元谷小屋の寝袋

「みつるケルン」

 1970年代始めの前の話である。
  俺が山を始めた頃、大山の「元谷山の家」天狗の間に誰の物か判らない寝袋があった。(当時山仲間は「元谷小屋」と言っていた
 小屋には、寝袋だけではなくピッケルや鍋釜等の装備品もあった
 寝袋は、誰のものか判らないが、何時も棚の上にあり誰も触った形跡がない
 ピッケルは、時折誰かが持ち出しては使用して、また小屋に帰って来る
 俺も時々借りては、北壁の登攀や頂上まで持っていったことがある
 ピッケルは小振りでシャフトも短く岩登りや氷壁では有効であり、重宝していたので、色々な人が使用していたようであった。
 使用した人たちは、軽くて使いやすいし、氷の斜面では足場などが簡単に切れる業物だが、女物であると話し合っていた。
 こうして何年かたった春のある日、古い山の仲間が元谷小屋に集まり「山菜を楽しむ会」を開いた。集まったのは、山陰の主だった会の人たちが集まり、鳥取岳の会、因幡山岳会、米子山稜会、出雲山の会など30人ほど集まった。
 その会に俺は居た。黒森、角田、杉本など懐かしい顔ぶれだ。
 その中に、加川京子がいた。加川は高校の先生をしていたが早期退職し、久方ぶりに登ってきた。仲間達の中では古参で、色々な登山者との付合いも多く一目置かれる人であった。
 古い仲間達であり、酒も入り夜遅くまで話が盛り上がり、さながら「大山夜話」であった。
 誰がどの壁を登った。誰が転勤した。甲川の状況は。墓場尾根は誰が登った等の情報交換も行われていた。
 夜も遅くなり酒の力を借りたのか、津山山岳会の女の子が突然切り出した。
「この小屋に寝袋があるがどなたのですか。幽霊が出るのは本当なんですか」
 元谷の小屋には、寝袋の位置が変わると小屋に幽霊が出るという、噂があり、誰も触らなくなり、ホコリが着き忘れられていた寝袋があった。
 そして、誰からかとなく元谷小屋に冬になると居る「ある男」のことを話した。
 話を聞いていた加川が話し始めた。
 数年前、元谷小屋に常連の一人の男がいた。
 「いた」という事は、今は居ないという事だ。
 冬になると登ってきては、春になると下山して行くが、どこに帰るか多くの人は知らない。
 俺は何度か元谷小屋で出会ったことがあったが、彼は何時も一人で天狗の間の片隅に居た。

   

 寡黙で、決して余分なことは離さない。どこに住んでいるのか、年齢は、仕事はなどけっして話さない。
 彼は冬の大山を黙々と山を登り、また、元谷小屋に帰って来ては寝ては登っていた。
 決して他の山に行くことがなかった。誰よりも大山の全てを熟知していた。寡黙だったが、求められると色々な壁の状況や尾根、雪崩や雪庇等の危険箇所等を丁寧に教えていた。
 彼の友人達は、入山する時には食料、燃料、蝋燭等を少し多めに準備していた。
 下山するときには余った食料や燃料等を、深川に処分を依頼し置いていった。

