山陰の街  「ユキとの出合い」  2008年10月

一人の登山者が出会った人は、山陰の街に似合う和服の人だった。
俺は、穂高の滝谷から帰った翌週。汗が流れるような暑い日の夕方、伯耆市の東にある伯耆大山駅前にあるアルプス山荘に行った。
車窓から積乱雲が発達するのを見ていたが、下界では、雲の動きには関心が薄く、ただ積乱雲が出来たとだけ思った。アルプス山荘から会社の寮まで10キロを歩いて帰ろうとしたとき、夕立に会った。人通りが少なくなった路地を走り、ある小さな小料理屋を見つけ雨宿りにと入った。
感じのよい店の中は、カウンター席と小さな小上がりの和食の飲み屋だ。
中年の男達数人が小上がりで飲んでいた。入口に近い席に着くと、和服の綺麗な女が寄ってきた。カウンター越しに小鉢や箸が並べられ、オシボリを渡しながら「外はまだ雨」と、微笑んだ。冷たいオシボリは火照った顔や手に心地よかった。「お飲み物は、何になさいます」と小首をかしげた。
俺はその女の顔を見て驚いた。その女は昨日友人と出かけた大畑電鉄のビアガーデンで見かけた女だった。和服の似合う綺麗な女性が、俺の知っている島田と飲んでいた。俺は島田に気づかれないようにしながら女を見つめていた。
店の奥から、若い女が顔を見せた、女が若い子に「よっちゃん、お客さんの上着が濡れているの、タオルを持ってきて」、俺の顔を見ながら、「初めて」と聞いてきた。
「あなたを昨日見た」と答えた。女は思案顔で顔を覗き込んだ。「大畑電鉄の屋上で見た」というと、驚いたような顔をした。「昨日も和服でしたよね」と言うとさらに驚いていた。
俺の職場に女性が少なく、女性と話す事が無かった。まして和服の似合う清楚な女性は俺にはまぶし過ぎるくらいであった。
店の中を見渡すと、見覚えのある雪山の写真が飾られていた。何処で見た写真か思い出せない。眺めていると、よっちゃんと呼ばれた若い子が「お客さんも、山を」と、俺の顔を覗き込んだ。「常念からの穂高だけど、どこかで見たことがあるんだなー」と呟いた。
「あの写真は」と聞くと、よっちゃんは和服の女を見ながら、「ママの好きな写真はこれ一枚だけ」と寂しそうに離れた。
奥にいた客が「タクシーを呼んで」と言い出したので、俺も席を立った。ママと呼ばれた和服を着た女性が「近いうちに寄ってください」名刺を差し出した。名刺には、「駒鳥 中田ユキ」とあった。ドアを開けて外に出ると雨が上がっていた。
俺は10日程してアルプス山荘に出かけた。店番は若い男がやっているが、オーナーは自動車販売会社の会長島田だ。店番の男と話していると、島田が入ってきた。「幸ちゃん、久しぶり。今度は何処に入るんだ」と、話しかけた。
「藤岡らと黒部の奥鐘に行き、根雪の来る前に、燕から常念、蝶に行き、食料と燃料をデポしてきます」と言うと、「常念は、一人でやるのか」と寂しそうに言った。そして「奥鐘は黒岩や角田らも、行くんだってな、長いザイルを頼んでいたが下降用か」といいながら、「この写真を持って行くか」と冬の穂高岳の写真を出してきた。「これは」というと。「ほれ、春までそこの窓際に掛けていたやつ」
「俺、駒鳥でこの写真と同じ写真を見たんですが」「幸ちゃん、駒鳥のママの旦那が常念岳から撮ったものだが、旦那は5年ほど前に谷川岳の一ノ倉で雪崩に遣られて逝ったんだ」「遺体が5月の連休まで出なくて」「中田音二郎という有名なやつだった」と島田は一方的に話した。
「5年前、千葉に居た。県立大卒の早島と谷川の烏帽子を登りに行って、東京の連中が、雪の中からザイルが出ているのを見つけて、掘り出していたが、翌日の新聞に冬季モンブラン単独登頂の中田音二郎が発見されたって」「俺、あれが中田さんとは知らなかったから、現場に近寄らなかったです」
中田音二郎は、山陰から東京に出た数少ない有名な登山家で、神田でアルプス山荘という店を経営していた。俺は山陰を出るとき店の在処を聞いて、何回か訪れた事があった。中田さんは山陰から出てきた事を聞いて色々と相談に乗ってくれていた。
俺は、驚いて島田の顔を見つめていた。
「音二郎が亡くなって数年したときなー、音二郎の出身地にユキさんが帰って来たとき岳登会の横田や俺が開店を手伝ったんだ。ユキさんの親類が魚屋だし小料理屋と自然と思ったんだろう。従兄弟が不動産に勤めながら板前をしていて」「アルプス山荘の道具や内装品を、買い取って今のアルプス山荘になった」と、経緯を話してくれた。
