家族のアルプス登山報告(常念山脈)
(平成6年8月11日〜16日)

  私は、平成3年に虫垂炎(破裂した)が完治したら、数日後に左膝半月板損傷で同じ月に入院し、駆け足や長時間の歩行に自信がなく登山活動を2年間中断した。
 左膝の調子が悪く精密検査を受け、入院が決定した日に強烈な痛みで、同じ病院に行くと、虫垂炎で直ぐに手術が必要となった。
 妻に急遽病院に来るよう連絡が入ると 「膝が悪いのに、なぜ腹部の手術とは・・・」(やぶ医者め・・・)

 我が家では、家族が自然の中に於いて連帯意識を高めるため共通の趣味である登山を実施してきた。
 今回の登山は、私と息子(中学1年の時)で常念山脈を登ったとき台風の影響で完全縦走ができなかった、「燕岳から蝶ヶ岳の縦走」である。
 これは、その記録である。
 私は4?才。妻は?才、完全無欠の主婦である。息子は17才、高校生である。

準備段階 
1 地域の決定
 5月の連休頃から「夏休みに登山」することで、三人で登山地域を選定していた。
 当初、「薬師岳から大日岳」、「早月尾根から剣岳に登り立山と室堂」、「常念岳から槍ヶ岳」、「白馬岳から唐松岳」といった地域が上がった。
 妻の一言で地域が決定した。
 妻曰く「北アルプス北部・南部地域の綺麗な景色を眺めつつ、技術的に無理がない地域」ということで、北アルプス南部「常念山脈」を選定した。
 「常念山脈」は、入山が比較的容易、山小屋が整備され、コースがやさしい地域である。

2 登山準備と行動計画作成
 北アルプス南部の地域、移動(列車ダイヤ等)の検討、コースの研究等のため、資料を収集し、地図「槍ヶ岳・上高地」等を購入した。
 6月25日に登山用品の購入。息子用としていたミレーのザックが破れ始めており(昭和57年購入)、妻のザックと二人分を新調。私用の登山靴も新しく購入した。
 7月9日私と妻とで小遣いを出しあってカメラを新調。
 出費がかさんだが、心にひっかかっていたものが購入でき万全の体制に近づいた。
 新しい登山靴の調子を確かめるべく、17日に島根県の三瓶山を登った。
 登山計画の概要が決定し、息子は学生割引の証明書の発行を受け、22日に夜行列車の指定席を確保する。

3 装具・食料の準備
 前記のように登山靴・ザック・カメラ等を購入した。
 8月6日に、食料品の購入。登山計画書に基づき全員で確認しつつ物品をザックに詰め込んでいった。下着類は、努めて少なくし軽装化を重点とし、雨具等は取り出し易い所に入れ9割方完成した。
 11日パン等の腐り易い物を購入した。

登山行動
8月11日(木)
 自宅1830−−広島駅1914−−2115新大阪−−大阪発2242
 大きく膨らんだザックを背負って自宅を出る。
 広島駅から新幹線で新大阪に移動する。
 夕食は広島駅で購入した駅弁を列車内で食べる。勿論缶ビールを少しだけ呑んで前途を祝し、いよいよ予定の行動に入った。
 大阪駅にて列車の入線時間直前にホームに向かう。また前途を祝すためのビールを手配し、夜行列車乗車態勢に入った。今回は指定席のためゆっくりできる。
 列車が動き始めると、缶ビールを少しだけ呑んで前途をまたまた祝した。
 京都を過ぎると乗客は各自睡眠の体制に入って行く。翌日のきついアルバイトが待っているから眠るように努力する。