 加川と黒森や藤木の話は、次の内容だった
 彼の名は「深川満」。深川は、春になると大山の麓にある香取集落の杉本牧場で牧夫として働き、11月の新雪が来ると元谷小屋に登ってくる。
 何が楽しいのか、たった一人で凍てつく元谷小屋で、冬季従業員のように何時もいる。
 冬の小屋の中は何時も零下5度以下であり、朝方には零下20度以下の日が続いく。
 たった一人で小屋に起居し、登ってくる登山者が壁を登りたいが、仲間がいないと言うとザイルを結んでいた。
 深川の古い友人藤木は、深川とザイルを結んで、大屏風岩「幻のカンテルート」の厳冬期初登攀を登っている。
 藤木はクラブに入らない男で、今回も一人で大山の主稜線を縦走し、元谷小屋に降りてくると、深川に屏風のカンテを何時か登りたいと話し、来週末に登ることに決まった。
 藤木によると、大屏風岩の鏡ルートに登るための氷のルンゼを40m登り岩壁を20m登るとテラスに出る。深川はこのテラスから40m一杯の大トラバースをいとも簡単に済ませた。
 トラバースが終わり急峻な壁を40m登る。ここからハング状の壁を藤木は空中に出ながらトラバース気味に左上すると、核心部幻のカンテの基部に着く。
 藤木がハーケンテラスで確保すると、深川はアイスハーケンを打ちながらハング気味の壁をアイゼンの爪一本で10p、20pとじりじりと這い上がり、ここを突破して大屏風の頭に立った。
 深川と藤木は大屏風の頭から大屏風岩の中央をザイルで降り、また、大トラバースをして鏡岩のルートに合流して氷のルンゼを下った。
 誰と登っても、何も求めなかった。ほんの少し酒を飲んでは眠ってしまうのが常であった。
 だが、深川は決して女の子を登攀や登山の仲間には入れなかった。しかし、道を尋ねられると、付近までは労を惜しまず案内したが、絶対に登らなかった。
 女の子が北壁側に転落し遭難したときには、真っ先に救助に出たが、救助した後は他の者に任せて決して一緒に下山しなかった。
小屋にあったピッケルは手にしたことがなく、自分の安物しか使用しなかった。
 ある年の4月、深川は単独で小さなザックを背負うと、宝珠尾根から小さな岩稜を登り、象ヶ鼻から振り子山の方に下り、振り子沢に降りる草付の斜面を下り始めたとき、何らかの原因で滑落し雪渓の上に出ていた石に当たり亡くなった。

   

 加川京子は、深川満の遭難を新聞で知ると、友人の遭難防止協会員に電話し、深川の詳しい状況を聞いた。
 加川は、友人の黒森を訪ねると、深川の生い立ちや素性、山の状況を知ることが出来た。
 黒森の話の中に、深川と親密な仲だった坂倉美鶴の出会いを知ることができた。
 深川は山陰のある町の裕福な家庭に育った。
 昭和30年5月、父と母そして妹は親類の法要で四国の高松に行き、帰りに国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」に乗船した。乗客は大半が小中学校の修学旅行生であった。
 紫雲丸は霧の中で同じ国鉄の宇高連絡船「第三宇高丸」と衝突して沈没。事故により父母と妹が亡くなった。
 船の名前の由来は高松市にある「紫雲山」、同船は5回の衝突事故があり、船は「瀬戸丸」と改称されたが、昭和35年に「中央栄丸」と衝突し「中央栄丸」が沈没している。
 親類の少なかった深川は、一人で生きていかなければならなり、高校も中退し本社が東京にある倉吉市の小さな会社に就職した。
 通勤する途中で見る大山は、写真で見るアルプスの様に素晴らしかった。
 冬の朝、天神川の竹田橋から見る大山は、山並みが寄り添う中でグンと立ち上がり他の山々を睥睨している。 
 深川は中学の時、父と初めて登った大山に登りたくなった。
 山の参考書を借りてきて読んでいると、旅館に泊まらないで登るには、元谷小屋に50円払えば宿泊が出来ることを知った。
 深川は11月の終わりに大山寺のバス停に降り立ち、バス停の上にある管理事務所で、登山届と、元谷小屋の宿泊料を払うと、集落の道を登り大山寺の横から雪道となり、大神山神社の階段は雪の斜面となり足跡一つ残っていなかった。
 神社の境内で休んでいる男と女性二人の登山者が上がって来た。男の方に見覚えがあった。
「黒森さんではないですか」
 黒森は、深川の高校の先輩であった。 黒森の紹介で、黒森の婚約者卓美と「坂倉」と名乗る女性であった。
 坂倉は、米子の看護学院の助手をしている綺麗な人だった。
 4人で登っていくが、深川は輪の中には入れなかった。なにか自分に向けられる坂倉の目が気になっていた。自分の境遇を知られているのではという後ろめたさがあった。
 深川の装具は、初冬の山には貧弱でそぐわないものだった。
 元谷小屋に着くと彼らは天狗の間に入ったが、深川は外で寝ると言って小屋の外に出た。
 何故なら深川は小屋には寝具があると思っていたため、泊まる装具も準備もなく、場違いな所に来てしまったと感じていた。

