「穂高岳を征服した」

 北穂から下る途中、クサリ場で前のグループに追いついた。
 そのグループは、募集登山隊であった。
 グループの中のある人が言った。「奥穂は昨年征服した。今年は北穂を征服した。」
 話の前後からして、考えてしまった。登頂したことが「征服」したことになるのか。本当にそうであろうか。
 私は30年以上山登りをしているが、「山を征服した」と感じたこともない。
 先般、剣岳も登らせていただいた。征服ではなく、「登らせていただいた。」のである。

 登山とは、山を登ることだが、各人の登山がある。
 色々な登り方があるし、色々なルートがある。色々あってよい、その人が「征服した。」と、思えばそれはそれでいい。しかし、その考えが、気持ちが自信となり、山を甘く見るようになる感覚が恐ろしい。
 「山を征服する。」と、いうことについて少し考えてみたい。
 国内の登山について考えてみると、金銭・家族・天候・山小屋・交通機関・職場の上司・同僚・時間・装具及び体力等、有形・無形の色々な事柄が複雑に絡み合って可能となる総合的な行動である。それが通常の登山である。
 海外の登山や、昭和の初めまでの登山は、山案内人、シェルパ、コック、メールランナーや人足等やスポンサーまで加わっての複雑・怪奇で総合的な活動である。
 「山は、優しいとき、厳しいときがある。」
 「山は厳しいのか。」しかし、それは人間が言っているだけで、本当は山は不変なものであり、厳しくもなければ優しくもない。その時に登った人が感じた自然現象等である。山を総合的に感じたときに、厳しく、また優しく感じる。
 山は、自然の中にあり、登山者も自然の中にある。季節により天候により、「人間に厳しく感じさせる。」ことがある。
 あえて征服と言うのであれば、春夏秋冬にしかも天幕、食料等を担ぎ上げて頂上に立ったときであろう。
 人に連れられ、地図もみない。ルートも考えない。食料も行動食だけ担ぐ。山小屋泊まり。布団があって、食事付き。就寝から起床まで全てお任せ。常に雨具を着て行動し、危険回避の知識もない。こんな登山が果たして「征服」という言葉が出てくる山登りであるのか。
 山は優しくはない。突然雷鳴がなり、豪雨がやってくる。
 「冬の山」ともなれば、吹雪の時もあれば、暖かくシャツ一枚でも過ごせ、これが冬の山かと感じるときもある。
 吹雪の稜線や、雪崩れたときには、人間は極端に無力なものとなる。
 夏に、ガイドに連れられ、山小屋泊まりで頂上に立ったとして、征服した気持ちになり、自分の登山能力が向上したと思った。その傲った気持ちが怖いのである。
 自分の体力以上の山に登って、天候の激変、パーティ中で自分の力が劣ったときに、どんなことが起きるのか、待っているのか。その方は判らないであろう。何故なら、何時も自分の側に人がいて他の人に迷惑をかけていても守ってもらっていたからである。
 旅行業者の斡旋する登山が悪いわけではない。参加する人の考え方に問題があると、私は言いたい。
 見も知らない人、名前も、年も、体力も、気心も知らない人と、運命共同体を組織し、登山するなら、参加する人こそ自分自身が責任を持ち、その山に見合った訓練をし、体力を充実して参加してもらいたい。
 私の知人には、募集登山に参加して登っていいる人たちがいる。でも、彼らはザイルの取り扱い、岩場での訓練をしてから参加している。
 燕岳に、蝶ヶ岳に登った。常念岳に登った。次は穂高岳、槍ヶ岳に登りたい。こんな気持ちは理解できるが、征服したからという考えを持たないで、登らせてもらったと、感じてもらいたい。
 どんなパーティでも力の差はある。でも、仲間として常に訓練し、飲み語らった仲ならことに当たっては、身の危険を顧みず対処していくだろう。疲れた仲間の荷物を分担し、疲労した仲間も無事に下山していける方策を考えていけるだろう。
 登山という目的のために集まった募集登山隊の隊員は、自分の体力と経験を考えて加わってもらいたい。
 ガイド登山が悪いわけでない。
 私も、ガイド付き登山で登ってみたい壁がある。60歳を過ぎて登りたい前穂の東壁四峯とか、滝谷ドーム正面壁、剣のチンネ左稜線、Dフェース等である。しっかりガードしていただき、昔登った壁を登ってみたい。ここ数年が可能な年齢であると考えるから尚更である。
 そのためにも、しっかり訓練し自分なりに満足する登攀となれば。
 登山は、その行為は各人の責任により成り立っていることを考えてほしい。
 リーダーは、確かに責任の一端はあるが、究極の判断をせざるを得ないときの自分の経験・勉強・常識の中で下すが、全てが一番いい判断ではない。結果として、良かったり、悪かったりする。
 その責任は、後日裁判で争われることもあるが、異常な状態で発生した遭難は、町中での季候の良いところで、争っても事の異常さは伝わってはこない。
 登山の現場検証は、猛吹雪の場所で、極端な疲労の中で起こった事実を検証してもらいたい。
 でも、そんな所では出来ないであろう。
 被告、弁護士、検察官、裁判官も生きていけるかわからない、場所で可能か−−−。
 究極の登山をしたときに、征服というのであれば、確かにその山は「征服」したのである。
 でも、私には、まだ、そういった山は無い。何故なら途中で中途半端登山をするようになったためである。
 年を重ね、ある時、突然私も「征服した。」と感じるのであろうか。その時に、登山のやめ時であると感じたい。