12日(金)
 −0518松本0621−0636穂高0645−0710中房温泉0750−0820第一ベンチ−合戦小屋−1430燕山荘
 乳白色のような朝霧の中を列車は進む。
 塩尻の手前から車内放送が始まり大変なことを言っている。現在15分遅れで運行中である。松本の接続列車は待っているのか不安になる。
 息子を起こす。息子もよく寝れたようで安心した。
 列車は松本駅に18分遅れで到着するが、接続列車はすでに出て行ってしまっている。6時21分発の列車までホームで待つ。
 切符が松本までのため穂高までの切符をこの間に購入する。
 穂高駅で十数人の登山者が下車した。我々は駅前からタクシーで中房温泉に移動する。安曇野の田園地帯から中房川の渓谷の中にと走る。中房川が道と平行するようになり国民宿舎前を通過すると硫黄の匂いが車中に漂うと中房温泉についた。
 中房温泉キャンプ場の中にトイレがあり朝の行事を実施した。水場でポリ容器を満タンにする。
 登山届けを提出し登山の開始である。登山道は合戦沢の橋(右岸)から始まった。
 道は当初ゆったりとした登りだが、左側の合戦尾根の末端に着くと、急な登りが始まった。階段状に1歩1歩高度を稼ぎジグザグに登る、朝一番のためかなりきついアルバイトになった。後続の者に何組か追い越される。
 歩き始めて30分、急坂の尾根の若干の下りのカラマツの大木の林中に第1ベンチはある。息子がベンチの後ろにある沢に10m程降りて、冷たい水をコップに入れて持って来てくれる。これ以後合戦小屋まで水場は無い。
 第1ベンチを出て少し登ったところで、大便を催した息子が薮の中に入って行き、腐った枝の上に乗り踝を捻ってしまった。捻挫の一歩手前である。彼は大丈夫、登れるというので、じ後私のストックを1本ゆずり、荷物を妻と二人で若干づつ分割する。
 各ベンチは30分程歩いた頃に現われる予定であるが少し余分にかかってしまった。第2ベンチは合戦小屋に上げるケーブルが上を通過した直後にある。息子には自分のペースで歩かせる。
 合戦小屋は、突然我々の眼の前に現われた。小屋には「西瓜」に「うどん」が名物である。我々は両方とも食べることにする。食料はリフトで上げている。全部食べても他の登山者には迷惑を掛けないだろう。
 三人で「西瓜(1/12位が700円)」を食べるが、甘くて本当に美味しかった。家族で「山菜うどん」を3杯食べる。
 我々の食欲に小屋の店員と登山者が驚きの声を上げたので、30分程休み出発することにした。小屋で上着を脱ぎTシャツ姿になる。小屋からすぐに急な登りが始まった。
 樹林帯を出ると展望が広がり始め、尾根状の合戦沢の頭に着く。ここから展望の開けた尾根道を進む。尾根は傾斜がゆるく、そよ風が吹きお花畑とあって気分は爽快で身体も楽になる。
 下から登って来る登山者があり道を譲ると、火鋏でゴミを拾っている。息子曰く「ゴミ拾いの人」と言ったので、「失礼だ」と注意し、その人をよく見ると燕山荘の御主人赤沼氏であった。
 前方に燕山荘の姿が見え隠れし始め、一段と足は軽くなってきた。よくここまで息子が痛い足で良く頑張ってくれたが、明日からの登山ができるか、又は下山しなければいけないのか心配する。1430燕山荘に到着した。
 小屋はにぎわっている。早速宿泊の手続きを実施する。
 一泊2食の宿泊(8000)と翌日の昼食の弁当を含み1人9200円也。
 本館は満員らしく別館に案内される。従業員が草花を紹介しながら案内してくれるが景色は雲の中である。
 寝床は蚕棚2段方式である。畳み4枚に今回は5名であった。我が家と合戦尾根で前後しながら登っていた、夫婦(?)連れであった。
 早速息子を伴って順天堂大学医学部の診療所に行く。外科の先生は、蛙岩に散策に行っているので夕食後に再度診察を受ける事で診療所を出る。
 予定では今日のうちに燕岳往復であったが、中止してビールを飲み軽く一眠りを楽しむこととあいなった。夜行列車の疲れと、急坂の登りのアルバイトのおかげですぐに眠り込んだようだ。
 夕食後診療所の外科の先生に見てもらうと、明日の朝、内出血して腫れて紫色になっていれば直ぐ下山してレントゲンを撮り処置しなければいけない。腫れていれば少し山小屋に居て下山しなさい。登山はいけない。
 しかし、足を挫いて8時間位立っているのに色も膨らみもないから大丈夫かもしれないので、明日の朝再度見せることで退出する。初診料2000円と実費(技術料はなかった。)を支払った。
 19時頃に就寝したようだ。