「音二郎が冬の常念で写したやつで、何枚か引き伸ばしていた一枚だが、駒鳥の開店のとき、誰かが贈ったものだった。ユキさんは飾りたくないようだったが、山の仲間が来るからと進めたんだ」島田はそういうと、俺に写真を持たせて出て行った。
俺は時々駒鳥に顔を出した。俺は辛口の酒を飲みながら晩酌セットか、おばんざいセットを頼んだ。あまり多くを語らない俺にとって注文するのに楽だった。店にいる俺は、写真を見つめながら手酌で飲んでいた。初日に話し込んだが、二度目からは静かに飲んでいた。

9月20日藤岡、黒岩そして角田の4人で北アルプス黒部峡谷下の廊下にある奥鐘山西壁OCCルートを登るため山陰を出発した。
21日宇奈月から黒部峡谷鉄道のトロッコに乗車。11時過ぎに欅平駅に到着し、登山届を出した。駅員が奥鐘に登るのなら線路を横断するルートを案内するといって構内のシャッターをくぐり沢に下る経路を教えてもらった。冬期歩道用トンネルへ入って発電所内の塀を乗り越え河原へ降り立った。黒部川の水量は少なく股下までの渡渉で上流へ進むことができた。
発電所が見えなくなる地点で右岸へ渡渉する。右岸に沿って進むと奥鐘の前衛壁で左方ルンゼ、奥が奥鐘山西壁である距離的は近いが1時間ほど掛かって岩小舎に着いた。
岩小屋に着くと直ぐに黒岩と角田の二人は偵察のため岩に取りつく。俺と藤岡が増水に備えて対岸にチロリアンブリッジの設置や宿泊の準備をしつつ、流木を集めて焚き火を始めた。渡渉で濡れた服を乾かし始める。藤岡が岩魚を吊り上げ料理していると、偵察組が帰ってきて「ルートは適当に選んで3ピッチまでザイルを伸ばした地点で、近藤・吉野のルートが判った。OCCはその直ぐ近くにあるので、ロープをセットして来た」という。
岩小屋に集まり酒盛りを始めた。酒がなくなると飲めなくなり、岩だけに集中できる。変な理屈をつけて飲み出した。岩小屋の焚き火は煙が上に昇り煙くない。
22日晴 穂高の屏風で水が無く脱水症状になり、ウイスキーを沸かし飲んだ藤岡の経験で一人5ットルの水を持つ。運動靴からクレッターシューズに履き替える。
5時に前日のザイルにユマールをセットし登っていく。流水溝からブッシュに入り前日のフィクスの終了点まで登り、ロープを回収した。
第一ハングの下まで登り「近藤・吉野」ルートを黒岩が教えてくれた。左へブッシュを利用して進み潅木を頼りに登りトラバースすると、第一ハングの階段状に変る地点でOCCルートを確認した。俺は空身となり大量の登攀具を持ち、藤岡はザックを担ぎ先に進むことになった。黒岩と角田らは荷揚げとスリング等の回収に当たった。
4P第一ハングの乗り越しはハーケンを追加して登る。ハングは逆階段状で足が壁に接触しており難しくはない。ハングを越えて右上のビレイポイントへあがる。
5P右上に古いスリングのあるリングボルトが見えるが、そこまでのピンが見当たらない。トラバースしようと苦労したら枯草の下にピンがあった。ビレイ点から一旦左へトラバースし回り込むように右へ行く。古いスリングを利用し、草に隠れたピンを探しながら登っていく。
6Pピンを探しながら登り凹角状のカブリ気味の草付。ピンが無い、草付をノーピンで登ると傾斜の緩いスラブに出た。硬い岩場、易しいスラブを進むと広島ルートとの合流点のレッジに着いた。黒岩達から回収した登攀具を受け取り、藤岡がトップに立ち俺はザックを担ぐ。
7P藤岡は傾斜のあるスラブを登って行く。右手のブッシュ混じりの壁に残置ピンを発見した。ブッシュラインまでこれを登る。幅の狭いバンド。
8P草付を10m登ってエイドで登り、左のフェイスを快適なフリーで登りビレイポイント。9P草付を登る。ピンの状態が悪い。潅木につかまりながら登り、小ハング下でビレイ。古いスリングの巻きついたピンで確保。
10P小ハングをフリーで越え、草付の凹角を人工で数メートル登り行き詰まる。カブリ気味のフェイスが越せない。「左に回り込むところが最悪」というような説明があったのを思い出した。小さなバンドを拾いながら左へトラバースしカンテを回り込み易しい岩場にはいあがってビレイする。
11P草付のない岩場が広がっている。垂壁のエイドでスタート。時々フリーで登る。
小ハングの右側をマユ毛ハングへ向かう。マユ毛ハングの出口のピンに手が届かず隠れているピンを探すが、見つからずハーケンを打つが根元まで入らない。藤岡はスリングを垂らしハーケンを回収するように言ってきた。
12Pやさしいエイドとフリーでトマリ木ハングの付け根にある松の木でビレイ。ここから俺がトップで登る。
