俺の山旅(表銀座から槍、そして北穂まで)(2010.10.6〜8.13)

 還暦も過ぎ登山能力も落ちてきたのは、十分認識している。
 登山は苦しい修行である。苦しい登山を出来るだけ楽しいものにするために、荷物も軽く、行動間の休憩の一時、山小屋の一時、その一時、出来るだけ思い出深いものにしたい。

 厳しい登山が何歳まで出来るのか。
 私は、自然に触れるため、また、自分の行動を大事にしたいため、単独の登山が多い。
単独の登山の危険性は十分知っている。だから行動は慎重であるべきだと思っている。
他人に任せるのでなく、危機を自分が判断し、行動する喜びを得るには、単独の登りをまだまだ続けたい。俺は変人だ。危機管理は俺の判断で乗り切る。
 登山道が整備されていないと騒ぐ登山者がいる。山道は街中の道路と違う。岩が出て、根っ子が、枝が邪魔をして普通なのに、「整備されていない」という。一般の登山者も登りたいから、若干の整備は仕方が無いが、それ以上の整備は異常でないだろうか。

 2010年夏の登山は、中房温泉から入山し燕岳から大天井岳・槍ヶ岳・北穂・奥穂そして西穂までの縦走を単独行として計画した。最後の奥穂から西穂の稜線を目的とした。

 7月27日に今年の夏の登山計画を決定する。
 京都駅から「さわやか信州号」で、穂高駅までの移動するため、28日にアルピコGrにFAXで申し込む。29日に振込みをする。
 登山の為に仕事は積極的(?)に実施し、8月6日夕の出発を出来るだけ追求するために、業務関係者との調整を進めた。当日は16時までに完了すべく走り回ったが、仕事が落ち着いたのは17時過ぎだった。
自宅に帰ると簡単な食事を済ませ、列車にて広島駅に移動する。
 新幹線のぞみ66号に乗車し、単独山行を許してくれた妻と、計画通りに進行している事に感謝して乾杯する。
京都駅で1時間ほど待ち、さわやか信州号に乗車する。窓側の席に座ると直ぐに睡眠導入剤を服用する。効果は直ぐに現れ、バスが京都市内を出ないうちに眠りに落ちた。
 深夜バスは各地のSAやPAに停まる。バスが停まると目を覚ますが直ぐに目を閉じる。一度も降りず、トイレにも往かず、ひたすら眠り込み穂高駅に着いた。
穂高駅前で10数名の登山者と共にバスを降りる。タクシーで各登山口行く人達と別れ、バスで中房温泉に向かうために穂高駅に移動する。駅前からは乗り合いのジャンボタクシーで中房温泉に向かう。一人1700円。

穂高駅から中房温泉行きのバス便が配線になったと後で知った。
 中房川沿いに深山に突き進む。車体が右に左に傾き進むうちに寝てしまい。終点で起される。
 中房温泉の橋の手前に「温泉の入浴施設」出来ている。家族で来た十数年前には無かった施設が出来ている。トイレ等も少し綺麗になっている。水を補給したりしつつ眠気を覚ませ登山の準備をする。
 登山口(1460)はその温泉施設とトイレの前にある。6:45に登り始める。
少し平地を進むと急坂になる。20数分程登ると緩やかな尾根の道になる。第一ベンチ(1610)である。
第一ベンチの裏に水場があるが、今回は十分携行しているので休憩だけにする。合戦尾根はよく整備された登山道である。登って行くと30分毎にベンチがあり、第二、第三、富士見と登って行く。
合戦小屋への荷揚げ用リフトの下(1830)を通過し、直ぐに第二ベンチだ。
 9:45に合戦小屋(2380)に到着する。水分を補充のため西瓜(八分の一切れで800円)を食べる。そして500mlのペットボトルを購入する。燕山荘までの水分補充である。
 10:15に合戦小屋を出発する。合戦ノ頭(2489)のベンチを過ぎると、尾根道になる。ありがたい事に霧が流れ、熱い太陽から護られる。反面、霧のため視界が悪い。
 燕山荘が見えてから歩く水平道は、疲れのためか永遠に着かないのかと思われた。俺の後ろに付いた登山者に前に出るように促すが、「お先に」と進めてくれた。その登山者はテント泊のようで、テン場のテントの多さに驚いていた。
11:40燕山荘(2705)に到着する。合戦小屋から燕山荘までの1:10のコースタイムが15分のオーバーとなる。休憩を除くとコースタイム通りだが疲れた。
若いときは、コースタイムの半分で歩き、段々とコースタイムに近くなり、コースタイムに休憩を入れた時間が、今の俺のペースになってきた。
 燕山荘で宿泊するか、次の小屋まで前進するか休憩しながら考える。燕岳(2762.9)は、過去2回登っているので未練はない。よし、次の小屋に向かい進むことにした。
 12:05に燕山荘を出発する。霧が晴れ、裏銀座の稜線が見え始め、花崗岩の砂礫の道を進み、コマクサの中を歩いていく。遠くに目的地の槍の穂先が見える。あんな遠くまで山道を歩くのか。
 槍ヶ岳は東西南北と四つの山稜を持つ。
それが痩せて険しいため鎌尾根と云われ、東の尾根を東鎌尾根、北に延びる尾根が北鎌尾根と言われている。今回の登山は東鎌尾根から槍に登り、南に延びる尾根を穂高山群に向かう。

