十勝平野からの山

芽室岳(1753.7m)登山と点の記について

 日高山脈北部の名峰芽室岳(1753.7m)の登山と、山頂にある一等三角点と、その撰点された時代の芽室をここに記します。

日高山脈の主稜線上の芽室岳は、距離・高さ・時間や難度等を考慮しても比較的容易に登頂できる。
距離にして約4.5km比高1140mですが、急登の尾根を登るが岩場はありません。
アップダウンは西峰と芽室岳の間に1カ所あるだけです。
山頂からの眺めは芽室岳から南にのびる主稜線上の峰々が、十勝ポロシリ岳、北にはトムラウシ、ニペソツや十勝連峰と十勝平野、そしてその向こうに阿寒岳の大展望と、多くの登山者を惹きつけてやみません。
芽室岳は、"三角点の戸籍謄本"と呼ばれる「点の記」には、メムロ岳でなくメモロ岳となっています。芽室岳の名がもともとアイヌ語のメモロペツ(湧水池より流れくる川)からきたためだそうです。
この山の頂上に、一等三角点が選定されたのが1900年(明治33年)7月6日で撰点者:正木照信、埋石者:吉田林太郎、埋石年月日:34年5月14日、造標者:吉田林太郎、造標年月日:34年5月14日、貼標(測量用やぐら)高:5.91m、標石:花崗石、観測者:古家政茂、観測年月日: 38年7月17日となっています。
新田次郎の小説「剣岳・点の記」や映画では、陸地測量部の苦労が描かれていますが、それと同じ苦労がここメモロ岳でもあったのです。
調査隊が登ったのも十勝側からでした。人馬で平原を進み、山に入っては人力で重い器材を担ぎ上げて測量をしていたのでしょう。開拓されていない原野にて行われた測量により十勝平野開発に大きな影響を与え、現在でも大いに役立っています。