   

 黒森は、小屋の近くのブナの根本にいた深川に、ツエルトというナイロンの簡単なテントと、まだ湯気の立つ料理と酒を差し出すと「ごめんな」と、謝ると小屋に消えた。
 黒森は、深川の置かれた境遇や現在の状況を知っていた。
 飲めない酒を見つめると、深川は何故か涙が出てきた。
 星が出ていた空を見つめていると、昨夜の夜勤の疲れのためウトウトと寝たが、直ぐに目を覚ましては、また、寝ようと努めた。
 明け方には、新雪が降り始め、深川は震えながら朝の来るのをひたすら待った。
 何とか朝まで頑張って小屋の中に入ると、坂倉が暖かいお茶を差し出し
「私たちは、頂上に行くんですが、行かれますか」と聞いてくれた。
「僕も、その予定です」と、答えるのが精一杯だった。
 3人の一番後に続いて行者尾根を登っていると、坂倉の方から「どちらにお勤めですか」と聞いてきた。
「私の友達が、貴方の工場の看護婦をしていますが、ご存じですか。」といった。
 深川の工場の救護室には、看護をしている女性は一人しか居なかった。それから、二人の話は、断片的ではあるが続けられた。
「名前はみつる。美鶴と書くんです。」
「僕はみつる。満です。」と、初めて二人の共通点を見いだすことが出来た。
 黒森は、山から降りると深川の登山が危なくて見ていられなく、自分がリーダーをやっている山岳会の入会を勧めた。
 黒森に紹介された店で、深川はその年のボーナスで初めての登山用具を買ったが、寝袋だけは高額で買えなかったが、角田という職場の先輩が米軍放出の寝袋を譲ってくれた。
 深川は、工場の看護婦に坂倉の勤め先を聞き出すと、春の山に誘った。
 春の山は、黒森の会は男だけだが、新人発掘の目的で募集した、男だけの「春の船上山」だったが、坂倉は来てくれた。
 美鶴と深川の姿は、土日になると近くの山や岩登りのゲレンデに見かけられるようになり、男だけの会に女が入ることについて他の会員から苦情が出てきたが、黒森は、深川の境遇を話し会員の同意を取り付けてやった。
 大山の岩登りや、北アルプスの合宿に二人は参加し腕を磨いていった。
 深川が千葉県松戸市の工場に転勤すると、美鶴は看護学院を退職して、東京の佃島にある菱谷病院の看護婦として、東京佃島の寮に入った。
 5月の谷川岳に登るため、深川は佃島の寮を尋ね谷川岳周辺の山を登ろうと誘った。
 上野発の夜行列車で谷川岳に出かけたり、丹沢、南アルプス、南八ツ等を登り、穂高の前穂東壁や滝谷の各壁を登った。
 深川が、山陰の米子工場に転勤すると、美鶴は菱谷病院を退職し、米子にある総合病院の看護婦として帰ってきた。
 二人は春の大山に登るため元谷小屋に入ると、美鶴の卒業した高校の恩師加川京子に出会った。加川は因幡山岳会に所属し鳥取県山岳協会の理事も務めていた。
 加川は、春の地獄谷は滝の連続で、山菜も豊富で素晴らしいと、二人に進め、
「今からでも、地獄谷の駒鳥小屋に入れるし、私は元谷小屋に2・3日居るつもりですよ。」と、再会を約束した。
 二人は、元谷から中宝珠越経由でユートピアに上がり、小屋で昼食を食べると振り子沢を下り始めると、大山特有の霧に包まれたが、雪崩のデブリに覆われた雪渓となり振り子沢は歩きやすかった。

   

