元谷小屋の寝袋

「みつるケルン」

今から30年程前の話である。
  伯耆大山にまつわる話である。
 私が山を始めた頃、大山の元谷小屋にある天狗の間に誰の物か判らない寝袋があった。
 小屋には、寝袋だけではなくピッケルや鍋釜等の装備品もあった。
 寝袋は、何時も棚の上にあり誰も触った形跡がない。 
 ピッケルは、時折、誰かが持ち出しては使用しまた小屋に帰ってきた。
 私も時々借りては、北壁の登攀や頂上まで持っていったことがある。
 ピッケルは、小振りでシャフトも短く岩登りや氷壁では有効であり、重宝していたので、色々な人が使用していたようであった。
 使用した人たちは、軽くて使いやすいし、氷の斜面では足場などが簡単に切れる業物だが、女物であると話し合っていた。
 こうして何年かたった春のある夜、元谷小屋の天狗の間に古い山の仲間が集まり「山菜を楽しむ会」を開いた。
 古い仲間達であり、酒も入り夜遅くまで話が盛り上がり、さながら「大山夜話」であった。
 誰がどの壁を登った。誰が転勤した。甲川の状況は。墓場尾根は誰が登った等の情報交換も行われていた。
 夜も遅くなり酒の力を借りたのか、津山山岳会の女の子が突然切り出した。
 この小屋に寝袋があるがどなたのですか。幽霊が出るのは本当か。と、聞いた。
 元谷の小屋には、寝袋の位置が変わると小屋に幽霊が出るという、噂があり、誰も触らなくなり、ホコリが着き忘れられていた寝袋があった。
 そして、誰かが元谷小屋に冬になると居る男のことを聞き出した。
 元谷小屋に常連の一人の男がいた。冬になると登ってきては、春になると居なくなった。
 彼は何時も一人で天狗の間の片隅に居た。

   

 彼は冬の大山を黙々と山を登り、また、元谷小屋に帰って来ては登っていた。決して他の山に行くことがなかった。誰よりも大山の全てを熟知していた。
 寡黙だったが、求められると色々な壁の状況や尾根、雪崩や雪庇等の危険箇所等を丁寧に教えていた。
 彼の友人達は、入山する時には彼のために毛布や敷物、蝋燭等を少し多めに準備していた。下山するときには余った食料や燃料等を彼に預けるように置いていった。
 その中に、加川京子がいた。
 加川は高校の先生をしていたが定年前に退職し、久方ぶりに登ってきた。仲間達の中では古参で、色々な登山者との付き合いも多く一目置かれる人であった。  
 話を聞いていた加川が話し始めた。
 彼の名は、深川満であった。
 深川は、春になると大山の麓にある香取の杉本牧場において牧夫として働き、11月の新雪が来ると元谷小屋に帰ってくる。何が楽しいのか、たった一人で元谷小屋の冬季従業員のように何時もいる。
 小屋の中は何時も零下5度以下であり朝方には零下20度以下の日が続いた。
 たった一人で入ってくる登山者と登ったり、壁を登りたいのに仲間がいない人とザイルを結んだりしていた。
 加川の友人藤木は、深川と大屏風岩幻のカンテルートの厳冬期初登攀を登っている。
 藤木は、クラブに入らない男で、今回も一人で大山に登り元谷に降りてくると、深川に屏風のカンテを何時か登りたいと話すと話しがまとまった。
 藤木によると、大屏風岩の鏡ルートに登るための氷のルンゼを40m登り岩壁を20m登るとテラスに出る。深川はこのテラスから40m一杯の大トラバースをいとも簡単に済ませた。
 トラバースが終わるり急峻な壁を40m登る。ここからハング状の壁を藤木は空中に出ながらトラバース気味に左上すると核心部幻のカンテの基部に着く。
 藤木がハーケンテラスで確保すると深川は空身になるとアイスハーケンを打ちながらハング気味の壁をアイゼンの爪1本でスタンスに立ちながら10Cm、20Cmとジリジリと這い上がりここを突破して大屏風の頭に立ったという。
 深川と藤木は大屏風の頭から大屏風岩の中央をザイルで降り、また、大トラバースをして鏡岩のルートに合流して氷のルンゼを下った。
 誰と登っても、何も求めなかった。ほんの少し酒を飲んでは、眠ってしまうのが常であった。
 だが、深川は決して女の子を登攀や登山の仲間には入れなかった。しかし、道を尋ねられると、付近までは労を惜しまず案内したが、絶対に登らなかった。
 女の子が遭難したときには、真っ先に救助に向かい救助したが、救助した後は他の者達に任せて決して一緒に下山しなかった。
 小屋にあったピッケルは手にしたことがなく、自分の安物しか使用しなかった。
 ある年の4月、深川は単独で小さなザックを背負うと、宝珠尾根から小さな岩稜を登り、象ヶ鼻から振り子山の方に下り、振り子沢に降りる草付の斜面を下り始めたとき、何らかの原因で滑落し雪渓の上に出ていた石に当たり亡くなった。

