山好きが集まるウワサの居酒屋

割烹「枡天」から「早月尾根・剣岳」へ

  登山用品を購入する目的で富山の町に出掛けた。
  7月の暑い日のことである。駅前のスポーツ店2軒(チロルとマンゾクスポーツ)を回っているうちに、「ウワサの店」を発見した。
  その店へのアプローチは、富山駅前が取付きである。
 「マリエとやま」の壁をトラバースして、落石より怖い自動車が飛んでくる危険な道路を横断する。
 城址大通りのルンゼの左側を150m進んで、左側のチムニーを見つけると、内面登攀である。
 チムニーを50m登るとテラス「枡天」である。
  知る人ぞ知る楽しい居酒屋「枡天」を訪ねる。
 引き戸を開けようと見ると「剣岳・早月尾根を愛する会」の看板があった。
  店に入ってカウンターに座って晩酌セットを注文する。
  親父は、「いらっしゃい。」と言ったあと、何時来たお客か思い出している。サーァ考えろ。でも思い出せない。
  それは、そうだよ。今日 始めてきたお客だよ。
  ビールとお刺身が来た。「広島の山の神に乾杯。」して、ゴックン。喉越し爽快。麒麟のラガーだね。
  店の中では、あちこちで山の話が始まり、盛り上がっている。
  親父が「山のお方ですか。」ときた。知っていたのか、有名な俺の素性を。
  「来週に早月から剣そして立山に行こうと思っています。」から、始まった親父との会話が弾んでいく。店内は盛り上がっていく。
  親父さんは、「私は山好き、歌好き、−−−好き。」と言っている。
  山・歌は、判るが、−−−はよく聞こえなかった。
  「夢に描いた剣の山によ 意気と力でね ぶち当たる(ヨカネ) −−−」歌が上手だ。
  親父は、「色々な会に参加し、呼ばれて歌っているんです。」
 それにしても、上手である。次々に色々な歌を披露してくれる。
  先程の「剣の歌」。そして「ひとりの山」「山は心のふるさと」「ふたりの山男」等々である。
  晩酌セットは、お刺身の後に山菜等の珍味が色々と出てくる。グイグイと杯が進む。清酒「立山」も良(酔)い酒だ。
  親父さんは、魚の仲卸をしているだけあって、新鮮なお魚が嬉しかった。キトキトである。(キトキトとは、富山県の方言で生き生きとした。新鮮な。)
  いい気持ちでお店を後にして、富山駅に引き返す。
  翌週7月19日福野町から登山道具を身に着けると、「濱井ゲコぴょん会長」に、小矢部市の石動駅まで送ってもらう。今回は8月1日からの10日間の山行(単独・天幕泊)のトレーニングとして、25キロの荷物にした。
  石動1659発富山着1732。地方鉄道富山1742で上市1804と順調に行動できたのは、「かわいいゲコ嬢」のお陰である。タクシーで馬場島まで前進する(6500円)。
 1850頃馬場島中央管理センターに到着。宿泊予約を入れていたので、すぐ夕食。ビールをお願いする。
 飲みつつ食べていると、先着の3名さんと話が弾む。
 お風呂に入り翌朝の弁当を受領し、水の補給をして就寝
  起床(0430)し、馬場島センターを出発(0500)する。
 真夏の登山は太陽が昇るまでに高度を稼ぎたい。まして、ここ馬場島は、750mであろうか標高は低い。。  管理人さんが早朝から草刈りを実施している横を通過して、キャンプ場横を通過し遭難慰霊碑「剣岳鎮魂の森」に手を合わせ、碑の後ろが早月尾根の取り付きである。
 ブナの大木の下の急登を喘ぎながら登る。朝一番の登りは何時も苦しい。
 息を吸うことよりも吐くことに集中し、一定のリズムで吐き、吸い足を進める。常に一定のリズム。でもこのリズムは各人によって違う。各人が会得するものである。他人に会わせすぎると疲れる。
  呼吸の事を書いたが、山登りというものは、早く登ることではなく、自分の早さで、何時までも同じペースで歩くことである。
   

 そして、暑くなったら、汗が出るまでに薄着をし、風が吹くとその前に体温調整のため着る。
  雨が降ると、濡れる前に雨具を着ける。
 雷鳴が聞こえると山小屋に避難する。岩稜・尾根道から避難する。
 色々な条件の中で危険回避の行動が取れる事が、安全登山を可能とする。
  岩壁登攀も危険回避の数々のノウハウを身につけているかで、安全な登山が出来ると思う。
  ブナの大木の下、熊笹の中につけられた道は緩斜面となり松尾平、奥ノ平と登っていく。次から次にと現れる表示(標高)が目安となる。
  早月尾根の木々の間から中山(1255m)越えに富山平野、富山湾が見え始める。すでに500m位は高度を稼いだことになる。
  1500m(8時)付近で「チワワ」を連れた人に追いつかれる。昨日管理センターで同宿した方である。チワワの名は、「ロンチーピース君」。この頃から道に石ころや岩が出てくる。 

   