13日
 燕山荘0700−燕岳−北燕岳−燕山荘0830−大天荘−大天井岳−大天荘
 0430起床、御来光を見るために外に出てみると富士山が見える。
 妻を起こすと二人で小屋の周辺を廻りながら写真に、山を眺めしばらく時間を過ごす。富士山から槍ヶ岳、後立山、立山のシルエットが見える。北燕岳・燕岳、鷲羽、針の木岳と、最高の景色を堪能する。息子は、窓越しに御来光を見たとのことである。
 朝食後、朝日が差し込み有明岳が見える喫茶室でコーヒーを飲み、しばし稜線の朝を楽しみ優雅なひとときを過ごす。妻と息子は、燕山荘思い出の小物を買うため物色を始める。
 医大の先生に息子の足を見てもらうと、足を挫いて20時間位立っているのに、踝に色も膨らみもないから大丈夫と言われる。本当に良かった。
 燕岳の山頂を目指し、妻と二人で0700小屋を後に出発する。息子は前回登頂しているので行かないという。北の方角に向かい砂利の尾根を進む。
 燕岳の独特の風景である風化した花崗岩の奇岩の道を進む。這い松やナナカマドの中を歩くと、色々な形をした岩があり楽しみながら燕岳の山頂に立った。ここまで来たら勿論北燕岳に立つべきだ。
 ピークの北燕岳に向かって前進すると、日本のエーデルワイス「こまくさ」の大群落を見る。嬉しいの一言。花を愛でると共に写真に納めておいた。駒草は、花崗岩の中に緑の葉が地面を這い5〜6センチの茎の先端にピンクの花びらが可憐である。
 北燕岳の山頂に立つと、後立山連峰、裏銀座の峰々、振り返ってみると今登って来た主稜線の先に燕山荘がぽつんと見える。妻を連れてきて良かったと思いつつ景色を眺める。
 山荘に帰るため燕岳を越えて燕山荘に帰る。燕山荘のキャンプ場の近くで息子と出会う。寂しくなって迎えに出た来たのだろうか。山荘の前には、全員のザックが出してあった。息子が一人で痛い足をかばいながら実施したのだろう。感謝する。
 山荘の前の道標の前で写真を取ると、山荘の前からゆるやかな稜線を進む。
 稜線は、半袖シャツに半ズボンで快適な状態だ。下界では半袖でも熱くてたまらないのになんと贅沢なことだ。
 稜線から見る盆地は雲海の中にあり、白い雲が太陽に輝くなんと厳かな景色であろう。この稜線を歩く人のみが見れる素晴しい景色である。
 登山道からは大天井岳・槍ヶ岳・鷲羽から針の木岳と素晴らしい景色の稜線を進む。表銀座の稜線の影が、高瀬川に降り始めた。歩いている私達の長い影が稜線から伸びている。
 蛙岩の大きな岩の中を登山道は入って行く。穏やかな稜線上にたった一ヶ所だけ大きな岩があるのは不思議な感じがする。蛙岩の中は、太陽が当たらないが狭くて休憩できないので入口付近の岩の下で休む。時間が経過するにつれ稜線上も温度が高くなり汗が感じられるようになってきた。
 蛙岩を通過し稜線を進んで行くと大天井岳が近付いてくる、登山道が斜面を横切っているのが見える、右に行くのが喜作新道で槍が岳に、左が大天井岳の山頂と常念岳方面に向かっている。
 大きな大天井岳を見つつ稜線を進むと、コルが眼の前に現われる。ここが切通岩で両サイドに10m程度の岩場に囲まれている。切通岩には、喜作新道を作った小林喜作のレリーフがある。大天井側は断層破砕帯が走っていてグジャグジャ。
 喜作が槍への道を開く前は、大天井岳〜東大天井岳〜中山方向に下り中山峠〜二ノ俣谷から槍沢に一度下り、槍が岳まで登る大きな迂回道であった。
 レリーフをカメラに納めると、数メートルの階段を登りいよいよ大天井岳への登りが始まった。大天井岳への急登を登ると道標が現われ大天井ヒユッテから槍ヶ岳に進む水平道と、大天荘へ向かう当初急坂な道の分岐点に立った。ここで小休止を取り我々は左手の急坂な道に入って行く。
 急坂な道がすぐに水平道に変わり楽になるが、足元は急斜面のトラバース道。
 登山者で賑やかな町営の山小屋「大天荘」の横に出た。足の手術等のため運動不足となり、今日の登りにはバテてしまった。
 大天荘に宿泊の申し込みをすませると、早速二段の寝床に案内された。この小屋は水が充分でなく1リットルが200円と表示されている。息子と二人で来た平成2年の時は150円であった。
 大天荘から大天井岳に向かうため、カメラ、地図等をもって大きな石の中を適当に進み、常念山脈最高峰の大天井岳に立った。
 大天井岳からは、焼岳の噴煙、前穂高の岩壁、奥穂高の山頂、岩場の殿堂滝谷を持つ北穂高岳、そして日本のマッターホルン槍が岳と北鎌尾根(加藤文太郎や松濤・有元両氏等の劇的な遭難を始め優秀な登山家の生命を奪った。)、氷河地形の槍沢、裏銀座の山々、燕岳、これから行く中天井岳、・東天井岳・横通岳・常念岳と、苦労を吹き飛ばしてくれる大パノラマ。
 大天井岳より大天荘に帰り着くと、1700に夕食を食べるためビールを購入する。ビールは冷やさないで、棚の上から出すだけであった。燕山荘では一応水に入れて冷やしてあった。
 夕立がやって来た、小屋の周辺は大荒れとなった。上高地では時間あたり15ミリの大雨とTVでは言っている。天気予報では明日の行動は、午前中が晴れで夕方には雨になるという予想であった。
 息子が、トイレにいって帰って来ると様子がおかしい。聞いてみると釘を踏んだようであり、早速消毒液等で緊急処置を実施する。破傷風にならなければ良いがと願うばかりである。今回の登山は息子のとって「踏んだり挫いたり」
 夜半に、突風が吹き荒れまるで台風の中に居るようである。小屋の周辺はテントで過ごしている人が居る、大変な状況であっただろう。

