪が少なく古い雪が救いである。人の歩いた跡は無く、赤いテープが頼りの心細い進軍である。
 台上に上がると、夏道を思い出しながら、赤いテープを捜しながら登っていく。雪は堅くワカンが効き歩くのは気持ちがいいが、真冬に汗が流れる。セーター脱ぎ、鉢巻をして歩いて行く。
 ザックはザイルに数本のアイスハーケンとカラビナなどの登攀用具に、ツエルト、半シュラフ、羽毛服、コンロ、食料等で膨らんでいた。
 ブナ林の自然林の中は風が無く暖かく、新雪が少ないため、ワカンが効いて歩きやすい。
 大休小屋に着いた。小雪が舞い始め、気温が低くなり始めた。
 小屋の前にザックを降ろし、大きなビニール袋を手にすると、小屋から離れた綺麗な雪を集める。
 大休小屋はブロック造りで、小さな窓があるが雪に埋もれ真っ暗である。ライトを点ける。入り口を入ると土間があり、その奥が4畳位の板場で2段になっている。 
 羽毛服を着込むと、夕餉の準備を始める。半身用のエアーマットの上に座り込む。コンロに火をつけ、鍋に少量の水を入れるとコンロに乗せる。ビニール袋の雪を少しずつ鍋に入れ、夕餉の水や、翌日用の水をポットに詰める。
 冬の山小屋で食べる食事は侘しい。
 下界では、刺身、小料理やオデンがある。ここにはそんな物はない。ラーメンにパン、チーズそして凍りついた壁と冷え切ったカビ臭い空気だけだ。
 凍りついた壁が蝋燭の火に煌き、氷の宮殿の如く贅沢なものである。
 ポリタンクのサントリーのVSOを取り出す。アルミのコップに入れ、コンロの火で暖め、喉の奥に流し込む。山に入るときはいつもブランデーを持っていた。
 寝る前に、外に出てみると、小雪が舞っていて5Cm程積もっていた。朝には幾ら積もるのか不安が残った。雪になったため少し暖かいが、上下のWのヤッケを着て、上は羽毛服、下は半シュラフで寝る。
 冬山にしては静かな暖かい朝を迎えた。外に出てみると新雪が20Cm程ある。
 朝食は、インスタントのコーヒーにパン1個そしてチーズ、オボスポーツ、チョコレートである。その日の行動食もコーヒー以外は同じである。
 ザックに荷物を入れ、ザイルを外に取り付ける。アイゼンとワカンを着けると新雪の中に踏み出していく。
 小屋から真西の方角に向かう。小屋からは広い緩やかな尾根である。赤いテープに導かれながら野田ヶ山の頂上までラッセルを続ける。傾斜が無い為と、古い雪の上に積もった新雪のため歩き易い。
 頂から少し下り、ヤセ尾根で雪が不安定のためのため、木にステ縄セットしザイルを使って下る。親指ピーク手前まで慎重に下る。西側の三鈷峰側の斜面は垂直である。
 親指ピークは木登り状態で越える。ピークを越えて進むと、いよいよ振子山登りになり、急斜面の100m程は雪崩の発生が怖いため慎重に直登する。
 振子の稜線に出る。300m程尾根を進み一度下ると、夏場はお花畑の斜面をユートピアの南にある1550m地点に向かい登る。雪崩が発生しないように、注意しつつラッセルしていく。
 ユートピアの小屋にザックを入れ、アタックザックを背負うと、三鈷峰に出かける。三鈷峰は北側から見ると三角の美しい峰である。一度鞍部に下り、雪庇の出た尾根を登る。頂は風に飛ばされ夏に造られたケルンが立っている。
 小屋に帰ると、宿泊の準備にかかる。時間は早いが今日はこの小屋で過ごす。単身のラッセルに疲れた体は休息を求めている。
 昼食兼夕食の準備を始める。行動食の定番のパン1個そしてチーズ、オボスポーツとチキンラーメン食べる。食欲のおこらない、なんとそっけない食事だ。ラーメンが暖かいだけで、あとは冷たくても食べられるものだけだ。