13Pトマリ木ハングは松の木を伝わって数歩行くとリングボルトが打ってある。ハングを越えると上のハングした草付が悪そうだったので5m程右へトラバースし、もう一つのビレイポイントでピッチをきる。
14Pビレイポイントの右手にあるスラブが気になるが、OCCのラインはほぼ直上だった。ホールドがあり快適に登る。残置ハーケンも見つかりハングの下でピッチを切る。ここでハンモックビバークにする。下を登っていた黒岩達はヘッドライトを点けながら登ってきた。
翌23日は15P目から黒岩と角田がトップを登る。傾斜の強いスラブにハングを左へ回り込むようにリングボルトが連打されている。アブミを使い登っていく。リングボルトから右の凹角をブッシュを頼りにして登る。このブッシュの登りは黒岩らがザイルをセットしてくれていた。右のカンテ状の岩場へ移りカンテを登ってピッチを切る。
16P張り出し6mの最終ハングの一番目の小ハングはハングのリップにあるボルトから次のボルトまでの間隔が異様に遠い。
左へ「浦島太郎ルート」を見送り、終了点直下の小ハング下古いハーケンあるが出口にピンがない。右へ3mトラバースし枯れたヒノキにスリングを巻く。スリングに足を入れヒノキに這い上がる。ヒノキにスリングやハーケンが打ち込まれている。
草付の斜面をさらに5メートル登って頼りないブッシュにビレイ。
17Pのビレイポイントは足場がなくもう一ピッチ登る。ブッシュを利用し10m登りスラブに沿って右上する。約30mでスラブを横断するバンドに到着し残置された2本のリングボルトでセルフビレイをとり本当のビレイを解除する。リングには約束の赤いテープがあった。リボンを回収する。
懸垂下降を予定している京都ルートらしい。
スラブを横断するバンドを伝わって10メートルほど下降した地点から20mで大木に着いた。大木から20m下り右手の不明瞭なバンド状を歩き小さな平坦地に着く。ブッシュから下を見ると京都の終了点のようで黒沢達が待っていた。
時計は15時を回っているので、直ぐに懸垂下降を開始する。京都ルートの懸垂用の古いピンは腐っていて怖い。所々補強し、空中懸垂をしながら京都ルートを見ながら下降していく。
三角岩の上のテラスロープを右寄りに投げないと次のピンへ到達できない。第一ハングの直下で懸垂ピンを中継し、ゆっくりと下降し、19時に河原に降り立った。
先に降り立った藤岡がガスコンロに火をつけレトルトの飯を準備したが、疲れた角田と黒岩は少し休ませてくれといい横になった。今日一日トップを受け持ち青色吐息のようだ。しかし、缶ビールを黒部川から引き揚げると起きてきた。残していたウイスキーで完登祝いをする。岩小舎にある流木で焚き火を始めると蕎麦を作り、レトルトの飯や残ったものを胃袋に入れる。そして酒の肴になりそうなものは、何でも酒の肴にして飲んだ。
24日朝朝食を食べていると雨が降り始めた。あわてて撤収し欅平駅に逃げ込んだ。ところが発電所の塀の梯子はザックを担いで登れないので、ザイルで荷揚げのように引き揚げた。荷揚げ中にチロリアンのロープの撤去を忘れたことに気づいた。トロッコ電車を待っていると本降りになった。
トロッコ電車の整理券を求めると1時間待ちだという。濡れた服を脱ぎガタガタ震えながら着替えていると角田がビールを買ってきたので乾杯する。土曜日のためトロッコの窓のある特別車は満員であり、一般車に乗り雨具を取り出し震えながら宇奈月へ向かった。
楽しい5日間だった。気心の合う仲間との登攀でありそのように感じた。
俺は、奥鐘から帰った翌日、会社から真っ直ぐに、駒鳥に立ち寄った。一昨日までOCCルートを攀じ、終了点にいたことが信じられない気持ちだ。ユキがお絞りを手渡すとき俺の指がユキの手に触れた。「山の天気は如何でした、伯耆も晴れが続いて」ユキは笑顔で聞きながら、お酌した。ゆっくり口に運びながらユキの姿や声が聞こえると「ここに来るとホットするなー」と自然に言葉が出た。ユキがカウンターの中から出て、俺の隣の席へ移動してくると優雅に腰をかけると、酌をしてくれる。細身の体型なので和服が映える。話し合うと豊に表情を変え、切れ長の目と屈託のない笑顔は素晴らしかった。しとやかで大和なでしこ的な美人である。店を切り盛りする芯の強さも好感が持てた。
こんな美人から酒を注がれるとそわそわとしてきたが悪い気はしない。
俺は大山の頂に初冠雪が来た日、伯耆市を出発し11月4日16時に穂高駅に着くとタクシーで中房温泉まで入った。紅葉は既に終わりかけていた。猿の集団を見かけた。登山口の近くに細野の蒲鉾型のテントを張ると松本駅で購入した弁当を食べると直ぐに寝込んだ。