「点の記」
三角点の戸籍又は、案内図といったものです。見知らぬ場所の三角点で測量をする際に、測量者は必ず入手して利用します。
内容は、点の所在地と点名、その土地の所有者、選点・標石埋定・測標(測量用やぐらで、昔は貼標と呼んでいた)建設・測量観測などの年月日やその作業を行った人の名前のほか、その三角点に至る道順、交通、人夫雇用状況・給料、資材運搬、案内図、水や食料の確保、宿泊の方法、案内人の情報、飲料水の場所など測量に役立つ、たくさんの情報が書かれ記録したものです。
ここに書かれたことが現在の測量に役立つことはほとんどありませんが、測量だけでなく当時の様子を知る貴重な資料となっています。新田次郎の「剱岳点の記」は、これをタイトルにしたものであることは有名です。
一つの三角点を撰点し、標石、貼標を建てて測量するための経費は相当のものが必要だったでしょう。またその測量の良否が日本国の地形図に影響を与えるとなると、大変なことです。
そして北から南まで全国津々浦々に三角点網を広げていったのは、陸地測量部の文官たちから国土地理院へ。その支援をした全国の人々の汗と血の結果です。全国の点の記の記録は全て国土地理院に永久保存されています。当時の測量の苦労を偲ぶことができます。
日本列島の測量網の骨格をなす一等三角点網は、全国均等に約45 km間隔で配置された一等三角点約350点からなっています。また、約25 km間隔で配置された一等三角補点や約8 km間隔の二等三角点の位置は、一等三角点の位置を基準にして決められています。 同様に約4 km間隔の三等三角点の位置は、一等及び二等三角点などの位置を基準に順次決められています。
三角点網図には、三角点の位置、視通線とその観測方向、平均計算の順序などが記入されています。
陸地測量部の前身は、明治4年7月兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局で、明治21年5月に陸地測量部條例の公布とともに、参謀本部の一局から本部長直属の独立官庁として設置された。国会前庭の日本水準原点は、当時の庁舎敷地内に設置されたものである。
終戦により参謀本部が解体され内務省地理調査所に移管、その後国土地理院となって現在に至っている。
明治33年頃は鉄道はまだ日高山脈を越えていない。
旭川から釧路への鉄道は明治34年9月に落合駅(空知郡富良野村、現南富良野町)まで達し,明治40年旭川−釧路間が全通して線名を釧路線とした。
滝川−富良野間の野花南−滝里間に空知大滝の難所があったため建設が遅れ,明治44年に下富良野線として着工,大正2年に開通し、釧路方面への所要時間が1時間短縮され、芦別,赤平の炭鉱開発に果たした。路線名は下富良野線全通時に滝川−釧路間を釧路本線と改称,大正10年には釧路−根室間の開通により根室本線と改称した。
芽室駅や十勝清水駅は、明治40年9月8日国有鉄道の駅として開業した。
芽室岳の登山口の近くに御影駅がある。開業した当初の駅名は「佐念頃」で、由来はアイヌ語の「サン・エンコロ→サネンコロ(出ている鼻)」佐念頃に因るものだが、発音からして核(さね)に通じ、語呂が悪いのでこの地域の産物花崗岩(御影石)に因んで駅名を改名された。
この芽室の発展の歴史に触れてみる。
地名の由来
メムオロ(芽室)、現称は「メム・オロベツ」です。元は川の名で川名は発源地から起こっています。メムとは泉、池などの意味でオロとは内より、または内にという意味で、川の源の泉や池から流れてくる川と解されます。一説に「メムオロ」でメとは寒いまたは冷ややか、ムオロとはたまるという意味で、冷水のふち、冷水の池などとも訳されます。
先住民族
本町には西士狩の高台から低地帯に移る急傾斜の尾根に、前代アイヌのつくった砦(チャシ)があり、砦はかれらの部落(コタン)を外敵の侵入から守ったり、集会や相談などチャランケ(談判)の場所として、または村長の住居であり、この砦を中心にアイヌの人たちが生活していた。
チャシは然別川、ビバウシ川、ビバイル川、メムロ川などが十勝川に合流する中間の北高台地の、十勝川を眼下に十勝平野を一望できるところに複数あり、この地をシブサラと呼んでいました。これは高台などの麓の茸やかやの生えた草原という意味です。
芽室のアイヌ人がこのシブサラの砦の近くか、ほかの場所に住居をもって散在し、魚類の豊富な川と鳥獣の多く生息する森林に囲まれた、天が与えた恵みの豊かな楽園であり、十勝のアイヌ達は河川等を通じて交流し穏やかな楽園を築いていたが、やがては日高や北見アイヌの侵入により壮烈な戦いの場となった。
「北海道殖民地状況報文」によると安政2年十勝国内におけるアイヌ部落の数は31か所、266戸1,121人となっています。彼らは各川筋の生活条件の良いところに、少ないところでは1・2戸、多いところで10戸前後の家屋が点々と散在していた。
明治初年の十勝原野の全域に鹿が群れを成していたことは、多くの文献にも記されているし、古老も語り伝えています。