   

 香川は、深川の遭難を新聞で知ると、友人の遭難防止協会員に電話して深川満の詳しい状況を聞いた。
 香川は、友人の黒多を訪ねると、深川と坂倉の出会いや彼の生い立ちや素性、山の状況を知ることが出来た。
 深川は山陰のある町の裕福な家庭に育った。
 昭和30年5月、父と母そして妹は親類の法要で四国の高松に行き、帰りに宇高連絡船の紫雲丸に乗船した。乗客は大半が修学旅行生であった。
 霧の中で国鉄の連絡船同士の衝突事故により、父母と妹が亡くなった。
 親類の少なかった彼は一人で生きていかなければならなり、高校も中退し本社が東京にある倉吉市の小さな会社に就職した。
 通勤する途中で見る大山は、写真で見るアルプスの様に素晴らしかった。
 冬の朝、天神川の竹田橋から見る大山は、山並みが寄り添う中でグンと立ち上がり他の山々を睥睨している。 
 深川は、中学の時父と初めて登った大山に登りたくなった。
 山の参考書を借りてきて読んでいると、旅館に泊まらないで登るには、元谷小屋にて50円払えば宿泊が出来ることを知った。
 深川は11月の終わりに大山寺のバス停に降り立ち、集落の道を登っていく。大山寺の横から雪道となり、大神山神社の階段は雪の斜面となり足跡一つ残っていなかった。
 神社の境内で休んでいる男と女性二人の登山者の、男の方に見覚えがあった。
 「黒多さんではないですか」
 黒多は、深川の高校の先輩であった。
 黒多の紹介で、彼の婚約者卓恵と坂倉と名乗る女性であった。
 坂倉は、看護学院の助教授をしているきれいな人であった。
 4人で登っていくが、深川は輪の中には入れなかった。なにか自分に向けられる坂倉の目が気になっていた。自分の境遇を知られているのではという後ろめたさがあった。
 元谷小屋に着くと彼らは天狗の間に入ったが、深川は外で寝ると言って、小屋の外に出た。何故なら彼は小屋には寝具があると思っていたため、泊まる装具も準備もなく、場違いな所に来てしまったと感じていた。

   

 黒多は、小屋の近くのブナの根本にいた深川に酒を差し出すと「ごめんな」と、謝ると小屋に消えた。黒多は、深川の置かれた境遇や現在の状況を知っていた。
 飲めない酒を見つめると、深川は何故か涙が出てきた。
 星が出ていた空を見つめていると、昨夜の夜勤の疲れのためウトウトと寝たが、直ぐに目を覚ましては、また、寝ようと努力した。明け方には、新雪が降り始め、深川は震えながら朝の来るのをひたすら待った。
 何とか朝まで頑張って小屋の中に入ると、坂倉が暖かいお茶を差し出し「私たちは、頂上に行くんですが、行かれますか」と聞いてくれた。「僕も、その予定です」と、答えるのが精一杯だった。
 3人の一番後に続いて行者尾根を登っていると、坂倉の方から「どちらにお勤めですか」と聞いてきた。「私の友達が、貴方の工場の看護婦をしていますが、ご存じですか。」といった。
 深川の工場には、看護をしている女性は一人しか居なかった。それから、二人の話は、断片的ではあるが続けられた。
 「名前はみつる。美鶴と書くんです。」、「僕はみつる。満です。」と、初めて二人の共通点を見いだすことが出来た。
 黒多は、山から降りると深川の登山が危なくて見ていられなく、自分がリーダーをやっている山岳会の入会を勧めた。
 黒多に紹介された店で、深川はその年のボーナスで初めての登山用具を買ったが、寝袋だけは高額で買えなかった。角田という職場の先輩が、米軍放出の寝袋を譲ってくれた。
 深川は、工場の看護婦に坂倉の勤め先を聞き出すと、春の山に誘った。
 春の山は、黒多の会が新人発掘の目的で募集した、男だけの「北山山系の春の山登り」だったが、坂倉は来てくれた。
 坂倉と深川の姿は、土日になると近くの山や岩登りのゲレンデに見かけられるようになり、男だけの会に女が入ることについて他の会員から苦情が出てきたが、黒多は、深川の境遇を話し会員の同意まで取り付けてやった。
 大山の岩登りや、北アルプスの合宿に二人は参加し、腕を磨いていった。
 深川が千葉県松戸市の工場に転勤すると、坂倉は看護学院を退職して、東京にある菱谷病院の看護婦長として、東京佃島の寮に入った。
 5月の谷川岳に登るため、深川は佃島の寮を尋ね上野発の夜行列車で出かけたり、丹沢、南アルプス、南八ツ等を登り、穂高の前穂東壁W峯正面壁や滝谷の各壁を登った。
 深川が、山陰の米子工場に転勤すると、坂倉は菱谷病院を退職し、地元にある総合病院の看護婦長として帰ってきた。
 二人は春の大山に登るため元谷小屋に入ると、坂倉の卒業した高校の先生加川京子に出会った。
 加川は、春の地獄谷は滝の連続で、山菜も豊富で素晴らしいと、二人に進め、「今からでも、地獄谷の駒鳥小屋に入れるし、私は元谷小屋に2・3日居るつもりですよ。」と、再会を約束した。
 二人は、元谷から中宝珠越経由でユートピアに上がり、小屋で昼食を食べると振り子沢を下る始めた。大山特有の霧に包まれたが、雪崩のデブリに覆われた雪渓となり振り子沢は歩きやすかった。
 駒鳥小屋に着く頃には、雲の切れ間から薄日が漏れていた。