5日の朝4時に一台のマイクロバスが登ってきた。男女10名程が降り賑やかに出発して行った。腕時計を見ると5時前だった。俺も簡単な朝食を摂ると、スパッツを装着して6時に出発する。
10時過ぎに合戦小屋ついてみると雪があった。先行の10名は休んでいた。温度計を見ると0度だった。合戦ノ頭では展望を楽しんだ。この辺りから雪の量が増えるが、夏道を行く。
雪のついた尾根を汗をかきながら登る。何時も初日は調子が悪い。冬季の装具、そして荷揚げの燃料や食料などで膨れた背負子は重く、順調とはいえない。苦しい登りだ。
14時前に燕山荘に到着。裏銀座の稜線がはっきり見える。カメラを取り出して写した。
山荘の従業員達が2名いて明日一度下るので今日はここで泊まるようすすめられた。3名の人が既に泊まっていた。山荘の玄関に背負子を入れると、小さなザックに食料やツエルト等を入れて、燕岳に向かう。
夏の稜線の様に軽快に歩いた。燕の頂上に立つと直ぐに燕山荘に帰る。裏銀座の山々は三段紅葉で青空、雪、紅葉に常緑樹と見事であった。
10名の登山者は山荘の横に冬テンを張っていた。マルキの水筒に詰めたブランデーをカップに入れストーブの余熱で暖めた。大きな荷物を見て、「何処まで行くのか」と聞いてきた。俺は「徳本峠辺りまで、常念と蝶の小屋にデポをする」というと、「10月22日に雨から雪に変わり、23日には10センチも積もった、もう完全な冬山だから」と注意をし「正月は7日までは営業するから、また会いましょう」と言ってくれた。
夕食は、ラーメンに乾燥野菜や肉を入れ、ソーセージを食べた。
山荘の温かい部屋は別世界だった。4時に目が覚め、山荘の外は強い風が吹いていた。まだ山小屋の人と昨夜の連中はまだ眠っていた。ストーブにかかっていた薬缶からお湯をもらい、テルモスを満タンにして、コーヒーを造りパンを食べると、小屋の外に出た。
テントは既に撤収され、蛙岩への稜線に10名の人影が動いている。夏以上に快適な稜線は初冬であることを忘れさせた。
蛙岩の所で先行者に追いつくと、彼らは蛙岩の冬季ルートにクレモナの細引きを張っていた。蛙岩の中を進んで、先行者の前に出た。切通の岩を通過して稜線上のルートを登っていく。
横通岳からの下りの背の低いシラビソの林に入ると猿の群れと出会いと、そして常念乗越に小屋の赤い屋根が見えた。
常念小屋従業員たちが今小屋を閉めたところだから冬季小屋に入ってくれといい、一の沢を下っていった。冬季小屋の中には既に3人の男が居た。俺は中に入りデポ用の資材を入れた1斗缶の中から、今回の食料を取り出し、ガムテープで塞いで小屋の壁から5m程離れたダケカンバの木の高い所に縛りつけた。
冬季小屋に帰ると、男が「岳稜登行会の大北です。冬に入るのですか」と聞いてきた。俺は「正月開けに一人で燕から徳本峠まで行き、出来たら霞沢岳まで足を伸ばす予定で、偵察がてらデポにきた」と話した。「正月は何時から」と聞かれ、「4日の朝から、稜線まではラッセルを利用させてもらい、稜線に上がれば一人でもなんとかなりそうですから」と話すと、大北は「俺たちは常念から槍に、そして涸沢岳から新穂高に行くが、今回は常念から槍へ行く。もう一組は、槍から涸沢岳に登っている。正月は会えないなー」「今の一の沢はまだ下れるが、正月ごろは危ない」と忠告してくれた。
雪をビニール袋に入れ小屋に持ち込み、コンロで水を作りながらブランデーを飲む。雪山は水作りから調理が始まる。今回は少し乾燥させた白菜と乾燥肉や乾燥豆腐、にんにくにキムチの素を入れたキムチ鍋作り、最後にアルファ米ぶち込むと完成させた。大木らと語らいながら飲み交わした。
一の沢のゲートに熊注意の標識があり、林道の周辺に熊の糞があり乾いていないものまであったという。熊避けの鈴をもっていないので心配になる。
19時過ぎに外に出てみた。風もなく日が落ちてもあまり気温は下がらず、小屋の外では星も輝いていた。20時前には眠りについた。風の音で何度か目を覚ましたがぐっすりと寝ることが出来た。
翌7日5時に起床。天候は高曇りで弱い風が吹いている。朝食は昨日別に取ったキムチ鍋に煮込みラーメンをぶち込んで暖かい朝食を食べる。6時に背負子を担ぐと常念岳に向かう。小屋で一緒になった人は常念乗越から横通岳に登っていった。
吹きさらしの稜線に出ると、稜線の雪は吹き飛ばされている。山頂までの岩の稜線を休憩なしで登りきった。頂ではザックを卸さないで数枚の写真を撮る。穂高の頂は雲に隠れている。頂からの大きな下りは一気に歩き樹林帯の中に入った。
