日本人の心に残る歴史
北海道の「義経」
文治5年(1189)閏4月30日、藤原秀衡は源頼朝の命により、源義経を討ち取るため攻撃を開始したが、義経は平泉の高殿から姿をくらまし、津軽の三厩から北海道に渡り、大陸への長い逃避行の旅を開始した。 津軽の三厩まで逃れ来た義経達は北海道を目の前にして、津軽海峡を小舟で渡ろうとしたが、霧や潮流に妨げられたがに行く手を阻まれた。大岩の上に座り守り神の観音様に三日三晩祈ると海は静まった。 大岩の下にある岩屋の中に3頭の馬が繋がれていた。義経は白髪の老人に白い馬を与えられた、この馬「竜馬(りゅうめ)」に乗って渡り、江差にたどり着いた。以来この大岩を厩石、三厩と呼ぶようになった。 江差の鴎島に来た義経一行は、ここに愛馬を残して北に向かった。愛馬「竜馬」との別れるときが来た。津軽海峡を飛び越えた愛馬が、白い岩になってしまい馬岩となった。弁慶が、近くの岩屋の中に「六韜三略」を隠した。 乙部町の九郎岳(乙部岳)の山麓にたどり着いた。乙部で2年程過ごした義経は頼朝に打たれた祖父の為朝の霊を弔うために小高い丘の上に碑を建てた。静御前も義経を追って乙部まで来たが、その時には義経は既に乙部岳を越えていた。義経に会えなかった静御前は峠(姫待ち峠)で義経を待ったが現れわることがなく、ついに川に身を投げた。 渡島半島の日本海側に寿都の町があり、ここに弁慶岬があり、義経と弁慶がこの辺りで大陸に渡る機会を狙い滞在したが、退屈で相撲を取ったときの土俵、その土俵を作るのに使った残りの糠を捨てたという糠盛りという岩、弁慶が義経に投げられて尻餅を付いた跡、土俵の柱の跡、弁慶が粟を作ったという畑、弁慶の足跡、投げた相手が流した鼻血が岩となっている赤岩と枚挙にいとまがない。 寿都の町では毎年8月に弁慶を祭る「寿都湾弁慶まつり」が行われ、たいまつを掲げながら静御前の待つ港まで歩く。 寿都に長い間滞在していたが、ついに旅立つときが来た。弁慶は金の銚子と杯を白い桔梗の根本に埋め旅だった。その場所は、弁慶岬の近くにある二つ森と糠森の間である。 弁慶岬の突端は丸木船が入る程の溝があり、幾条にも割けたようになっている。 「弁慶」の語源はアイヌ語の「ペンケ(川上)」か「ペリケ(裂ける)」のなまりから出たと言うが、鎌倉幕府を恐れた人が弁慶の名前とよく似たアイヌ語にしたものであるともいう。 岩内に来た義経は、雷電の山中でアイヌの酋長チパの襲撃にあって傷つき囚われの身になったが、アイヌの人々は義経一行を介抱し、身体が癒えると解放した。岩内の丸山の大きな岩に源氏の家紋「笹りんどう」を刻まれている。 岩内で暮らしているときに、弁慶は余りの寒さに沢山の薪を集めて暖を採ったとき、その時の薪が沢山残り化石のようになり薪積岩になった。 春になり義経一行は村を出ていくことになった。 酋長チパの娘メヌカは義経に恋をし、それを利用した義経はメヌカを騙し宝物の巻物を盗んでしまう。「来年来る」といって大陸へと渡ってしまった。「らいねん」がまなって雷電という地名になった。メヌカは刀掛岬の近くで投身自殺をした。 雷電岬にきた一行が岬を超えるとき草臥れて一休みしたとき、弁慶は腰の刀が邪魔になり、岬の岩をひねって刀を掛けた。その岩が「刀掛岩」となりった。 積丹半島の泊村を通りかかった義経は酋長に金の兜を譲った。酋長は岬の洞窟に兜を隠し、その岬に兜に似た岩を表した。 日高の平取から雷電岬を越えてきた義経一行は、積丹半島の突端の神威岬で荒波のため難破しそうになったとき、神威岬と海や風の神に祈ると無事に越えることが出来た。平取から後を追ってきたアイヌの娘チャレンカが、義経の一行を渡らせまいとして岩(立岩)となった。 神威岬は、1858年(松前藩は、神威岬以北への女人通行を禁じた。)までは女人禁制の地といわれ、女性が乗った船が来るとチャレンカが怒り「和人(シャモ)の舟、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」として必ず転覆させた。 神威岬の「カムイ」とは神のことで、神威岬とは交通の難所であり、各地の海の難所に多く付けられている。旭川の神居古潭も同じ交通の難所だった。 積丹岬を船で越そうとした義経は風と潮のため岬を越えられないで、入舸(イリカ)の村に流れ着いた。酋長は娘シララに義経の面倒を見させた。 義経は村を出るときがきた。満月の夜に義経は舟で出ていった。シララは岩沿いに追いかけたが荒波にのみこまれ岩となってしまい、女郎子岩(じょろっこいわ)となった。義経に裏切られた酋長の娘が、岩となり荷物を背負って立っている。 