   

 小屋に荷物を入れると東壁の偵察に出かけた。残雪のキリン沢からキリン峠を往復し、地獄谷の上部で蕗の薹を沢山集めると小屋に帰った。
 二人だけの夕ご飯は、ママゴトのようで楽しく、貧しい中でも山菜のみそ汁や天ぷらや酢みそ和え等で、香りを楽しんでいると、米子の生徒達が大山の南壁にある三の沢の小屋から上がって来た。
 引率の先生は、明日から振り子沢の上部で雪上訓練をすると話していた。
 次の日に生徒達と別れ、深川達は先生に今日の昼過ぎにはユートピア近くで会えるといって小屋をでた。
 地獄谷の朝日は遅いが、生徒達に見送られて、二人は元谷の加川先生に会うために早めに出発した。
 地獄谷は雪に覆われ歩きやすく、右岸に烏谷から落ちる滝や、左岸の名のない大滝、大休の滝等の美しい無数の瀑布を楽しみ、そして谷が狭まったゴルジェは右手の雪の斜面を登り河原に降り立った。
 水流は雪解け水を集め多くなってきた。大きな石を利用し対岸に渡る飛び石の時、深川は手を差し出し、石の上で一緒になったとき初めて、手を繋いでいることに頬を染めた。
 堰堤を下り、ついに河原一杯に水が流れだすと、靴を脱ぎ裸足で渡渉し足が紫色に変わったといっては、お互いを見つめ合い笑いあった。
 大山滝から急な古道を歩き、大休の小屋で休憩すると、野田ヶ山を目指し登り始めたとき、坂倉はピッケルを駒鳥小屋に忘れて来たことを思い出した。深川は、生徒が振り子沢で雪上訓練をするから、持ってきてくれてるのではと、坂倉に話した。
 野田ヶ山の下りや親指ピークの登り下りは木に掴まりながら越えた。
 振り子沢の見える所まで来てみると、雪上訓練訓練の風景が見られた。深川が「おーぃ」と、呼びかけると、生徒の一人がピッケルらしいものを振っていた。
 坂倉はピッケルを取りに降りる途中で、深川に「振り子沢の上部の尾根は、前穂高の北尾根にそっくりネ。」と、振り向いた。坂倉の身体が不自然に揺れると振り子沢に向かって滑落していった。深川は、何も出来なかった。
 坂倉の身体は二度三度バウンドすると、雪の斜面を200m程滑った。
 深川は、雪の斜面まで下るとグリセードで下り、坂倉の側まで近寄ると、抱き起こし、名前を呼んだが返事は帰ってこない。顔を見ると綺麗な顔をしていて、まるで生きているみたいだった。動転した彼は何も出来なかった。
 米子の生徒達が下ってくると、引率人達の中に医師がいて、心臓マッサージを実施したが、しばらくして坂倉の死亡を確認した。坂倉は急な滑落による心臓発作による突然死であった。
 深川は会社を辞め、放心したように山を歩き、テントや寝袋を持たないで、山の中に寝たりしては、大山寺の町を歩いていた。
 黒多は、深川の姿を求め山を歩き、ともに生活をして、ようやく彼の心の一部をとき解し、大山麓にある香取開拓村の杉本榮を紹介した。杉本榮は、黒多の古い山の友達で、深川と坂倉の事は知っていた。
 杉本の牧場では、彼は一心に働き何かを忘れようと汗を流し、夜は昼の労働の疲れで身じろぎもしないで眠りこけた。
 秋になり、牧草の刈り込みや乾燥の仕事がなくなってくると、牧場から見える三鈷峰のピラミッドの様な鋭峰の、向こうにある尾根を見つめるように眺める時間が多くなってきた。
 杉本は、冬の期間に働けるようスキー場の仕事を申し込むように話したが、深川は、大山の稜線に新雪が来ると、春まで大山に入りたいと言い切り、準備を始めた。
 新雪が降り牧草の仕事が終わると、香取から一人歩いて、元谷に入る深川の姿が毎年見られるようになった。
 小屋で会う人には、自分のことを「深川美鶴」と紹介していた。聞いた人は「美鶴」と、不思議がったが。その理由を彼は誰にも話さなかった。
 深川は、毎年4月になり牧草の草が伸び始めると、その冬の最後の山登りとして、元谷小屋から振り子沢を通って駒鳥小屋に入り地獄谷を下り、大休峠から香取の牧場に帰っていくのが常であった。