蝶槍の左に出ると広い稜線は雲の中で、小雪が舞い始めた。二重山稜は夏道の部分に雪が残り枯れた草の上を歩いていく。蝶の冬季小屋の位置を確認すると、小屋の壁の片隅に一斗缶を固定した。大滝小屋に向かい尾根道を進むと、浅いラッセルとハイマツ漕ぎとなる。冬季用の標識が既に取り付けられていた。
大滝小屋を過ぎて樹林帯の中を歩き、適当なスペースを見つけるとテントを張る。正月もこの蒲鉾型の細野のテントにする予定だ。テントは島田が持っているのを貸してくれた。二重になっており自立式である。
ラジオは、明日は冬型の気圧配置になり、風が強いといっていた。朝、明るくなると同時に出発。樹林帯の中は弱い風であった。そして、雪の為に道が分かりにくいが、古いテープを見つけて進んで行く。標高が下がり雪が無くなった。大滝槍見台を過ぎる頃には単調な歩きになった。
徳本峠に到着し明神に下る分岐を過ぎて15分ほど歩いた所に背負子を卸すと、アタックザックをに切り替えて、霞沢岳に向かった。頂上から冬季に下山する尾根に入り込んで見ると、冬季用の竹が立てられ表示があるのを確認した。直ぐに引き返し上高地に下ったが、「秋の日暮れはつるべ落とし」といわれるが、谷の底を歩いているので暗くなるのが思わぬほど早く来た。黒沢沿い歩き荷揚げ用の車の周回場のような所にテントを張って泊まった。30分くらいで明神の小屋と思うが、疲れて食事も簡単に済ませ就寝した。
伯耆市に帰ると、アルプス山荘に顔を出した。店の「山のノート」に山から帰ったことを記入し、店番の若い男に、島田さんに帰ってきたことを告げてもらおうとすると、会社に寄るように伝えられた。
歩いて10分ほどの国道に面した販売店に行くと、受付の女性を見て驚いた、駒鳥のよっちゃんがそこに居た。懐かしそうに「雪焼けですか、真っ黒。会長は会議だからしばらく待って下さい」と、椅子を進められた。お茶を持ってくると、隣の椅子に座り「何日いかれたんですか」「何日帰ったの」「何処を登ったのか」「寒くなかったか」と、続けざまに聞いてきた。俺は、ぼそぼそと受け答えしていると、島田の大きな声が聞こえ、「コーチャン、こちらに来いよ、コーヒーを二つ」と、言うと「よっちゃん、五月蠅くしなかったか」いいながら俺を招きいれた。
「山はどんな感じだった。稜線に雪はあったか」と様子を聞いてきた。「稜線は、夏の時間くらいだったが、蝶から徳本峠は地味で飽きてしまった。1月をどうするか、蝶から長塀尾根を下るか、霞沢岳まで行きたい」と話すと、「霞沢岳からどうする」「霞沢岳から真西に降りる尾根があるので。大正池の堰堤の下にある砂防事務所の尾根に出るルートです。2年ほど前に一回下った事があるんです」
その夜、島田に駒鳥に連れて行かれた。中には4人の年配者が小上がりで飲んでいた。島田は「久しぶり」といいながらその中に俺を入れた。「この前話した幸一くん、昨日常念から帰ってきたんだ。何幸一だっけ。幸ちゃんしか覚えがなくて」
俺は自己紹介をした。そんな俺に、色々と聞きながら年配者は名前を名乗った。大山の聡明期の人たちだった。ユキとよっちゃんが、小鉢や酒を運び忙しそうに動き回っていた。ユキは和服の袖が邪魔にならにように背中に十文字にかけた小豆色の襷が可愛かった
ユキが近くに寄るだけで落ち着かない俺は、誰かに気づかれはしないかとソワソワしながらユキの姿を追っていた。
「ユキさん、12月の第一火曜日家の女房が忘年会だと」と島田が聞いた。ユキはカレンダーを持ってきて「何人ですか」と小首を傾けた、「電話させる」と言いながらユキにお酌をした。
ユキは、板場に両膝を着きながら受け取ると、島田や仲間にお酌をしながら、俺の杯にもお酌をしてくれた。「山からお帰りだとか、真っ黒になって」といいながら、顔を覗き込んだ。ユキから香りたつ匂いのほかに優しい女性らしさも漂ってきて落ち着かない。
お開きになって店を出る島田や俺を見送りに出た、ユキは俺に「山は気を付けてね、十分にネ」ユキは念を押した。ユキの写真が欲しいと思いながら、夜の街を一人歩いていた。
山の仲間が恒例のザイル祭りをするために、大山の麓にある古いコテージを借りたと連絡してきた。前日から大山には珍しく大雪が降り、コテージに入るのにワカンを履きラッセルをして仲間を迎えた。中国地方の山の仲間が集まりザイル祭りの翌朝はスキーをやろうと言い出した。遭難救助に登録していた数名が駐在所に降りスキーを借りてきた。
