日高カムイエクウチカウシ山と今西錦司氏(1981)

 カムイエクウチカウシ山
  
カムイエクウチカウシ山(じ後「カムエク」)は、日高山脈のほぼ真ん中にある一等三角点の山であり、日高山脈第2位の高峰で山懐や周辺には数々のカール群を抱いている。

 カムエクは、昭和40年3月日高山脈縦走中の北大生6人パーティが雪崩に遭遇し全員遭難死した。
 この遭難で、カムエクは有名な山となった。有名になったのは遭難した北大隊のリーダー沢田義一さん(当時23歳)が残した手記に有る。
 沢田隊は山頂に近い札内川上流の十の沢で雪洞に宿泊中雪崩に襲われ、全員が生き埋めになった。捜索隊は沢田隊の登山計画から十の沢で雪崩に遭遇し遭難したのは確実だったが二次遭難の恐れがあり打ち切りになった。
 捜索が5月になり再開された。捜索隊が遺体を発見したのが6月中旬であった。沢田さんの遺体には地図に書き込まれた千五百字の遺書があった。
 北鎌尾根に散った松濤明の遺書と比べることが出来ないほどの壮絶なものであり、リーダーとしてメンバーや遺族の方々に対する謝罪が綴られていた。沢田さんは雪崩により押しつぶされる時、偶然に雪の塊の中に出来た空洞が遺書を書かした。後日この事について記したい。

 カムエクの今日に戻ろう。
   昭和56年(1981年)8月26日(水)帯広市から南30Kほどの中札内村に北海道支部の面々が集合し、カムエクを登るという話しが舞い込んだ。出張が29日から始まるため今回は、不参加になった。しかし、遠来の方々が帯広の近くに集結するとあっては、顔を覗かせるべきと出張前の仕事を早々に片づけると愛車で中札内に向かった。
  集合場所の公民館には、札幌の平野明(北海道放送)・高澤光雄(丸善札幌支店)の両氏及び亀井女史等の方々が先遣隊として既に到着し、種々の準備を実施していた。
  公民館には中札内山岳会の香川宗之・男沢浩・石郷一夫さん達が、我々の歓迎の宴を設けてくれていた。
  男沢氏から熊の行動と我々登山者の行動について色々と教えていただく。昭和45年7月にカムエクの尾根上で福岡大学ワンゲルの5人のパーティが熊に襲われ3名の死者を出した山域であるため、熱がこもる。
   22時半になって我々を攻撃した集団があった。突然の襲撃に驚きつつも、ただちに反撃の指示をするや、公民館を飛び出し駐車場に出てみると、札幌の方々は、大挙バスでのお越しである。
 大挙して襲い掛かった集団の中に、望月達夫氏や一原有徳氏の姿があった。
  車内で既に出来上がっている。お天気祭の遣り過ぎだろう。その中に元気な大塚支部長の姿があった。
  本隊が、集合すると酒が足りなくなったので、中札内の町中の酒屋が起こされ、中札内山岳会の方々が強奪して歩く。真夜中に起こされた方は大変だったろう。
  まるで戒厳令下のような静かな町に突然の山賊の襲来だから。
  東京の望月達夫さんから、青年時代の帯広の思い出を聴くことが出来た。望月氏が太平戦争当時、軍隊で入隊し、帯広に駐屯していた当時の建物が、現在の陸上自衛隊の帯広駐屯地に残っているとか。ぜひ同行させていただき、訪ね見たいと進めた。(望月達夫さんは三井信託銀行札幌支店長を務められいたことがあった。)
   27日7時に起床すると、パンを主体とした朝食をいただくが、昨夜の余韻が残っている人が沢山いて大騒ぎである。「靴下がない」と騒いでいるのはまだ良い方で「ザックがない、服がない」である。
   登山隊一行は9時に公民館を三浦さんの運転するバスで出発するが、カムエクの前山はガスって頂上が見えない。小生は愛車で後を追いかける。
  「清流札内川」の上流の絶景名所「ピョウタンの滝」を見学するが、今日の水量は普段の倍近く増水している。
  一路林道を詰めるが、滝から上流に向かい道は荒れ道は細くなってきた。
  六の沢出合いを過ぎ広々とした広々とした河原の七の沢砂防ダム工事現場に到着する。
  中札内公民館から1時間少しである。地下足袋、草鞋の足ごしらえをして、身支度を整えていく。
  私は、背負子に食料の入ったダンボール箱と、私の小さなザックをくくりつけると、11時にいよいよ沢の水に浸る。一昨日の降雨の為、札内川は平素より30Cm位は増水している。
  時には腰までつかり、大騒ぎをしながら登っていくが、胸までつかる人もおれば、頭まで水に浸り泳ぐ人もでる始末である。
  右岸からの大きな沢は八の沢と間違えそうであったが、ここが中の沢である。中の沢の出合いで昼食を食べる。総勢25名の昼食は賑やかであった。
  その後広い河原歩きと徒渉を繰り返し、午後3時に八の沢出合いにあるドロヤナギの林の中のキャンプ適地に着く。
  八の沢までの荷揚げをした私は、仕事の関係で沢を下っていく。今夜の賑やかな宴を想像すると、とどまりたい気持ちもするが、登ってきた沢を適当に下る。
  紅葉に染まり始めた景色を楽しみつつ工事現場に帰り着く。
   翌日の空は快々晴で雲一つなく、帯広の市内から眺める日高の稜線がくっきりと現れ、登山隊の成功が想像できる。
 登山の一行は、5時キャンプ地出発、頂上12時40分、キャンプ地着20時20分であった。
 72歳の高齢者を含めた、登山隊であった。