 大天井まで変化のない稜線の道を進んで行くと、大きな岩が行く手を塞ぐように立ちはだかるのが蛙岩だ。蛙岩が近くなり、そして岩の中を通過(12:50)する。
大下りの頭(2660)で小休憩(13:18〜13:27)を取る。谷越しに見る槍や北鎌尾根がそして東鎌尾根がそそり立っている。100m程下り岳樺の中を登り下りしながら進んで行く。
 太陽にアブラレながら進む稜線は、夜行バスの疲れが重なり、歩が遅々となった。15:10切通岩の手前にある大きな岩の手前でコマクサの咲く斜面いた雷鳥を見つける。大天井岳が大きくなり、砂礫の道が岩の道になり鎖場を下ると、切通岩(2700)に15:39着いた。
小林喜作のレリーフに触るため岩を攀じる。レリーフに触れ、そして写真を撮る。
登山者が、「誰ですか」という。「この道を開いて殺生小屋を開いた人である」と。語ると、「だから、喜作新道というのですか」と。苦労して表銀座の登山道を開道し、花咲かない時に世を去った、喜作のことを知らない登山者。
喜作新道(東鎌尾根)が開かれるまでは、燕から槍に行くには大天井から東天井から中山峠に下り二ノ俣谷に下りて槍沢を登って行くために大きく迂回しなければ行けなかった。そこで喜作は東鎌尾根を開道すれば登山者が多く通過して自分の小屋に客が来ると思った。
その登山者が先に出発した。俺と残った登山者に、「どちらに行きますか」と聞くと「先程の人達とは。仲間です」と答える。俺はどちらで泊まるか訪ねると、「判らない」。「直ぐ先で槍と常念への分岐ですよ」「聞いていない」「---」と。
俺は、目的の山はと聞くと「上高地」と答える。「いや、その前にどこか地名は」数回尋ねて、「蝶」の名前が出てきた。「ここから10分程登り、最初の道標を左ですよ。大天荘の前にテン場もある」と教える。
切通岩から岩礫を数分登ると大天井ヒュッテとの分岐(2720)から左に、大天荘にルートを取る。燕山荘の予定が大天井岳まで来たのだから、槍に近い大天井ヒュッテでなく、景色の良い大天荘に期待しよう。
槍や穂高の夕景と、安曇野からの朝日に期待する。そう、登山は、苦しい登り、火照った身体に冷風、膝にくる長い下りと登り返し、そして、先ほどの夕と朝の素晴らしい一時を期待して歩いていると、大天荘の手前で雷鳥の親子を見つける。
十数年ぶりの大天荘(2875)の前に立った。たたずまいは変わらないが、一歩踏み込んで判った。以前の小屋ではない。暖かい小屋になっていた。山から下りたら妻や子に話そう。
厳しい環境の中での山小屋経営は、難しい中での企業努力を感じられた。
槍の向こうに沈む太陽の前に、分厚い雲があった。
8月8日の朝は、登山者の騒ぎで始まったが、俺は出来るだけ目を瞑り4:15に起床する。
小屋の外に出る。東の空に金色の光が一筋。それが朝の始まりだ。抒情詩の始まりは、稚拙な文書力ではあらわせない。単純に綺麗、凄い、ワァーで終わってしまう
5時に食事を頂き、5:30小屋の前から大天井ヒュッテに向かい下る。槍の穂先が今日はここまで来るのかと呼んでいる。大天井岳のトラバース道は整備され、急斜面の中を下っていく。