俺も久しぶりにスキーを楽しんでいると、島田やよっちゃんの姿が見えた。離れたところにユキの姿があった。ユキのスキー姿はダウンの上着にズボンはトレンカーの細いズボンで脚にフィットして、和服姿しか見たことのない俺には新鮮に見えた。
俺はカメラを取り出すと、島田に写真を撮りましょうと誘ってみた。島田は直ぐに「おーい、記念だ。集まれ」と言うと、北壁を背にしてアングルを決めた。俺には島田の積極的で好意的な面が好きだった。
島田は妻やユキなど数名で来ていた。「おい、綺麗に撮れよ」といいながら近くにいる者を集めた。二人で交代に撮ると「あとで配ってくれ」といいながら、散っていった。俺は他の人の写真を撮りながら、ユキの写真をカメラにおさめた。
俺はユキの滑りを見ながら話しかけるチャンスを伺った。ユキはターンのきっかけを山側にスキーを開きだし、スキーの先を谷に向けるシュテム・クリスチャニアで下っていった。安定感があり楽しそうに滑っていった。
俺はユキの滑りを見ながら偶然のように近寄った。「こんなに早くから滑れるなんて」と話しかけた。ユキは「幸一さんのスキーは、山家さんのスキーね。ザックを担いでも安定しているみたい」と、応じてくれた。「写真が出来たら頂戴ネ」ユキは俺が写しているのを知っていた。ユキと俺は先なったり後になったりしながら滑っていった。
「私の滑りは、次の段階に進めなくて」と言った。
俺はゲレンデに出来た小さな雪のコブの頂点に中腰で立って、谷側にストックを突きながら少し伸び上がりながら廻しこむ要領をユキに教えた、山回りは出来上がっていたので、谷にスキーを落とすことが出来たら、パラレルクリスチャニアが出来ると思った。
俺は、ユキにヴェーレンテクニックを見せた。波を自然の地形で、そして自分の身体で作ることを教えた。ユキは、雪のコブを利用し楽しそうに滑っていった。ユキと過ごす時間が長く続くように願ったが、楽しい時間は終わった。
俺は駒鳥に入ると、ユキが「いつものでいい」と聞き、晩酌セットを準備した。セットのお酒がなくなるとお銚子を頼んでいた。ユキが近寄ったとき俺は、スキー場で撮ったユキの写真を手渡した。そして、スキーに行かないかと誘った。ユキは3時までに帰ることで約束してくれた。
早朝のバスの中は沢山のスキー客で立っていた。バスが揺れるたびに小柄なユキをかばった。俺の胸の中でユキの吐息や香水の香りが俺の鼻孔をくすぐり、俺は鼻孔を膨らませてユキと過ごしている実感に酔っていた。
スキー場まで歩いていると、ユキが話した「音さんとは、谷川岳のマチガ沢で知り合った」「あれからというもの、スキーにも山にも出かけていない。でも、道具は思い出に取っていたのに、亡くなる前に新しいスキーを買ったの」と、初めて話してくれた。
「神田にあったアルプス山荘に、入ったとき何処の会だって。中田さんに色々と聞かれて山陰の話をしたことがありました」「山陰から出てきて、丹沢では面白くないだろう。県立大早島が京成金町の近くに居るぞ」「早島とは卒業後離れて住所を教えてもらって」俺は、中田さんの思い出を話した。
リフトの待ち時間や、スキー場の中で初めて色々と話し合った。少しずつ打ち解けていくようで楽しかった。でも、俺は一ノ倉沢の思い出は話さなかった。
リフトの順番を待っているとき、ユキが「山は何時から」「4日の朝の急行まつゆきで伯耆駅を」と答えた。「4日ね」と念を押して、頬を染めたように見えた。
俺は勤務の調整を以前から職長にお願いしていた。工場では炉の温度を一定に保たないと、製品の質が落ち、冷えすぎると多大の損失が出る為誰かが見ていないといけない。年末・年始の保持炉の保守点検要員を確保する必要があったが、他の工員は年末・年始には誰も就きたくはない。
俺は、保持炉の保守点検の業務に就くようにしてもらい、正月休み後から長い休みを取れるようにしてもらった。
1月4日休みが終わり、職場に休みの工員が帰って来た。仕事始めの朝、俺は一人駅に向かった。ザックは膨らみ小山のようであった。ホームに立つと、ユキの姿があった。
ユキが見送りに来てくれるとは思わなかった。うれしくて思わずユキの手を両手で握り締めた。ユキの指は冷たかったが、俺の力で赤くなっていった。「いたい」と言われて、俺は自分の顔を赤くした。
列車にのって窓越しに「ありがとう」と叫んだ。ユキの頭が下がると同時に列車はホームを離れた。ユキが渡してくれた小さな包みを開いてみると、手縫いの小さなカエルと手紙そしてお弁当が入っていた。「無理をしないで。電話を下さい」と書かれてあった。
俺はユキの写真を取り出して見つめた。
