ニペソツ山(2012.7m)

  ニペソツ山は、十勝川の支流ニペソツ川。アイヌの言葉でニペシーオツの連声でニペソツ。ニペシはシナノキの樹皮、オツは多い。「シナノキの樹皮の多い川の上にある山」であろうか。
  ニペソツ山は東大雪の最高峰である。
 東大雪といわれる山々は大雪山国立公園の東部を占める石狩連峰、すなわち石狩岳・音更岳等の石狩川と十勝を流れる音更川の分水嶺をなす山々と、音更川上流の右岸のニペソツ山ウペペサンケ山などの総称である。
 大雪山国立公園の大半が火山で占められているのに対し、この石狩連峰は構造山地で、ニペソツ山、ウペペサンケ山は古い火山で、特にニペソツ山は鋭い岩峰が堂々とした男性的な山容を示している。
 石狩連峰とニペソツの登山口は士幌線の十勝三股駅であった。十勝三股は木材集積のための小寒村であった。しかし私が登った数年前に廃止となってしまった。家族旅行で通過したときの印象は、ここ十勝三俣駅からの山岳展望は、最高のものであった。十勝三股から三国山の下を(トンネル)通過して石狩川沿いに層雲峡へ通ずる道路が48年に完成した。

 昭和50年8月から帯広で勤務していた私は、昭和57年8月をもって広島に転勤を命じられた。
 昭和57年7月のある日、帯広市内のとあるお店で、職場の送別会を開いていただいた。
 送別会が終了し、駐車場に帰ると背広姿から山の服装に着替え、頂いた花束輪は車内に逆さ釣りにし、幌加温泉に移動する。もちろんお酒は主催者に断わり乾杯の一口だけにし、あとはジュースだけ戴いた。
 帯広市内を抜けると、帯広平野の大河である十勝川を渡り音更の街に入る。音更の街は静かにくれている。
 音更川を渡ると極端に夜を感じる。私の車のライトだけが国道を照らしているように感じる。走りなれた国道、広漠たる十勝平野の中にある中士幌、士幌の町を走り抜けていく。
 夜の大平原を貫く一直線の国道を走り、上士幌から国道241号線から273号線(別名糠平国道)に入る。平原の道から峡谷の道となる。車のライトに照らされ道端に赤い小さ明かりが見える。エゾキツネの目だろうか、キラリと光る。
 糠平ダムから温泉街を走る。ここには私が通い続けたスキー場がある。手前の駐車場から眺めるスキー場に中央に富士山のような斜面がある。この斜面を一文字に下り、不整地直滑降で何回も下り度胸とスピード感を試したものである。
 国道から山深い道を少し走り、幌加温泉の玄関に着いた。宿に着いた時は仲間たちは既に(相当)酔っていた。
 某山岳会北海道支部の面々は総勢30数名。私が広島に転勤すると言う事で山行の中に私の送別会をも含めてもらった。
 出席者は東京から遠藤氏、支部長の北洋相互銀行会長の大塚武氏(昭和58年8月日高山脈神威岳で遭難死)、北大名誉教授の井手氏、平野明氏、松沢氏、お竜さんこと柳沢女史等、これまでに7年間一緒に登った人達である。
 宴会は二次会に移行し、教授の艶やかな入浴のシーンが始まった。唐紙を横にし数名の人の吐き出す煙草の煙りの中、妖艶な艶やかな先生に皆が酔っていった。
 お開きの後、秘境の宿のお風呂に入ったが女性用の風呂と男性用は一緒の混浴であり悲鳴と喚声が上がるが、残念(本当に)なことに見えなかった。何故なら、簡単な間仕切りのためもあってか、真っ暗でぼやけて人間が入っているくらいであった。
 その夜は、支部長と教授のお部屋で休む事になった。3人で寝るのは、トムラウシに登った時以来である。
 翌日はニペソツ山の登山となった。

