私の故郷、鳥取県を代表するものは、東の鳥取砂丘、西の大山である。 大山は、古代から有名であり、その秀麗な姿は伯耆富士・出雲富士としてあでやかな姿をもっているが、南壁と北壁は何人も寄せ付けない厳しい面をもっている。 東の鳥取砂丘は、なだらかな曲線と豊満な姿は、女性的な姿をもっているが、一度怒ると付近の村々を襲い災いを及ぼすほどに荒れ狂う。 山陰地方は、神話の宝庫である。 「出雲風土記」の「国引き伝説」の中で、夜見の島(弓ヶ浜)で美穂の埼(島根半島の美保関)を引寄せたとき、綱を伯耆の国「火神岳(火の神カグツチノ命をまつる山大山)」に掛けたという。苦労して引寄せた「神」と「大山」だから、いまでも鳥取県人の心に残り、いつまでも崇められているゆえんである。こうして引寄せた美保関を、今は島根県となっている。 これで良いのか鳥取県人、苦労して引き寄せた美穂の埼を。今からでも遅くない、国連に提訴して取り戻そう。だめなら武力を持って取り返そうと考えるのは私だけであろうか。怒髪衝天であるが、ここは臥薪嘗胆。軽挙妄動に事を進めないで、隠忍自重、大同団結して時を待とう。 火の神カグツチノ命が造った土地は、大山をかなめとした扇状地として北側に広がり、大山の噴出物(大山ローム)は、主に北側に広がり山地や、丘陵地を作っているばかりでなく、鳥取砂丘・北条砂丘などをも覆っている。 神話と伝説の国と云われる「因幡・伯耆」は、大陸の文化が流入しやすい都合の良い地形等に成っている。古代の朝鮮半島の民が舟をこぎ出せばリマン海流に乗り鬱陵島・竹島・隠岐諸島をへて、海上にそびえる大山を目指すとたどり着く。 さて、因幡と伯耆の国がなぜ「鳥取」といわれたのか。地名の発生は「千代川の下流に湿地が多く、朝廷の鳥取部(とりとりべ)が置かれていた。」よって「鳥取」である。 まて、そんな簡単なことでいいのか。我が故郷に、もっと偉大な人が居たのではないのか。その方は「可哀想な白ウサギを救出された、大国主神(命)様」である。大国主命から「大国県」でよかった。「日本国大国(ダイコク)県」響きもよかろう。 さて大国主神が登場すれば、先程の「因幡の白ウサギ(稲羽の素兎)」の話をしなければいけない。 大国主神は、大名持(おおなもち)神、大名牟遅(おおなむち)神、大穴牟遅(おおなむち)命、大己貴(おおなむち)命など多くの異名をもち八千矛神(やちほこがみ、武威の強い神、沢山の矛をもっている。)、葦原色許男とかさまざまな名前をもっていた。 「因幡の白ウサギ(稲羽の素兎)」 「大きな袋を肩にかけ 大国様がきかかると ここは因幡の−−−。」と始まる、因幡の白ウサギの伝説は、子供の頃によく聞かされた。 大国主には多くの兄弟神(八十神)がいて、兄弟で稲羽の八上比売姫と結婚したいため出かけた。大国主は兄たちの八十神にいじめられていた。兄達の荷物を一人持たされていた。八十神が因幡の海岸にさしかかると、「ワニに皮をむかれた丸裸」の白ウサギにであった。 この話は有名であるが、ここで若干の説明をしておこう。 因幡の八上郡の八上比売姫の所に集団(八十神)であうという話は、原始時代に見られた婚姻関係の風習で、南方系の習俗であり、女性側に選択権がある。 すこし前に遡る。因幡の海岸にある気多の前(けたのさき、気高町)の沖合に沖の島があり、兎は遊び疲れていた。帰ろうと思って海を見ると、潮が満ちていて帰れなくなった。そこに鰐(鮫のことを鰐という。)がやってきた。 「おーい、鰐よ、俺の仲間とお前の仲間とどちらが多いか知っているか。」 「俺が数えるから、海岸に向かって並んで見ろ」と、兎が言いつけた。 計算の苦手な鰐は一列に並び、「兎さん、準備よし」「あい判った、いち、にい、さん−−。」と数えていたが、海岸に近くなったとき、「しめた、これで泳がずに帰れた。お前達を騙したのだ」と言ってしまった。 怒った鰐は、兎の皮を食いちぎり、丸裸にしてしまった。 泣いている、兎の所を通りかかった、兄の八十神は、「海の水に浸かって、身体を乾燥させなさい」と教えて、八上姫のもとに向かった。その通りやってみると、塩水と太陽のため身体はもっと酷くなってしまった。 遅れて通りかかった、大国主神は、「真水で身体を洗い、ガマの穂で身体をこすりなさい。」と傷の手当法教えると、直ぐに治ってしまった。身体を洗った池は、鳥取市の西方にある白兎神社にある。 その後、兄たちは手間山(米子市の近く)にて「大国主よ、これから赤イノシシを追い出すから、捕まえてくれ。」と偽って真っ赤に焼けた石を山の上から落とした。大国主は抱き留めたため、焼け死んでしまった。その後大国主神は母神によって蘇生した。 黄泉の国へ逃げた、大国主神はスサノオ命の娘の須勢理姫命と結婚した。このときスサノオ命が、数々の試練を与えたが見事合格したため、出雲大社は縁結びの神となった。 こうして、出雲に帰った大国主は、出雲の国造りにはげんんだ。 「白兎」と「ワニ」は、人間社会に置き換えると、海岸の漁師集団と、内陸の集団(一族)の両グループの争いで拡充抗争にあるという。一族の勢力拡大抗争のまっただ中に大国主神の集団が通りかかり、負け戦だった内陸集団を大国主が助成したのではないか。その後で、因幡の八上郡の八上比売姫の所に出向いた。 大国主神が、仏教の大黒天と習合して大国様と言われたのが中世以降のことである。 日本国内の、神社の祭神を調べた鈴木禎一氏は、第一位が八幡様、第二位が大国主神、第三位が天照大神、須佐之男命、イザナミ命と続くそうである。八幡様は源頼朝が武門の頭領として氏神としたが、第二位の大国主神は神の徳のみでその地位を占めてきた。 さて、神話の重要な部分「国譲り」に入っていく。 群馬県高岡市の貫前神社の祭神経津主命は、出雲を攻略し大己貴(おおなむち)命を順服させたとある。また、茨城県の鹿島神宮祭神建御雷命も出雲を攻略し大己貴(おおなむち)命を順服させたとある。香取神宮の祭神は経津主(フツヌシ)命である。 茨城県大洗町の大洗磯前神社は大己貴命を祭神としている。埼玉県大宮市の氷川神社は大己貴命を祭神とし、その氷川は、出雲の簸川郡との縁であると言われている。石川県羽咋市に気多神社があり、祭神は大己貴命である。長野県茅野市の諏訪大社の祭神は大国主神の次男であった建御名方命は、国譲りの時反抗したが、建御雷命に追いかけられ、降参しこの地に永住を誓ったという。 国譲りは、天孫ニニギ命の降臨に先立ち香取神のフツヌシ命と鹿島神宮の神が建御雷命が出雲におもむき、国ゆずりの使者となり、出雲の大国主神の言代主命は説諭に服したが、建御名方命は反抗した。 こうして、国譲りが終わると出雲の砂浜に天御舎(あめのみあらか)が造られた。その宮は、「造り甚だ高く大きなるを以て、これを大社という」これが出雲大社である。
絵:出雲大社(2001.6.25) |