明治11年頃には十勝組合が漁猟の権利を独占して、他からの参入が難しかったが、小山久部衛、石黒吉冶などが日高から山越えして芽室川上流に出て、鹿を猟して角や皮を売買しています。明治13年に十勝組合が解散してからは、鹿を追って十勝原野に入る猟師はますます多くなり、アイヌとの公益を目的とする和人の足跡はいたるところに見られました。
明治14年には内田農学士の一行が、官命によって十勝の山川原野に入り、つぶさに地理を調べて10月13日メムロ川口のアイヌの家に一泊しています。これらが本町開拓前に和人が足跡を残した主なものです。
十勝に足跡を残したこれまでの和人の多くは、短期間の出稼ぎで海岸近くに住んでいた。奥地は狩猟や調査で入っただけの草木の生い茂る大昔ながらの原始林の姿であった。
こうして長い間、閉ざされたままで眠っていた無尽の宝庫を開き、農業王国を築くか夢を抱いてオベリベリ(現帯広市)に入殖の第一歩を踏み出したのが依田勉三の率いる晩成者移民団です。
勉三は明治15年7月17日、社員の鈴木銃太郎とともに帯広の地勢風土を観察し、この地こそわれらが永住するところと定めて、その年銃太郎一人を残して帰国、よく16年3月、27人の移民団とともに入地(この一行に遅れて同年10月17日に社員渡辺勝の夫人カネ女がその父、鈴木親長と勉三の弟の文三郎に伴われて入地)、晩成社の十三戸32人の晩成社員が、十勝最初の移民団体として十勝開拓のさきがけとなった。
翌年の五月にが、七月は蚊やブユが大発生してほとんどの移民たちが蚊の媒介によるマラリアにかかり畑作業どころではなくなり、八月はトノサマバッタの大群が襲ってきて、作物は壊滅にひとしい状態だった。耕作者たちの士気はますます低下し、無断でよそに出かける者が出たり、勉三たちに苦情を持ち込んでくる者たちもいた。勉三と銃太郎などの幹部たちも開拓事業をめぐって意見が衝突した。
かねがね会社の改革を口にしていた渡辺勝と銃太郎は、勉三と意見が対立しそれぞれが発奮できる土地で再出発の道を選ぶような方向に傾きだしていた。
晩成社が入植後の四年目の十九年の五月に、三十歳の銃太郎は、シブサラの酋長といわれていたサンケモッテの娘コカトアン(常盤と改名)と結婚すると決まった。
明治十九年の早春に、銃太郎は、渡辺勝と宮崎濁卑とともに帯広から十勝川をさかのぼった。十勝川から上陸し、梢の向こうに十勝川左岸に広がるシブサラ(芽室西士狩)の草原地帯を発見した。
銃太郎らの西士狩開墾の始動は、明治十九年六月で、銃太郎と高橋利八が実際に居を西士狩に移したのが明治二十二年早春だった。
勉三は明治19年春、新たな決断をして当縁郡オイカマナイに牧場地の貸下げを願い、混畜農業によって晩成社の建て直しをしようとした。
銃太郎は14号付近、勝は16号のほとり、利八は17号(元、西士狩小学校東南)にそれぞれ土地を選定して開墾の準備にかかった。
これが芽室に和人が入地した始まりです。
本町に開墾の一鍬が打ち込まれたのは、次に上げる「晩成社日誌」や「鈴木銃太郎日誌」に記されているように、明治19年6月です。
「鈴木銃太郎日誌」には、『19年6月23日 水晴、シブサラ開墾場着手のため渡氏パノ、胡参、愛蘭、レアシパ、トイマ及余常盤等は水陸同所是岸なる常老母の家に行く、濁酒熱せしを以て小宴を開き痛飲歓を尽くす、此日携堤せしは樽3個シナナハ3把、薯種凡1俵飯米1斗干鮭及骨升,其他鍋鍬等也、老母土産として白ザクリ1枚遣す、アワコ1玉同上』
その後明治19年から北海道庁は、殖民地選定のための調査(芽室町は明治21年)を行ったが、当時のアイヌ居住地は殖民地整理上、また保護の上から不便な点が多いとして同18年、現在の芽室太、毛根の地区を居住地として旧市街地のアイヌの人々を移住させるとともに、各所に散荏していたアイヌ人もこの地に集めて農業を指導した。これにより芽室太、毛根地区にアイヌ人部落が形成された。
明治40年に鉄道が開通する前から、平和に暮らしていたアイヌの人たちに和人の手が伸びてきた。よい和人もいれば、悪い連中もいた。
その後明治39年、アイヌの人々に対する農業奨励、並びに保薄の目的のもとに、原住アイヌ人共益組合長の小野利永(毛根小学校教員で後にアイヌ学校である芽室太小学校に転任)が、時の芽室村戸長 田中華次郎にはかり、共益組合を強化組織させてアイヌ人田村勝太郎を組合長にした。
しかし一部の和人などはアイヌ人が法律の知識の乏しいのにつけこんで、彼らに酒をすすめ、アイヌ人所有の肥沃な土地を永小作の小作契約を結び、少額の金銭と酒を与えて利を得ている者があった。
明治43年2月、小野利永は教職を辞して、アイヌの人々の懇願を入れて組合長となり、以来アイヌ人保護の目的で活動し、明治43年1月末のアイヌの人たちの生活状態を「戸数は70戸、人口は男子149人、女子152人、計301人。農事を主とするもの4戸、うち農事のみで生活を営む者1戸。狩猟をして生計をなすもの35戸、日雇や草狩りなどをして生計を営む者34戸。アイヌ人が実際に耕作する反別約7ha、アイヌ人所有反別約220.5ha、ほかに目下出願中の者5戸、この反別約25ha、土地の給与を得ようとするも給与地欠乏のため出願できないもの1戸、馬匹の所有者14戸、この馬匹頭数20頭。」とある。
小野利永らの農業奨励により彼らも農耕にたずさわるようになっていったようです。