 小屋は戸の建付けが悪く風が吹き込み部屋の半分くらいは雪が積もり非常に寒い。
 小屋の中にツエルトを張る。上はWヤッケに羽毛服、下はWのズボンに半シュラフで板場に座るとVSOを飲む。ツエルトとの中に入り、シュラフカバーに潜り込み時間の過ぎるのを待つ。雪洞のほうが暖かいとおもう。
 翌土曜日の朝は、非常に寒かった。日本海や岡山県の山々が見渡せ天候はすこぶる最高である。風は無い。暖かくなるのを待って小屋を出発する。
 天狗ヶ峰までの稜線は、腰を越すラッセルに苦しむ。天狗からは雪庇の張り出した、剣の刃状の稜線を進み、剣ヶ峰を越え、弥山の頂まで来ると頂上には数名の登山者が見えた。
 頂上小屋の中で休憩するため、ヘッドライトを点灯し屋上の煙突から中に入る。
 コンロを取り出し紅茶を作る。ブランデーを少し落とし一瞬沸騰させる。紅茶とブランデーの香りを楽しみ、パン1個そしてチーズ、オボスポーツとチョコレートを食べる。
 小屋を出ると頂上台地を、トレースに従い下る。八合目のケルンからは尻セードで飛ばす。瞬く間に六合目の避難小屋に着きそのまま行者谷コースを下る。誰も歩いていない。
 ブナ林の下りは、転げるように飛ばして下る。元谷小屋が見える地点まで下ると、小屋の周辺に人影がないかと探した。
 「土曜日の夜は、元谷の小屋に一人で入る」と手紙で伝えていた。
 優子はこれまで何回か小屋に来ていたので、一人でも冬の小屋に入れる、来てくれると思いこんでいた。
 小屋に着いたが、誰も入山していない。天狗の間の窓にローソクを立て、外から見れば、小屋の中に人が居るのが判るようにした。
 夕方になり、数名の登山者が小屋に入ってきた。A山岳会の4人の中に優子の姿があった。
 二人だけの小屋が怖かったのか、雪山の入山が怖かったのか、でも、来てくれたのは嬉しかった。
 いつもの賑やかな、山小屋の夜が始まった。
 食事の準備に、甲斐甲斐しく動いている優子の姿が眩しい。
 夕食が終わり、酒が出され、俺も残っているブランデーを出した。山の話等色々な話題が出てきた。山岳会の仲間達の会話に合いの手を入れながら、俺にも時々そっと注いでくれた。
 壁全体が凍り冷たい小屋の中は、蝋燭の灯火と、コンロ、人息等で暖かく久方に会う俺達は、思いっきり飲んだ。山の歌が始まり、A山岳会のBが得意の『ボルガの舟歌』が始まった。「エイコーラ エイコーラ」は全員が声を合わせた。
 時間がたったとき、優子がいった。
 「瀬戸の花嫁を歌ってください。歌ってー」
 その時、俺は恥ずかしくて歌えなかった。音痴の俺の歌を披露するのが怖かった。
 翌朝、山岳会員と優子は大山の頂上目指して出発した。俺は一人山を降りた。
 元谷小屋に春が来た。ある日手紙がきた。
 「私の心の中に、ある人がいるのです。その人は、ここ数年の内に海外の山に登ろうとしていて、その人を支援したい」
 優子との最後の晩餐となった元谷小屋の夜。
 何故、手紙に「瀬戸の花嫁を練習しています」と、書いたのか。
 書いたことにより優子の前で歌うことまで考えなかったのか。
 仲間達は既に酒に酔っていたが、歌えなかった。誰も朝には忘れているのに、俺は優子の願いを無視してしまった。
 その場所に居た者は、いつも山で会いザイルを結び、壁を登った仲間達なのに、恥ずかしさなど無いはずなのに、その時音痴でも一生懸命歌えば、何かが変わったのかも知れない。
 残ったのは、あの一人の山行と、瀬戸の花嫁の思い出だけであった。いや、手元にある一枚のリバーサルフイルムの中にその人が佇んでいる。