 その年の春の大山は、深川にとって最後の山登りになった
 この時も、坂倉のピッケルは天狗の間にあり、棚の上には寝袋があった。
 加川京子は、深川の事故以来大山や地獄沢に入るのを恐れていた。「自分が地獄谷を進めなければ」、「二人の地獄の原因が」と、悔いる毎日であった。
 しかし、山陰の山仲間が久方に大山に集まり「山菜を楽しむ会」を催すと聞いて何年ぶりに大山に上がってきた。
 寝袋のいわれが判ると、小屋の連中は深川の米軍放出の寝袋を懐かしんで回しあい、棚の上に返した。
 その夜は、十三夜の月で北壁は幽玄の世界に包まれ、悲しく厳しい姿をしていた。
 4月の山にしては冷え込み、小屋の中は仲間の吐く息で壁は氷つき、キラキラ光っていた。
 皆の寝息が始まり、小屋の中に月の光が差し込んできた。ふと、加川は目が覚め壁を見ると、月の光が当たらない壁に深川の上半身が浮かび、安全バンドを着けて加川の方を見つめていた。
 加川が声を出そうとしたときに、仲間達はみんなが起きていて顔を見渡した。寝る前に、寝袋を持った者は全員深川を見ていた。
 その夜が、深川を見た最後の夜であった。
 加川達は翌朝全員で、小屋に残っていた深川の寝袋や食器等を持って、元谷小屋を出たが、不思議なことに坂倉のピッケルは見えなかった。
 振り子沢を通って駒鳥小屋に入り、キリン沢の見える魚断ノ滝の下に寝袋や食器等を埋め、石山を築いた。手を合わせようとしたとき、雪の上に一本のピッケルがあった。
 小屋を出る時には亡かった坂倉のピッケルであった。不思議なことだが、真相はわからなかった。
 加川達は、坂倉のピッケルは山に入りたかっていたが、深川としてみれば、このピッケルが坂倉を殺したと思い、何時までも持つことが出来なかった。
 深川としてはピッケルを捨てることも出来ず、誰かが山に連れて行ってくれることを、願っていたのではないか。
 こうして、深川のケルンに差して貰い、やっと二人は一緒になった。
 深川のケルンとして建てたが、誰からとなく「みつるケルン」と呼ぶようになった。
 だが、平成になり、この「みつるケルン」は誰も見ることができない。
 東壁の岩雪崩のため埋まり、地形も変わった。だが、付近には、残雪の頃になると「蕗の薹」が沢山出て、この近くにみつる達が居るのかと思い出すという。 

あとがき
 これは、当時元谷小屋に伝わった話を元に、創作したものす。
 当時有った寝袋は、島根大学生の寝袋で幽霊とは関連がありません。
 旧元谷小屋に、一部の装具が残されていて幽霊は本当に出たそうです。
 細部については、メールでお問い合わせ下さい。