 30分程歩くと、大天井ヒュッテが見え、喜作新道との分岐点に合う。分岐から見る景色は高雲りのなかに、昨日歩いた燕岳や後立山の鹿島槍方向の稜線が見える。
 大天井ヒュッテ(2650)の前は、十数名の中高年登山者が出発の準備をしている。空いているベンチの横にザックを降ろす。今日はゆっくりした行程だ。
ヒュッテからの道は、ダケカンバの水平に近い道を進み、下り始めての鞍部(2549)が貧乏沢である。貧乏沢は北鎌尾根を登るために下って行くというが、入口の踏み跡がはっきりしていないようにも聞いた。
貧乏沢の鞍部を過ぎると稜線に出る。高瀬川の見える地点がビックリ平(2580)という。
槍ヶ岳が聳え、目の前に天上沢を隔てて北鎌尾根が見える。ビックリ平という地名が、尾根上に出て良く判った。北穂高から槍ヶ岳から北鎌の尾根、間ノ沢、北鎌沢右俣沢、北鎌コル、独標。そして裏銀座稜線の峰々がビックリするような景観が迎えてくれた。
しばらく尾根上を歩くが、地名や道標が無く自分の位置がはっきりしない。やっと赤岩岳(2768.7)の道標が見えると西岳まで半分は過ぎたことに気づいた。
単独の登山に来て、登山者と前後して歩くと、うっとうしい。
歩いていて追い越され、休憩中に追い越し、追い越される。そして前から来ると、五月蝿い。今の登山者は、群れて歩きたがる。一人で全員と挨拶しなければいけない。
稜線の道は単調だ。ダケカンバからお花畑に変わると、ヒュッテ西岳の屋根が前方に見えた時はホッとした。西岳(2758)への道標がある。単独の登山では、道標と小屋が見えればそれが一番嬉しい。
ヒュッテ西岳(2680)の小屋に着くと、ザックを降ろし、槍ヶ岳の見える岩の上に腰を下ろして、売店で水とアイスクリームを購入する。アイスは硬くて直ぐに食べられない。手に持って、少しずつ食べていると、4人の中高年の登山者が槍方向からやって来た。俺は昨夜の山小屋の状況を聞きたくて「槍ヶ岳山荘は混んでいましたか」すると「いや一部屋もらえたから」「4人で個室」「12名で予約したから」
えっ、ここには4名だけ。「残りの人は」と思っていると、15分位して後続の仲間がやって来た。仲間が分断されている。水俣乗越から1時間半程の行程で15分も分かれるとは。勝手気ままに歩くのは楽しいが、何か遭った時協力することも出来ないのに。
でも、俺は単独で歩いていて、人のアクシデントを心配するほうが可笑しいか。
西岳から水俣越しに槍ヶ岳を見ると対斜面の為、登山路である東鎌尾根が恐ろしく急な登りに見え、気持ちが萎える。