芽室・清水町に残されたアイヌ伝説と昔話
芽室のポネオタプコプの伝説(丸山チャシ伝説)
 タプコプとはアイヌ語で瘤のように盛り上がった小山、ポネとは骨のことで、芽室町の丸山のことと思わる。丸山と美生川対岸の新嵐山の山頂にはかつてコロポックルが住んでいたが、アイヌに攻められて全滅したという伝説があります。    芽室町史・宇田川洋・アイヌ伝承とチヤシより。
シュプサラチヤシ伝説
 芽室町にはもう一つ伝承のあるチャシ跡がある。   芽室町史・宇田川洋・アイヌ伝承とチヤシ。
 ※工藤梅次郎の「アイヌ民話」にも出ているが本来の伝承では無いらしい。シブサラというのはこの辺一帯を言った和人入植前の地名です。
芽室町のサマイクル伝説
 『芽室町内を流れる芽室川が十勝川に合する近くの崖の上に、文化神サマイクルカムイが木に鍋をかけてウグイを煮て食べた。』  芽室町・勝川ウサカラベフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
オプタテシケと阿寒の争い
 『大雪山系の尖鋒オプタテシケ(槍がそれるの意)は男神、釧路の雌阿寒は女神で夫婦山であったが、喧嘩別れをして女神は児を負うて釧路へ帰ってしまった。そしてその怨みをいつかはらそうと時を待っていたが、或るとき持っていた槍を遙か雲間に聳えているオプタテシケに投げつけた。それを見て十勝のヌプカウシヌプリ(原野にある山の意)の神が急に立ち上がって、飛んでいく槍を押さえようとしたが及ばす耳を削りとられてしまった。そのため槍はオプタテシケに届かなかったが、それを知ったオプタテシケは腹を立てて、その槍をとって阿寒に投げ返したところ雌阿寒の真中に当たり大怪我をさせた。今も阿寒から硫黄が出ているのは、その時の傷跡から流れ出る膿という。なおヌプカウシフヌプリの起きあがった跡に、水の溜まったのか然別湖で、槍のために削りおとされて飛んだのが、現在の芽室町のポネオプタプコプになつたという。』   吉田厳・アイヌの伝説について・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
清水町のオソルコツ
 『清水町の東サホロ川の向かいにオソルコツという深い沢があるが、ここはサマイクルカムイが鯨の頭を串に刺して焼いていたが、それが倒れたのでびっくりして尻餅をついたところだ。』    芽室町・勝川ウサカラベフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
日高アイヌと十勝アイヌの争い
 北海道帯広市西15条北2丁目に戦いの跡があります。