会社のラミネート加工機でユキの写真をビニールパックし、水に濡れても持ち運び出来るようにした。高価な機械で本社の事務室に一台あり、誰も居ないときに作成した。
列車内は故郷から都会に帰る人たちであふれ、指定席の車内まで入り込んでいた。指定席の俺は目を閉じてユキのかえるを握り締めていた。かえるに込められた気持ちがよく判った。
京都駅で新幹線に乗り換え、名古屋から急行で松本の駅に、22時を過ぎに穂高の駅に着いた。予約していた駅前の旅館に入った。従業員に早朝のタクシーを頼んだ。
5時に旅館を出る。5時半過ぎに宮崎のゲート前にてタクシーを降り、冬山の装備を整え出発した。雪は少なくトレースが残った冬道を登っていく。大きく膨らんだザックだが、昨夜は暖かい布団に寝たこともあり、初日にしてはいいペースで進んだ。
信濃坂の発電所で大休止をし、10時過ぎに中房温泉に着いた。積雪は膝位でしっかり踏まれ上からは登山者が降りてきた。大半はウインドヤッケを脱いでいる。
合戦小屋は13時前に到着した。合戦小屋の上からは風が出てきたが、視界は良かった。14時半に燕山荘に到着した。登山道は全てラッセルが出来ていた。すっかり冷え切った身体で山荘の中に入ると、暖かいお茶を出してくれた。偵察の時顔見知りになった従業員が、「待っていました」といってくれた。心遣いが嬉しいのと、暖かい小屋で過ごせる安心感は大きなものがあり、その夜はゆっくりと就寝できた。
6日の朝6時半に小屋を出た。今日下山する人達5名と風が強い中、燕岳への往復に向かう。雪は風で飛ばされてほとんど無い登山道を燕岳に。7時山頂に立つがガスで展望は無く、時折、空が明るくなったりした。
小屋に戻りザックを担ぐと大天井岳に向かい出発する。稜線は強風で飛ばされそうになりながら前進する。蛙岩の中を通過し、雪は風に飛ばされ夏の状態で歩けた。切通岩の鎖は凍り付いていない。大天井岳への登りは強烈な西風が吹き、首をひねってはいたが顔が痛くてたまらない。突風に立ち止まり、対風姿勢をとりながら登る。強風のため休憩できずに行動し、山頂を越えて大天荘に辿りついた。
大天荘の中に入って大休止をとる。小屋の中は天国のように感じたが、自然の猛威の中に飛び出る。東天井岳の下りにかかると視界が良くなり晴れそうな感じがしてきた。
横通岳では晴れ間も見え、風も少し弱くなったようだ。常念小屋の冬季小屋は常念岳の山頂側にあった。入り口の近くにザックを降ろすとデポした荷物を回収した。
雪を払って中に入ると、燕山荘と違って冬季小屋の中は壁一面が凍りつき、さながら氷の宮殿のようで寒いが風やテントの除雪が無い分、快適な朝になった。
7時前に出発する。風が強く常念への登りはカタツムリのようなスピードで登っていく。前常念の分岐を過ぎ、頂上手前の大きな岩の中を登っていく。岩陰で小休止して山頂に向かう。常念岳の頂は槍から穂高への稜線が見えるのだが、残念だが今日は視界が200m程しかない。
駒鳥の写真はここから穂高を撮ったものだ。
3000mの冬の稜線は世界である。純白で凍りついた岩や海老の尻尾が着いた道標等は無色で、そこは死の世界でもある。
常念岳の、山頂の標識と祠を一枚にして写すと直ぐに蝶ヶ岳へ向かう。
常念岳の山頂直下の急な斜面を慎重に下降する。アイゼンの爪をズボンに引っ掛けないよう注意しながら、何百mも下降し樹林帯に入る。強風から逃れると、命の保障がされたように感じる。微かに残るトレースを探しながら歩く。
2592mピークで樹林が切れ、トレースが無くなった。夏道は斜面をジグザグに下る所だが、雪崩れそうな斜面で、稜線伝いに進んで行く。
ダケカンバの樹林帯に入り斜面をラッセルしながら登っていく。雪混じりの風が叩きつける稜線に出ると左手に蝶槍が見えた。蝶槍からの稜線はただ広く完全な吹きさらしである。夏の稜線は気持ちがよくなだらかな稜線。冬だって最高の景色が楽しめる場所だが、今日はゆっくり歩くような余裕は無い、視界が100mから数十mになる。15時過ぎに蝶ヶ岳ヒュッテの冬季小屋に入った。デポした食料などを回収し、常念分と合わせると大量の食料と燃料になった。蕎麦に乾燥肉・野菜を入れた豪華な食事になった。小屋の中にテントを張り、寝袋に入ったが、夜になっても風は衰えそうにない。
8日の天気は、冬型の気圧配置が強まり、風が強くなる予報だったが、7日の夜あんなに吹き荒れていた風が夜中には不思議に風が弱くなった。