水俣乗越目掛けて下り始めると、鎖と梯子が連続し、急な道を下っていく。溝状の部分から痩せ尾根に変わる。
槍沢と高瀬川の両方に下れる沢がある地点が、水俣乗越である。数回違うなと考えつつ進んでいると、1時間少しで200mを下り、水俣乗越(2475)に着いた。
槍沢の大曲から見る水俣乗越は、急坂で登る人が少ないだろうと思っていたら、4組が登ってきた。その中に単独者がいて、躊躇せずに天上沢に下って行った。
若い頃の俺なら、こんな風に下っていくだろうが、還暦を過ぎた俺には、一人では踏み込んではいけない聖域の様に感じた。せめてガイド登山で登りたい。
技術的には簡単だが急な道はいやらしい。簡単な昼食を食べると、さあ、これから東鎌尾根を登るとしよう。2875mのヒュッテ大槍まで400mの登りだ。技術より体力勝負の世界だけにゆっくり登って行く。そう、本当にゆっくりと登って行こう。
1998年の地震で崩壊した登山道が整備されて登りやすく整備されている。長い梯子を登り進んで行くと、水平尾根(2785)の先に、稜線上の大岩が見え、カブリ岩と判断した。水平尾根で休んでいると、若いグループが登ってきて数m先で休んだ。俺は休憩しながら地図を見て、手前のコブとカブリ岩の上のコブの上に山小屋があると見た。
単独の登山者が下ってきた。俺を見て「お宅は先程から長い間休んでいるが、それでは何時までも登れないないよ」。俺は地図を見て、今日の小屋まで、あと少し登ればと思っていたが「いや、疲れて参りました」と、答えると「俺は、74歳で北鎌尾根を単独で登ってきた」という。「大きなコブを越して、もう一段コブを越した上がヒュッテだから休んでいる。疲れました」。
「単独で北鎌を」。そうだ、稜線でツエルト・ビバークして、水はそんなに飲まない。一度口に入れると、数分は飲み込まないで咽喉を潤し、飲み込むので人より少量で済ませるという。俺も使えるか試してみよう。
俺は西穂まで行く予定と言うと、喜んだように話して下っていった。
俺は、腰を上げて登って行く。一つ目のコブを越え、岩場の道を登って行く。大きな岩に「ヒュッテ大槍5分」の印がある。14時過ぎに次のコブを越えると、稜線が見える岩の上に、双眼鏡と無線機を持った若者が居た。恰好からして県警の要員と見た。
ヒュッテ大槍(2875)は目の前にあった。ザックを降ろすと中に入る。
宿泊部屋は「大槍B6」という。畳3畳に4名となった。身辺整理をしてデジカメを手に、小屋の外に出て、周辺の山を撮影する。
16:30頃雨が降ってきた。明日の天候が気にかかる。
18時に夕食を頂く。大人には食前酒のワインが出た。山小屋でワインが頂けるのは初めてだった。19時過ぎには寝た。
雨の音で目を覚ますと、まだ3時。今日の天気を気にしつつまた眠る。5時に起床したが、少しガスが出ているようで、外に出て日の出を見る気持ちが沸かない。
6:10に朝食を頂く。
今日は南岳の小屋まで行く予定だから、ゆっくり行動を開始しよう。
7:00に槍の肩に向かい出発する。ヒュッテからは、殺生ヒュッテや上高地に下る道、岩稜を登って槍の肩に行く道に分かれる。
肩の小屋に向かうと少しずつ天候が良くなって来た。真下に殺生小屋が見える。槍の肩から下ってきた登山者から「大曲へ行けますか」と、聴かれた。
「えっ、大曲とは、槍沢の」。地図を見て判らないなら聞くのも判るが、ここは地点が判りやすく、山小屋も全部見える。そんな登山者が多くなっている。地図の見方も判らないのなら---。