 駒鳥小屋に着く頃には、雲の切れ間から薄日が漏れていた。
 4月初めの駒鳥小屋は入口が半分雪に埋まり、小屋の中は真っ暗だった。
 小屋に荷物を入れると東壁の偵察に出かけた。残雪のキリン沢からキリン峠を往復し、地獄谷の上部で蕗の薹を沢山集めると小屋に帰った。
 二人だけの夕餉は、ママゴトのようで楽しく、貧しい中でも山菜のみそ汁や天ぷら、酢みそ和え等で、香りを楽しんでいると、米子の高校生が大山の南壁にある、三の沢の小屋から鳥越峠経由で上がって来た。
 引率の先生は、「明日から振り子沢の上部で雪上訓練をする」と話し、深川は「地獄谷から大休峠経由で振子山、元谷です」と説明した。
 次の日に生徒達と別れ、深川達は先生に今日の昼過ぎには、ユートピア近くで会えるといって小屋をでた。
 地獄谷の朝日は遅いが、生徒達に見送られて、二人は元谷の加川先生に会うために早めに出発した。
 地獄谷は雪に覆われ歩きやすく、右岸に烏谷から落ちる滝や、左岸の名のない大滝、大休の滝等の美しい無数の瀑布を楽しみ、そして谷が狭まったゴルジェは右手の雪の斜面を登り河原に降り立った。
 水流は雪解け水を集め多くなってきた。大きな石を利用し対岸に渡る飛び石の時、深川は手を差し出し、石の上で一緒になったとき、初めて手を繋いでいることに頬を染めた。
 堰堤を下り、ついに河原一杯に水が流れだすと、靴を脱ぎ裸足で渡渉し足が紫色に変わったといっては、お互いを見つめ合い笑いあった。
 大山滝から急な大山古道を歩き、大休の小屋で休憩すると、野田ヶ山を目指し登り始めたとき、美鶴がピッケルを駒鳥小屋に忘れて来たことを思い出した。
 深川は、生徒が振り子沢で雪上訓練をするから、持ってきてくれてるのではと、美鶴に話した。
 野田ヶ山の下りや親指ピークの登り下りは木に掴まりながら越えた。
 振り子沢の見える所まで来てみると、雪上訓練訓練の風景が見られ、深川が「おーぃ」と、呼びかけると、生徒の一人がピッケルを振っていた。
 美鶴はピッケルを取りに降りる途中で、深川に
「振り子沢の上部の尾根は、前穂高の北尾根にそっくりネ。」と、振り向いた。
 その時、美鶴の身体が不自然に揺れると、振り子沢に向かって滑落していった。
 深川は、何も出来なかった。美鶴の身体は二度三度バウンドすると、雪の斜面を200m程滑った。
 深川は、雪の斜面まで下るとグリセードで下り、美鶴を抱き起こし、名前を呼んだが返事は帰ってこない。顔を見ると綺麗な顔をしていて、まるで生きているみたいだった。
 動転した彼は何も出来なかった。
 米子の生徒達が下ってくると、引率者に医師がいて、心臓マッサージを施したが、しばらくして美鶴の死亡を宣告した。美鶴は急な滑落による心臓発作による突然死であった。
 事故現場に急行する大山寺の駐在が、元谷小屋にあるスノーボートを携行しようとしたとき、加川は振り子沢の事故を知った。

 深川は会社を辞め、放心したように山を歩き、テントや寝袋を持たないで、山の中に寝たりしては大山寺の町を彷徨っていた。
 黒森は深川の姿を求めて大山周辺を探し、下山キャンプ場管理棟ベランダ下で寝ている深川を見つけ出した。
 黒森は深川と山を歩き共に生活をして、彼の心をとき解し、大山麓にある香取開拓村の杉本榮を紹介した。杉本は黒森の古い山の友達で深川と美鶴の事は知っていた。
 杉本の牧場では、彼は一心に働き何かを忘れようと汗を流し、夜は昼の労働の疲れで身じろぎもしないで眠りこけた。
 秋になり、牧草の刈り込みや乾燥の仕事がなくなってくると、牧場から見える三鈷峰のピラミッドな鋭峰の稜線を眺める時間が多くなってきた。
 杉本は、冬の期間も働けるようスキー場の仕事を進めたが、深川は大山の稜線に新雪が来ると、春まで大山に入りたいと準備を始めた。
 新雪が降り牧草の仕事が終わると、香取から一人歩いて、元谷に入る深川の姿が毎年見られるようになった。
 小屋で初めて会う人には、自分のことを「深川美鶴」と話し、聞いた人は「美鶴」と、不思議がったが。その理由を彼は誰にも話さなかった。
 深川は、毎年4月になり牧草の草が伸び始めると、その冬の最後として、元谷小屋から振り子沢を通って駒鳥小屋に入り地獄谷を下り、大休峠から香取の牧場に帰っていくのが常であった。