14日
 大天荘0650−東天井岳−常念小屋−常念岳−蝶ケ岳−蝶ケ岳ヒュッテ
 0430に起床すると、ザックのパッキングにかかる、小屋の外では御来光に歓声が上がっている。荘厳な朝の始まりに私もつい浮かれて飛び出して行った。大天荘の小屋の周辺でモルゲンに輝く槍ヶ岳・穂高岳を写真に撮り、大食堂で朝食をすませる。
 恒例の朝の行事を済ませる間に、歯みがき・洗面を実施する。洗面所には水道の蛇口も水のタンクもない。水は各自の携行するものを使用するか、宿泊者一人に1リットルの割当(無料、チェックを受ける。)を使う。この水は小屋を出発する時の命の水でもある。大変貴重な水で洗面を実施する。
 先程の残った水を受領すると、大天井荘を後にして中天井岳に向かって歩いて行くと、黒いパイプが数本大天荘から二俣の谷の方向に消えている。小屋の水は遥か下の二俣の谷から上げているようである。
 中天井岳への道をゆったりと降りそして登って行く。早朝の気持ちの良い時間帯に、素晴しい景観の尾根道を進むと、氷河の名残の小さな二重尾根が現われ始める、二重尾根の東側を登山道は続く。
 東天井岳の肩近くの稜線上に二ヶ所に雪室状の人工建造物がある。大天荘よりに当初雪室状の石積みがある、雪室状から数分のところにもう一つ旧二俣小屋の跡の石積の囲いがある。石の隙間が透けてみえる。4m四方程であるが木片等は見えなかった。
 表銀座では、沢山の登山者と擦れ違ったが、大天井岳から中天井岳方向に入ると登山者の姿が急に少なくなった。
 東天井岳の肩で横通岳が望め、縦走路の先に常念岳がどっしりと鎮座しているのが見える。息子と来た時に肩のところで昼食を取った残雪が今年はなかった。残雪の跡の湿った土肌が見えるから、数日前に消えたのであろう。
 東天井岳の肩から一の俣沢と二の俣沢にの間を槍沢に向かった尾根が伸びている。尾根の先端付近に丸い頂が中山である。中山に向かって旧道があり踏跡があるが進入禁止の立札がある。喜作新道ができるまでは、この尾根に入って中山の手前の最低案部まで下り二の俣沢を槍沢に出ると槍ヶ岳に登って行った。
 大天荘あたりから下山して帰宅するまでカメラは、パノラマになっていたため写真が上部と下部が写っていない。新しいカメラの操作ミスのため、好天気の絶好のカメラチャンスを逃した。
 東天井岳の中腹の這松帯をトラバースし、崖縁を下り横通岳との最低コルに降り立つとまた小休止。
 最低コルを出発する。横通岳は名前の通り頂上へ行かずに、稜線の下を水平にトラバースする大きな石の上を歩く登山道だった。30分位歩いたところで小休止
 常念岳が正面に見える地点でこれから登る常念岳の大斜面の写真を写す。ジグザグに登っている状況がよく見える。
 10分程降ると樹林帯の中に入った。樹林帯の切れ目切れ目に、常念岳の大きな姿が見える。平成2年の時は、見えなかった常念の頂を今日はゆっくり眺められる。