穂先の下を回りこみ、ガレた石屑の道をトラバースして7:55に山荘に着いた。
槍ヶ岳山荘(2990)の温度計は7℃。穂先は5℃位か風があり、体感温度は厳しいだろう。数枚写真の撮ると急いで下ろう。
 ザックを置くとゼリーとドリンクを持ち、山頂目指して8:08出発する。
空身の登りは息が上がるほど急いだが、先行者のもたつきで、ゆっくりした動きになった。頂上への最後の鉄梯子は、上下が別々になり、下りの連中が「怖い」と騒いでいる。
鉄梯子を登り切ると、8:30山頂に立った。先行の登山者の他に一人の登山者がいた。先行者の写真を撮ってあげると、私の写真も写してくれた。
360度の眺望は素晴らしく、寒さを忘れて写真を撮る。15分ほどで頂上をあとにした。そして10分余りで下った。
山荘の前のベンチに座り、槍沢の上部を登る登山者。常念山脈の稜線。昨日の山荘や殺生小屋を眺め小屋で購入した、缶コーヒーを飲む。忘れていた甘味が体内に吸収されていくのがわかる。甘味で脳や筋肉・細胞が活性化されたようだ。
ザックを担ぐと、飛騨乗越を目指し山荘の直ぐ下にあるテント場を下っていく。10分ほど下ると飛騨乗越で、岐阜県側から数組の登山者が登ってきている。乗越から大喰岳への登りは過去登ったが、全然覚えていない。
大喰岳の頂上は広く、槍の姿が美しい撮影ポイントで、昔、頂上に立って県警のパトルール要員に写真を写してもらったのが、大喰岳(3101)の山頂だった。
大喰岳から下り、中岳への50m程の登りの前で、高山植物を写すため30分ほど休憩する。今日は南岳小屋への行程4時間40分のだからゆっくりとしよう。
ザックを担ぎあげると中岳への急坂を登りきり、頂上(3084)の標識とツーショット。
頂上の南東側の残雪を西側から回り込み、残雪の末端に下り、ザックを下ろしペットボトルの水を全て捨てる。そして雪解けの水を2L補充する。北アルプスの稜線の水場はほとんど飲用に適さない。中岳と白馬の天狗小屋。そして朝日岳周辺しかないと思う。少し稜線から下れば何箇所かあるのだが。
今日・明日の南岳から北穂、奥穂への水を補給した。少しは今晩のウイスキーの水に利用できるだろうか。
2986の地点を通過し、暫らく歩くと、分岐(2975)の道標がある。氷河公園に下る分岐から、東側の斜面を覗き込むと、天狗原と横尾のカールが綺麗に見える。こんなに綺麗な人の手の入っていないカールは少ない。
分岐から10分ほど進んだ登山道で、砂浴びしている雷鳥を見つける。登山道を占拠している雷鳥に、「道を開けて」と言っても日本語が分からないだろう。遠慮していると、登山道を開放してくれた。
一等三角点の南岳(3032.7)の頂上で間食を採っていると、中岳からやって来た登山者も座り込んで食べ始めた。「ここから南岳小屋まで間に登りがありますか」と、聴いてきた。「ただ下るだけの道ですよ」と。相手をしていると大粒の雨が降ってきた。雨具の上だけを着込むと、その登山者を尻目に斜面を走って下っていく。濡れないうちに小屋に飛び込みたい。