   この山行で、お会いできたのは文中以外に 相川修、橋本誠二、佐々木誠氏等の素晴らしいベテラン登山家と知り合うことが出来た。
 この山行は日本山岳会北海道支部行事として、計画され、戦後、戦前の登山史上で活躍した人たちに呼びかけられ、実施された。
 山行後、高澤さんから戴いたお便りに、一原有徳氏は、大腿部骨折後であったが参加されたのは後日知った。
 高澤さんは当時札幌にお住まいであったが、下山後東京葛飾の丸善寮に単身赴任中をされた。

今西錦司氏
   カムエクの登山が終わって、静かな十勝に秋の風が吹き、空はまさしく十勝晴れ。
 1981年(昭和56年)9月20日の午後、突然職場の私の机の電話が鳴った。

   平野明氏から、
 「今、十勝池田のワイン城にいるが、今夜今西錦司氏が会いたいと言っている。
 先生は、今日雌阿寒岳と阿寒富士に登山をして途中のワイン城に居るが、今晩は帯広市内に泊まる」
ということである。

 先生らは、前月の台風のため風倒木のため前進できず山中を彷徨され、雄阿寒岳が登れず、雌阿寒岳と阿寒富士に登られたらしい。
 (今西先生は82歳の時、再度雄阿寒岳に挑戦された。昭和59年5月)
  登山の一行は兼平治水氏、新妻徹氏、遠藤慶太氏、お竜さんこと柳田涼子さん、そして大山幸太郎氏等の輝かしい人たちとの登山であったらしい。
  職場を定時に出ると、宿泊先のホテルに出かける。
  ホテルのフロントに、今西先生は市内の「源平」で飲んでいると伝言がある。
   行ってみると、今西錦司先生、柳田女史、平野氏3名であった。2人は既に何度か一緒に登山をした中である。
   今西錦司先生は、京都大学の名誉教授であり、日本猿の研究では当代随一であり、文化勲章の授賞者である。
   その教授がカムエクの登山報告で私の名前を見つけて、紹介しろと言うことになったらしい。私としては、吃驚するばかりであった。 源平を出て、飲み歩き、ホテルの部屋でも多いに飲んでいるうちに、翌日になってしまった。
   教授は、本日(9月21日)佐幌岳を登る予定であると言う。
 教授の高齢な身体を心配せずに飲んでしまったことを後悔しつつ、お開きになったが、翌日、教授は元気に登られたとのことであった。
   今振り返ると、写真を一緒に取っていただければと思うばかりであった。
 ホテルで飲んでいるときに、大山幸太郎氏が駆けつけてきた。
 大山氏は、名城大学ヒマラヤ遠征隊の隊長を務めれた。
 大山氏は本日(9月21日)、佐幌岳に同行すると言う。
 その際、大山氏は教授の著書数十冊担ぎ上げ、サインをお願いしたという。

    カムイエクウチカウシ山
       
 カムイ・エクチカ・ウシ・イ
        熊-岩崖を踏み外し-つける-所
       熊が 転げ落ちるほど 急峻な 山
       という地点名からで、その地点は不