 1600mを通過して右後ろに毛勝山、左に大日方面が見える。
  1920mの三角点を通過してしばらく歩くと細長い池塘に残雪が残り水芭蕉が咲いている。ここで小休止。昼食とする。
 埼玉の仙ちゃんの二人ずれが追いついてきた。昨夜の方である。ここから仙ちゃん達と前後して登る。ダケカンバの木が多くなる。イワイチョウやチングルマが咲き乱れている。
  初めて登山道にロープが出る。崩れた道をロープ頼りに尾根の上に出ると早月小屋の屋根が見える。小ピークに登り切ると早月小屋が目の下に見えた。小屋の前広場に着くと、直ぐにビールをお願いする。
  1600m付近で別れたロンチーピース君達がテントを張っている。
  宿泊の手続きを終了すると、缶ビールとカメラ片手に雑談の楽しい午後のひとときを過ごす。
 ロンチーピース君とツーショット。仙ちゃんや他の登山者との語らい。そしてドンドンとビールが喉を通過していく。
  夕日に照らされた小窓尾根が素晴らしい。奥大日岳や室堂が谷を隔てて綺麗に見える。
  21日剣の本峯にアタック。4時起床4時半小屋を出る。
  暗闇の中を小屋の東側登山道を登り尾根の上に出る。ゆっくりと歩を進める。小屋から見えた岩の上で小休止すると、小屋の向こうに白萩川と立山川に挟まれた馬場島が本当に島のように見える。
  次々に登山者に抜かれながら進んでいく。幻想的な小窓尾根を見つめながら尾根を詰めていく。
 道は立山川側を一カ所まくだけで、あとは池ノ谷側についている。2600m付近(0645)まで登ると疲れてきた。ここで小休憩(朝食)をいれる。
  池ノ谷側を巻きながら進み尾根道に戻るといよいよ岩稜となった。

   

  烏帽子岩付近で、頂上から下ってきたロンチーピース君と出会う。ピース君は朝早くテントを出て頂上。そして、テント撤収馬場島まで下るとのことであり、お互いの無事を祈りつつお別れする。
  数カ所のクサリ場を過ぎると、頂上直下で剣沢からの登山者達と合流して頂上に立つことが出来た。
  頂上では沢山の登山者が休憩し展望を楽しんでいる。東は八ッ峯の鋭鋒群、後立山の峯々、別山から立山へ、大日岳への稜線、富山平野の全てが指呼の間である。頂上の祠には須佐男尊が祭られている。
  11時に頂上を後に下山にかかる。早月尾根の分岐を過ぎカニのヨコバイ付近が見える地点まで降りてきて仰天する。大渋滞が発生している。
 埼玉の仙ちゃん一行と出会う。タテバイとヨコバイの上下が共通で使用している凹角の上部で待たされる。
  凹角を下るとカニのヨコバイへと進んでいく。ヨコバイは最初の第一歩が見えない部分は、他の登山者を補助しつつ下る。
 カニのヨコバイが終了し、針峰群を通過して長いハシゴを通過して悪場が終了した。岩を巻いていくと、平蔵の避難小屋横を通過する。
  クサリ場を通過して平蔵の頭、前剣で通過して剣山荘前まで来ると温泉に入りたくなり室堂まで進むことにした。
 山荘の水槽によく冷えたビールが待っているが、ジュースを飲んでから別山乗越に直接進む。
  剣御前小舎に上がってみると、埼玉の仙ちゃん達が待っていた。ここでお別れして私は雷鳥沢に下り、雷鳥沢ヒュッテにザックを降ろすことにした。
 雷鳥沢ヒュッテは、昭和35年房治荘後にニューフサジ、現在に至っている。
  翌日は、室堂経由で美女平そして富山へと下った。

   

 剣 岳
  北アルプスの北方の雄である。
  岩と雪の殿堂として、剣岳と穂高岳は双璧として岳人の夢の世界であり、剣岳と穂高は登山の歴史では大変重要な山である。
  剣岳は、立山の一部として見られ、古くは立山信仰の恐ろしい針の山、地獄の山として立山曼陀羅で紹介された。
  室堂の周辺には、その名残の地名が多くある。
  浄土山、地獄谷、閻魔台、血の池、大日岳、弥陀ヶ原、弘法等である。
  立山連峰は、万葉の昔から「たちやま」と呼ばれ平野から見ると屏風の様に一連の立つように連なる峯々の集合体で薬師から立山、剣と3000m級峰々が連なる。
  立山から見ると、黒部の谷の向こうに連なる連山「白馬」、「鹿島槍」、「針ノ木」と続く峰々は、富山から考えると「立山の後ろの山」であり、また立つがごとく連なる連山であることから、「うしろ たてやま」と呼ばれ今日に至った。
  剣岳は、弘法大師が千束の草鞋を費やしてもなお登れなかったが、明治40年7月陸地測量部の柴崎芳太郎氏が登頂してみると、錫杖の頭や槍の穂先、焚き火の跡があり既に登られていた。
 このあとに、登山家が登り始め、その当時の山案内人の名前がついた谷がある。長次郎谷、平蔵谷等である。
  馬場島(バンバジマ)とは、草の多いデルタという説があるそうだが、詳しくは知らない。