13:20南岳小屋(2975)の玄関に飛び込む。今からキレットに飛び込むには遅すぎるので、宿泊の手続きを済ませると、乾いた咽喉に一番いいものを注文し流し込む。
 夕食後、デジカメを持って小屋を出る。いよいよ本日の締めくくり、太陽の本日の最後の演出を見るために。
18時頃から始まった北穂高の七変化。キレットに霧が流れ、滝谷を隠し、涸沢岳が、ジャンダルム、そして奥穂が現れ、滝谷が見える。俺の心が遠く離れた4尾根、ドーム西壁、ダイヤモンドを、1尾根をそしてP2を、クラックを求める。
心地よい風に体と、心が優しく揺れ、そして激しく揺れる。青春を過ごした滝谷の日々が走馬灯のように廻りだした。
8月10日の朝は不眠症かと思うくらいの身体だった。3畳に6名が寝た。寝返りも打てないし、厚い布団と熱くて寝苦しい。そして朝が来てしまった。
4時半に寝床を出ると、ザックをもって1階に降りる。トイレを済ませ、カメラを持って外に出る。富士山が雲の上に出ている。東側の谷も西側の谷も雲海に覆われている。北穂の滝谷も雲に閉ざされている。
朝食の前に用事を済ませる。小屋のパソコンで今日の天候を調べると、12時過ぎから雨になるという。そうなると行動は早いほうがよい。朝食を早々に済ませて、身支度して小屋を出る。
空は青空だ。キレットは飛騨側に雲が湧き、上高地は綺麗に晴れ上がって来た。
小屋の直ぐ先から、6:00奈落の底に飛び込むように180mの断崖を下っていく。先行く登山者を追い越して行くと飛騨側に雲が湧き、虹が出来、その中にブロッケンが出来た。虹の上は青空が広がっている。信州側は横尾本谷が美しい。これから行く北穂や先ほど居た南岳獅子岩が霧に見え隠れしている。
合計230m程下り、最低コル(2748)で一寸休んで長谷川ピークを越えていく。
下りで追い越した登山者に追い越される。登りになると急速にスピードが落ちる。まるで登りでブレーキを踏んでいるみたいだ。ドンドンと追い越される。
A沢のコルと書かれた岩の所で大休止を取る。ソーセージを食べ、飴をほおばり、水を飲む。小さな雨が降りだしたが直ぐにやんだ。先行者からの落石の心配が無くなってから腰を上げる。
一尾根やクラック尾根の垂直の壁が見える。昔登った壁だから懐かしい。
ここが飛騨泣きらしいが、何処が難所かよくわからない。岩場の通過は恐ろしいとは思わないが、登る体力がついてこない。
B沢を確認して北穂のルートは北壁になる。B沢の形態が昔の様でない。でもここはB沢だ。A沢からここまで滝谷に入れる所は無い。昔、北穂の小屋から下ったときも、最初に滝谷に下れる所が、クラック尾根、一尾根、P2への入口がB沢だった。
北穂の北壁は登攀の対象だったと古い本にあった。
小屋の直下で一休みし最後の詰めに入る。少し北壁の中央に寄り、又滝谷に寄ると北穂小屋(3050)の左隅に登り着く。最低コルから300m程登ってきた。
何時もと同じたたずまいの小屋のベンチ。少し違うのは槍の穂先が見えないことである。また、小雨が降り始めたが暫らくして上がった。
ある登山者が、槍の方向を指差し「この前に涸沢のカールが見える」と紹介していた。そうか北穂のベンチから涸沢のカールが見えるのか。きっと前穂のピークの下のカールに涸沢ヒュッテが見え、カラフルなテントが見えるのか。残念、今日は霧が隠しているのだ。

特性味噌ラーメンを注文する。キレットから登ってくる登山者を見ていると、テラスから数十m下で休んでいる。その登山者が登って来て直ぐ傍にザックを降ろす。
「長い登りで疲れたでしょう。私も直ぐそこで休みました」と話しかけた。
同じルートを辿った共有感で会話が出来る。俺は山の中で自発的に話をすることは殆んど無い。話しかけられて返答するぐらいだ。山小屋などで凄い口調で得々と話している人がいる。聞かれれば答えるが、進んで話をしようしない。俺は偏屈な登山者だ。
小屋で食事を取ったりしていると小雨が降りだした。いよいよ雨がやってきたのか、涸沢岳に向かうが、どのくらい強い雨が降るか。台風の影響でどの程度か心配する。昨年も台風で挫折した。
小屋を後にして奥穂に向かう。
ヘリポートになっている頂上から、1尾根の終了点を覗き込む。そして、松濤岩の隙間からP2方向を覗き込むがガスでよく見れない。高山植物をカメラに収める。
南稜の頭の奥穂への分岐点で、雨が降り始めた。今日は12時過ぎに松本地方は雨との予測があったので心の準備は出来ている。直ぐに雨具を着用しザックカバーを掛ける。次第に強くなってくる。雨の中を、涸沢岳を登り穂高山荘に向かうか。涸沢に下るか考える。
涸沢に下ることは、登山の中断に繋がる。今回の山が終わることになる。今年の夏が終わることになる。やっと北アルプスに来たのに。どうする。続けるか、下るか、止めるか。2300mの涸沢から3190mの奥穂高に登り返す体力がもう無い。900mを登るのに半日かかる。そして西穂への稜線を下るのに1日。雨が降らない日でないと決行出来ない。
台風も12日に朝鮮半島から佐渡島方向に、13日に東北に来る。南風に乗り雨が降るだろう。台風の雨は豪雨になるだろう。穂高山荘の先に山小屋が無い。