 朝食を早々と済ませると相乗りで、十勝三股(三股手前2kmの橋の手前を左にはいる。)経由で河原の林道を十六の沢を杉沢出合に移動する。
 出合いまでの道は、河原の中を進んでいき、砂利と大きな石と木々の間を避けつつ着けられていて自然を嫌と満喫させられた。杉沢出合は、林道の終点で右手の沢が杉沢、左が十六の沢である。
 駐車場のような広場から登山は始まった。
  両方の沢に挟まれた尾根が天狗岳への登山道がある。沢を渡ると尾根道の登りとなる。登山道は単調な急な登りの単調な道となる。初めは大きな木々の針葉樹林帯である。
 ハイマツ・ダケカンバとお花畑の道を進んで行くと残雪の残った小天狗下の岩間温泉からのコースと合流し1600mの天狗のコルを越え前天狗を越えて背の低い潅木帯となり次第に高度を稼ぐと大きな岩の残る斜面にでる。
 ナキウサギのテリトリに入ったのか警戒の「チチ チチ」と甲高い声がする。声がしたほうを見るとそこには姿が無く、近くの岩の上に移動し警戒している。高山の哲学者も沢山の人間に迷惑して居るのだろう。ナキウサギはネズミを大きくした位で耳が小さい。
 ナキウサギを食べるものがいると言う。素早い彼らを食べるのはヒマラヤの雪男らしい。
 雪女は日本にいてどうして子孫を残しているのか。世界七不思議の一つである。
 ハイマツの斜面を登り切ると天狗岳だった。これまでガスの中を歩いていたが、頂上近くで視界が戻り、晴れ上がってきた。天狗岳の頂上から始めて見るニペソツは巨大な山である。
 巨大な二ペソツは、ピラミッドのように大きく、鋭く、左音更川側には岩壁となり近づくことを拒み、岩峰郡を従えている。こんな大斜面を登るかと思うと一旦休憩をとる。
 コルまで下って最後の大きな登りは、急峻で疲れた体には相当響いて入る。皆、昨夜の宴の余韻が残っている感じある。ガレ場を進み忠実に尾根道をたどり、急な登りをすこしづつ高度を勝ち取って行く。
 東側に大きく崩れた斜面を避けるように右手に大きくトラバース気味に巻くと頂上であった。私は終始大塚支部長のエスコートをしつつ登っていたが、その必要もないくらいの元気そのものであった。
 ニペソツの頂上は狭く、石を集めて小さな標識があった。
 若干下がった斜面に適当に座る。ニペソツの頂きには平野事務局長の担ぎ上げた大きなスイカが、疲れたみんなの胃袋を慰めてくれた。いつもながらの着意の良さには、感謝の言葉もない。
 表大雪には比較的丸みの帯びた女性的な山が多いが、裏大雪にはゴツゴツとした男性的な山が多く、ニペソツ山はその中でも英峻な頂きを誇り岩稜をさらけ出し、雄々しくかつバランスよく聳える姿は登山途中の天狗岳の頂上から眺めるだけでも価値がある。登りごたえのある山であった。
 周囲の景観を楽しむが時間の都合で頂上を後にした。登りは遅々として進まなかった脚も、下りとなると飛ぶが如しである。
 東側に大きく切れ落ちた斜面と男性的な山は、百名山は無理としても北海道では数少ない2000m峰でもあり二百名山には是非ともと思うほどである。
 登ってきた道を引き返し、再び車の人になった。十六の沢を下り、十勝三股の国道の近くの所で人相の悪い(?)二人組に行く手を遮られ下車を命ぜられ、車両・装具を開けさせられた。聞くところによると高山植物の盗掘を監視して入る営林署職員である。
 幌加温泉前で北海道の各地区及び本州地区の各方向に別れる事になった。
 私は、札幌方向に帰る人たちは糠平から鹿追に回り、日勝峠を越える人たちの案内を買って出た。
 札幌を主体とした人達は、砂利道は原始林の中につけられ、車は1081mの幌加峠をやっと越え、ヤンベツ川の清流沿いに進むと山田温泉の前にでた。
 山田温泉は湯治客宿の感じがする。平野さんから昭和45年ごろ深田久弥氏が宿泊されたと聞いた。深田氏の宿泊された当時はランプの宿だったと聞いた。
 山田温泉からは然別湖の湖畔を走り、東・西ヌプカウシヌプリの鞍部白樺峠(910m)経て扇ヶ原展望台に出る。扇ヶ原展望台から広がる十勝の景観と然別の緑を楽しみ、然別の養魚場で昼食を取り私の送別に関する行事は北海道支部の皆さんのお陰で楽しく過ごさせていただいた。
 私が北海道帯広市在住の7年間の間に、北海道放送の平野明氏から戴いた各種山行の諸々の案内・ご指導を感謝しつつ、お別れをした。
 北海道で知り合った人達は、東京の遠藤氏、北洋相互銀行会長の大塚武氏(昭和58年8月日高山脈神威岳で遭難死)、北大名誉教授の井手あや夫氏、京都大学今西錦司氏等の人達である。