「チョマトー祭り」 「チョマトーの古戦場跡」で、検索して下さい。

芽室岳(1753.7m)の登山
 帯広市から国道38号線を富良野市方向に十勝平野を進んで行くと、芽室町から清水町にかけて日高山脈の北端の大きな山を見る。
 双頭の山頂が優しく穏やかな表情を見せている。
 日高山脈は、急峻なヤセ尾根であるが、根室本線御影駅方面から望むと三角形の姿が美しい。全体として柔らかで味のある山である。
 5月の連休後のある日、芽室岳の登山に帯広から出かけた。
 JRの羽帯駅の脇を車で入山する。十六号線を山に向かい走ると上羽帯小学校の前を進み町営牧場の中を進んで行く。
町営牧場からの真っ直ぐな道がT字の交差点となり右折し500m程走ると左折すると、一本道を進んでいく。造林川と渡り芽室川沿いに走る。
 春先に、この近くの牧場が熊に襲われた。と聞いたことがあり背筋を何かが走るような嫌な気分がする。
 営林署の避難小屋を右に見て進んで行くとヌプリパオマベツ沢出合いに数台の車両があり、ここで車を降りる。(現在この地点に芽室岳山小屋があり10名)
 国道38号線の分岐から13kmである。
 登山口は標高614mであり、沢を渡った対岸であり丸太を渡って07:30尾根の末端に取り付いた。
 尾根は急峻である。尾根の登山道は、一本道である。登るにつれ雪が残り出した。針葉樹の中の笹の道を進む。背丈の高い笹の道を進みしだいに雪に覆われた尾根を着実に高度を稼いでいく。変化のないつらい登りが延々と続く。
 日高の山独特の、尾根から沢へ切れ落ちる小気味よい山肌の斜面のほか展望がなく苦しいが、急な登山道を喘ぎながら登っていく、休憩はいつも30分登り10回深呼吸の立ち休憩。辛くなると20回深呼吸で進んでいく。ザックを降ろすと歩き出すまでしばらく調子が悪い。
 1300m付近で傾斜が緩くなってきたが、展望がきかなくて苦しく尾根道から時々みえる稜線はまだまだ高く遠い。東側に回りこむとハイマツとシャクナゲの茂みが現れる。ハイマツやダケカンバが目立ち始めた。
 1400m付近からこのコースの最大の急登を登ると、国境稜線が眼の前に現れ、苦しい登りを喘いでいると、私の前をスキーを担いだ人達が登っていた。
 追い越して行くと国境稜線が直ぐ目の前に現れる。小さなピークだ。地図には1690mとある。
 芽室岳の主峰は登っていく1690のピークの左手の稜線にあるが、先に西芽室岳(1746m)の峰に向かう。三角錐の素晴らしいピークである。11:00に、西芽室岳(パンケヌーシ岳)に立つと始めて見える日高山脈の山並みは、南の方向に素晴らしい景観で遥か彼方まで続いている。西峰からの国境稜線を先ほどのピークに帰り、灌木の中の道を潜り抜けるように山頂に向かって稜線を歩き始める。
東に100m程進み1675mの鞍部からハイマツの広い尾根を進んでいく。日高山脈の頂きに向かって歩を進める。大きな岩が広がる12:00頂上に立つことが出来た。
 国境稜線は十勝幌尻岳等の峰々が互いに美しさを競うがごとく林立し霞の中に消えていく、私は深く感動した。
頂上は大きな石がありその上に立って見る景色は美しかった。景色をおかずにして食べる握り飯は、私にとっては最高のご馳走である。南に広がる日高の山々は延々と連なる。
ピラミダルの芽室岳西峰。西峰でなく一つの独立した峰としてパンケヌーシ岳と呼んだほうがいい。パンケヌーシ岳がピラミダルな姿で聳え立っていた。
東の芽室町方向に久山岳を経て剣山の頂きか遠くに鎮座している。広大な十勝平野。北側には東大雪や十勝岳等の峰々、南側には日高山脈の峰々。戸蔦別岳や幌尻岳方面、チロロ岳、1967峰、ピパイロ岳、伏美岳等の日高の山々である。
 名残は尽きないが下山につく時間がくる。スキー野郎は頂上近くのデポ地点でスキーを着けると言って私の少し先を下山して行った。13:00頂上を後にする。
 分岐まで帰りいよいよナガ〜イ長い下りが始まった。下山は残雪を求めグリセードで快適に下っていった。雪渓はかなり下部まで続きスキーのシュプールは、ほとんど登山口まで滑り下った跡が残っていた。
春山登山にはスキー担ぎあげ、仲間達と楽しむのも一考であろう。
 沢の水音が高くなり、15:10登山口に降り立つと、疲れた体を車体に潜らせ芽室川沿いに下り、朝来た道を帰る。
 十勝独特の真っ直ぐな国道を走らせ、途中で停車させ、登った山を見るのは楽しいものだ。登った稜線を確認し苦しかった思い出を眼の網膜に記憶させて……。

 初登頂の記録は、大正12年7月に北大予科旅行部の松川五郎氏が、芽室川を遡行し頂上を踏んだと言われている。
 @ メモロベツ(芽室川)の水源にある山
   ”メモロベツ”は「泉の所にある川」の意
   ”メムオロ”は 「清水の湧く壺の所」の意 になったといわれる。

参考資料
インターネットのHP
特別展:芽室岳測量100年記念展
2000/6/30(金)-7/16(日) 山脈館2F特別展示室
道北の釣りと旅 北海道旭川市
芽室町史 概要 等