 11日12時、雨が強くなってきた。雷鳴も聞こえ始めた。
北アルプス南部といえ、稜線の風は強いだろう。雨で岩場が濡れて滑りやすい等の予報から、行動方針を考えていた時、雷鳴が連続して聞こえ始めた。そして少し弱いが稲妻の光を感じた。ヨシ、涸沢に下ろう。
南稜の岩場を下り始めた。テント場を通過して暫らく下っていると、北穂で話した登山者が登ってくる。「どうしました」と聞くと、「奥穂への道はどこですか」。俺は「300m程登ると、岩場の所に道標があります」「なんで判らなかったのかなー」と呟くから、「少し上にあるので、下を見ていると見落とします」「1時間ほどロスをした」と言いながら登って行く。
雨になった稜線を下り、梯子と長い鎖場を通過し、下る道も沢のような状態になった。
北穂沢の下部は、水が豊富で高山植物が美しい所だが、大雨に打たれながら必死(?)の下降中であり、花を愛でるとか写真撮影などの余裕は無い。早くへリポートにそしてテント場を通過したい。早足で下降し涸沢小屋の横を通過して涸沢ヒュッテに向かう。
警察官詰所(山岳パトロール)前を通過して、涸沢ヒュッテ(2309)の屋外売店に数人の人が佇んでいる。ずぶ濡れの俺を見る冷たい視線を感じながら受付に着いた。
受付でグランドジョラスを指定された。吊尾根に近い別館に移動する。部屋で布団を広げていると、親子連れが上がってきた。父と男子中学生だ。
食堂で夕食を頂いていると、群馬から来た登山者が隣に座り話しあった。昔の話だが、屏風の壁を登り、前穂を登ったり、岩小屋で1週間泊り込んだ話をした。
食事が終わって、明日の行動について親子で協議していた。雨の穂高に登るか涸沢で一日過ごすか思案していた。
俺は台風の進路予想から明日(12日)の天候は本日と同じ(午前中は曇り)だが、13日は相当強い雨になるだろうと予想した。12日は松本に下ることに決する。
12日の朝、吊尾根が少し見える。昨日、気になるテントを見つけたので訪ねるが勘違いだった。鳥取県の鳥取と米子の高校生がテントを撤収し奥穂に向かって出発していった。
ヒュッテで今日の天候を確認する。そして、明日の天気も確認するが、今日より明日の天候が悪くなると判断する。
涸沢から上高地に向かって下山する。風穴を過ぎて行くと、大きな男が一人走り下って来た。道を譲り背中を見ると長野ポリスとある。それから遅れること15分位してヘルメット姿の大きなザックの2人とカメラを持った男が急ぎ足で下ってきた。
30分ほどしてカメラの男が一人で引き返してきた。時間からして本谷橋付近で怪我をした者が出たようだ。
橋までは石が滑るし不安定だ。本谷橋(1785)、ザックを降ろし少し休む。橋からは歩きやすい道となり、思い出の岩小屋を通過し、横尾の小屋(1620)でアイスを買うと、歩きながら食べる。徳沢(1562)・明神(1530)も数分程休んで出発する。小梨平の近くまで来たとき大粒の雨になった。雨具を着けるとバス停に向かう。13:40のバスに間に合ったが、14:00のバスにする。

携帯で松本市内のホテルを予約する。バス停の2階にある食堂に上がって席を予約したが、席に着いたときはバス停に集合する10分前だった。生ビールを飲んでバス停に移動する。
こうして今回の山行が終了した。
松本市内で泊まり、夜は馬肉を求めて彷徨するが、美味しい馬肉にはめぐりあえなかった。
13日松本から特急で塩尻に向かう列車の窓を、大粒の雨が叩く。
南木曽に着いたときは、雨が止んでいたが、バスに乗り込むと大粒の雨が降り、妻籠の宿も大妻籠、そして馬籠も全て大雨の中だった。中津川の駅について雨が上がった。
こうして2010年夏の北アルプス登山が終わった。