早めに起床し日の出前に出発した。心配したほど天気も悪くなさそうだ。蝶ヶ岳ヒュッテを出て直ぐにラッセルとなった。膝上くらいだが道が分かりにくく、赤テープを探しながら進むため行程がはかどらない。夏道を外してラッセルしたりハイマツを漕いだりしながら進み。大滝小屋まで7時間程かかってしまった。
大滝小屋からはトレースが残りラッセルが浅くなった。大滝槍見台の櫓に上がったが、残念ながら山は雲に隠れ、展望はなかった。疲れた身体を励ましながら槍見台の根元にテントを張った。
日没と同時に寝袋に入り、胸のポケットに入れたユキの写真を取り出し、ヘッドランプの明かりで見つめた。ユキは今何をしているだろうか。
9日朝空は澄んでいる。櫓の上に上がってみると、槍の穂が遠くに見える。冷たい空気の中、シャッターを押し続けた。冬山の天気は変化が激しく、写せるときに撮らないとチャンスはない。
テントを撤収し、ラッセルの残っている樹林帯の中を進む。徳本峠までのなだらかな尾根を下っていく。そして緩やかに登りながら進んでいく。11時前に小屋に着いた。
小屋の前に昨夜テントを張った跡があり、徳本峠からトレースが完全に付いていた。
トレースの付いた稜線を順調に進んでいく。K1の近くで、本峰まではっきり見渡せ、いよいよ最後のピークへ向かう気分が高揚してくる。K1のピークから引き返してきた二人連れの先行パーティーとすれ違う。彼らは今朝から他のパーティーとラッセルをしたという。
お陰で苦もなく進んで来れた。お礼を言い分かれた。K1ピークで休んでいるパーティーに追いついた。彼らは天候がいいので大休止をしていた。これから徳本峠手前の黒沢と白沢に挟まれた尾根を下り上高地に出るという。
K1からは俺だけの世界になった。東側が切れ落ちた稜線は膝上までのラッセルで進む。やぶに足を取られたが締まっていた。霞沢岳ピークはゆったりとして、これまでのピークとは印象が異なり最後のピークだと思うと感極まる。何回か登ったが、今日は焼岳や穂高の連峰がそびえている。その先に乗鞍岳や笠ヶ岳、白山が見えるというが遠望が利かなかった。梓川の対岸に聳え立つ連峰は最後を飾って輝いている。
山頂から焼岳に向かって伸びる西尾根が判別できる。天候の変化が見られないので、ゆっくりと過ごす。
下り始めは緩やかな斜面だが、2500m付近の岩峰は2級程度の岩場で8mmのロープを出して懸垂のように下りながら通過する。2400m周辺のナイフエッジは、左側の産屋沢側に切れ落ちている。ここの下りは安心できなかった。雪はよく崩れ気が抜けない。やぶに足を取られて思うように進まない。ルートの目印のがコースの上にいる点が安心できるだけであり時には岩場が現れる。樹林帯に入る。倒木の斜面を通過し、雪崩れの恐れがある。慎重に下るため力がいる。闇に包まれる直前に1950m付近の小さな平地を見つけテントを設営した。テントの中に入ると、嘔吐に似たようなゲップが上がってくる。かなり精神的・体力的に痛められた下りだった。
10日下山だけの安心感もあり、疲れでぐっすりと寝込んだ。テントから顔を出すと穂高の峰々が青空にすっきりと見える。のんびり準備し出発する。木や笹に悩まされながら尾根を下っていく。尾根を外さないよう下っていく。2時間ほどで砂防事務所の上高地よりの道路に降り立った。
ヤッケの上を脱ぎ中ノ湯へと向かう。産屋沢やトンネル入り口付近で雪崩を警戒しながら通過するが、一人ではどうしようない。釜トンネルの中は凍りつきヘッドライトの灯りでツララが光る。11時に出口でアイゼンを外した。下山の届を提出し雪山で過ごした満足感と充実感そして心地よい疲労感に満足しながら道路を歩いた。
坂巻温泉の電話を借りてユキに「下山した」伝えると、ユキは「京都か大阪の駅から電話をして下さい」といった。温泉で汗を流しビールを飲んだ後で、島田や職場に電話を入れて下山の挨拶をした。バスで松本に出る間、車内の暖かさでまどろみ、そして松本のバス停で起こされるまで寝込んだ。
町は正月の雰囲気は抜けて、普段どおりの寒い町であった。
列車の中でユキに対する思いやこの山行の思いを手帳に文字で綴りながら、流れる車窓の雪山を眺めた。京都駅に着くと待合の時間を利用しユキに電話した。
伯耆駅の改札口を出ると、ユキが待っていた。俺はユキに会釈するとユキもニコッと笑顔を返した。駅にいた人々は大きなザックを担いだ俺と和服のユキを見ると振り返り見ている。
俺とユキは無言で寒い山陰の街に向かって歩いていく。俺は歩きながらユキの手を求めた。ユキは手袋を外してそっと握り返した。

OCCルートの登攀は、賀来家のホームページを参考にさせていただきました。