 ある年の春の大山は、深川にとって最後の山登りになった。
 この時も、美鶴のピッケルは天狗の間にあり、棚の上には寝袋があった。
 加川京子は、深川の事故以来大山や地獄沢に入るのを恐れていた。
「自分が地獄谷を進めなければ」、「二人の振り子沢の原因が」と、悔いる毎日だった。
 しかし、山陰の山仲間が久方に大山に集まり「山菜を楽しむ会」を催すと聞いて、何年ぶりに大山に上がってきた。
 寝袋のいわれが判ると、小屋の連中は深川の米軍放出の寝袋を懐かしんで回しあい、棚の上に返した。
 その夜は、十三夜の月で北壁は幽玄の世界に包まれ、悲しく厳しい姿をしていた。
 4月の山にしては冷え込み、小屋の中は仲間の吐く息で壁は氷つき、キラキラ光っていた。
 皆の寝息が始まり、小屋の中に月の光が差し込んできた。ふと、加川は目が覚め壁を見ると、月の光が当たらない壁に深川の上半身が浮かび、安全バンドを着けて加川の方を見つめていた。
 加川が声を出そうとしたとき、仲間達はみんなが起きだして互いに顔を見渡した。
 寝る前に、寝袋を持った者は全員深川を見ていた。
 その夜が、深川を見た最後の夜であった。
 「山菜を楽しむ会」参加者達は翌朝全員で、小屋に残っていた深川の寝袋や食器等を持って、元谷小屋を出たが、不思議なことに美鶴のピッケルは見えなかった。
 振り子沢を通って駒鳥小屋に入り、キリン沢の見える魚断ノ滝の下に寝袋や食器等を埋め、石山を築き、手を合わせようとしたとき、雪の上に一本のピッケルがあった。
 小屋を出る時には見つからなかった美鶴のピッケルだ。 不思議なことだが、真相はわからなかった。
 美鶴のピッケルは山に入りたがっていたが、深川はこのピッケルが美鶴を殺したと思い、何時までも持つことが出来なかった。
 深川としてはピッケルを捨てることも出来ず、誰かが山に連れて行ってくれることを、願っていたのではないか。
 こうして、深川のケルンに添えて、やっと二人は一緒になった。
 深川のケルンとして建てたが、誰からとなく「みつるケルン」と呼ぶようになった。
 だが、平成になり、この「みつるケルン」は誰も見ることができない。
 東壁の岩雪崩のため埋まり、地形も変わった。だが、付近には、残雪の頃になると「蕗の薹」が沢山出て、この近くにみつる達が居るのかと思い出すという。
 あれから十数年たった元谷小屋のザイル祭りに、黒森と加川は出会った。黒森が
「美鶴のピッケルが、なんで…」
 加川は静かに語り始めた
「私が、杉本さんに頼んだんです。ピッケルを…」

あとがき
 これは、1970年代の元谷小屋に伝わった話を元に、創作したもので、当時有った寝袋は島根大学生の物で幽霊とは関連がありません。
 旧元谷小屋に、誰の物か装具が残されていて幽霊は本当に出たそうです。天狗の間には上半身の幽霊が、三鈷の間には部屋を覗く幽霊が…。
 大山は西の谷川岳というほど、遭難の発生する危険な山である。