積丹は、「サクコタン」で夏の部落の意味であるそうな。「サクコタン」が「シャコタン」となり、和人よって積丹と書かれたようである。冬の部落は「マタコタン」と呼ばれ山での狩猟を行っていた。 浜益はアママシュケという。穀物を炊くという意味で義経がここで飯を炊いたのである。この近くのマラプトウンナイ(熊の頭のある沢)という川があり、またの名をマラプトフンナイ(饗応、振舞)という川でアイヌが義経に河Pをとって饗応したときトミハロ酋長の娘が義経に恋をしてしまい、義経が村を出ていく時に娘は頭の朱色の岩燕を送ったが、娘は毒を飲んで死んでしまった。 雄冬岬の近くにカムイオプトイというところがあり義経が上陸した。雄冬岬を越すタイルベシベというところに義経が住んでいた。ここを出ていくときに甲冑を置いていったが、蝮になってしまった。ここを出た義経は小舟でカムイオプトイに上陸し、山越えをして増毛に移動した。 恵庭市の西側、支笏洞爺国立公園から流れくるラルマナイ川にある滝の近くで、昭和14年頃大量の砂金が発見された。発見者は古文書を解読したそうであるが、義経と奥州に下った金売吉次の隠した軍資金だったのかもしれない。 北海道白神(福島町)に渡った義経は西海岸を北上し、羊蹄山麓を回り平取に来た。 平取の酋長のところに滞在していた義経が、日高の山の中より、岩内の雷電の辺りに兵や糧食を集め、舟で神威岬を差し掛かると大荒れとなり難儀をしたため海神や風神に神饌をお供えして祈願したり、烏帽子を脱いで神威岩に投げかけて難を逃れた。 平取の酋長の娘は義経の後を追って神威岬に来てみたが、大望を抱く義経は北に向かって帆を張り船出した後であり、神威岬で投身自殺をしてしまい岩になったのが「メノコ岩」である。 一説には、義経がこの岬の親方の家で娘といい仲になり、ついに北に向かう義経は、出発に際して「家の針と糸を持ってこい。」と言いつけると船出してしまい、浜に来てみた娘は岬から身投げをした。岩が抱いているのは義経の子供である。 平取に義経神社があり、義経の木造が祀られている。 義経公園には義経神社、弁慶池、弁慶橋、義経資料館等があり、笹りんどうの家紋入り陣太鼓、太刀や鎧、「義経公北之方傅記」などの資料がある。 その平取の古老たちは義経といわず「あのスケベ カムイかーー」と苦い顔をしたという。義経はメノコを騙し、秘蔵の巻物を取ったという不届きな和人であると伝えられている。義経や弁慶であるといって素朴な人々を騙したのが、スケベカムイになったと言う人もいる。 平取では、酋長の娘をだまして兵法書を奪ったり秘宝の巻物を奪って逃げている。このためアイヌの人のアイヌ文字が無くなったという。 新冠では、日高に来て最初に居住した館の跡に「判官館森林公園」がある。 ある所では、オキクルミが雪で作ったという鹿が丘になったり、魚を捕った小屋が岩になったりしている。 様似の尻沢(オソロコツ)は、義経が尻餅をついた所であるという。おおきにな男であると言われたらしい。 十勝の銀河鉄道本別駅付近に、義経山があり頂上には義経山神社があり、その近くに弁慶洞がある。十勝の海岸に上陸した義経は、タビコライ村長に案内されて本別に着き、弁慶は洞窟に住みついたのであろうか。 釧路の知人岬には、干潮になると橋の杭が現れる。これは阿寒にいた義経が阿寒の山に居たときに、ここから十勝の方へ橋を架けようとした時の柱の跡である。 釧路地方では、義経は盗人として悪評を残している。 知床のルサ川より岬よりにオショロコッ川という小川があり、義経(オキクルミ)が、オホック海を漂流していた鯨を切って焼いて食おうとしたが、串が折れ義経がひっくり返って尻餅をついた。その跡が尻餅沢となった。 屈斜路湖和琴半島の付け根の所に、義経岩がありその周りに義経の弁当石まである。 上川の神居古潭の駅の裏にある義経岩がある。 宗谷岬に近いオンコロマナイに到着した義経一行は、長旅のため衣服は汚れ・破れて、武将としての威厳も地に落ちていたが、義経が近くにあった岩を一刀のもとに切った。近くにいたアイヌは多いに驚き、舟を差し出し、樺太まで送り届けた。 こうして鎌倉幕府の追求から逃れた義経主従は大陸の民に助けられて、波瀾万丈の人生を過ごし、世界を股に大活躍をしていく。 日本国内の活動しか判明していないが、今後の日露、日中等の関係国の調査がにより、新たな歴史が掘り起こされていくであろう。 北海道と東北の関係から義経の行動について考えてみたい。 北海道在住の時に、平取の義経神社を訪ねて、北海道各地に残る義経伝説を記したときに、次の文献等を、また、各町村等のパンフレット等を参考にさせていただいた。 |