 樹林帯を10数分で下ると、広々とした鞍部に出ると、数張のテントがあった。
 常念小屋の玄関付近にザックを降ろすと、小屋の中に入って行った。小屋は登山者が出発した後の、慌ただしい清掃の時間であった。
 妻が従業員の許可をもらうと靴を脱ぎ部屋に上がいった。我々二人は、ジュースと青リンゴそれにフイルムを購入する。
 水の補給をする。1リットル100円、これは安い。大天荘は200円であった。
 常念小屋を出発する時に、ヘリによる荷揚げが行われると、小屋の従業員が慌てている。我々が小屋から数十m歩いた時に1回目のヘリによる荷揚げが始まった。2回目は先程から少し登ったあたりで見る事ができた。ヘリは、帰る時に小屋からのお土産をもらって行った。3回で荷揚げは完了した。
 前常念岳の分岐点を過ぎると、道は大きな石の道に変わりジグザグに進む。25分に5分の休憩でピッチを刻むが、段々と疲れがたまって来ている。常念岳の肩で2回目の休憩を実施する。
 2回目の休憩をしている時に、元気な一段が通過行った。今夜のビールを差し入れてくれた親子のパーティであった(じ後「ビールの人々」という。)。
 小屋から頂上まで標高差400mコースタイムで1時間とあったが、私の体力(脚力)では1時間30分かかりやっと登りきった。この登りは疲れた。
 頂上は、大きな石の重なり合いで、誰がなんのために作ったのか不思議だ。(あとで聞いたがどうも人間様でないようだ。)
 頂上で、大天荘の昼食を頂く。シャケ弁であった。シャケ弁を美味しく(?)いただいていると、元気な「ビールの人々」が常念岳頂上より蝶ヶ岳に向かって急な縦走路を下って行った。
 蝶ヶ岳への道は、急斜面が続く大斜面である。
 重い腰を上げ今日最大の長い下りに入る。頂上から松本市方向に10m程度歩いた地点から、登山道は急激に下って行く。右に左にジグザグに高度を下げる。約400mの下りは、午後の弱まった足には、きつい労働である。
 最低鞍部に到着すると、樹林帯の中を分け入って登りの道を行く。50m程度の登りをなんなく越すと標高2512m地点である。小さな池を右に見ながら歩いて行く。
 50m程度の下りを過ぎると、次は2592mの地点を目指して、樹林帯の中を登って行く。午後の強い日差しを避けれるだけ有り難い。この登りは、まだ少しは体力に余裕があった。
 妻達から、これからの登りについて質問が飛んできた。この斜面を150m登り同じだけ下るといよいよ200mの登り、広い稜線をゆっくりと100m程登ると答える。
 2592の頂に近づき樹林帯と草付きとの地点に到着する。小休止と地面を見ると、切り株の上に無線機が放置されている。手に取ってみると、スイッチは入っている。
 俺「この波で感アリマスカ」
 ?「感アリマスどうぞ」
 俺「現在地2592地点に無線機がある。どうぞ」
 ?「私の無線機です。」
 俺「これから蝶ヶ岳の方に移動します。」
 ?「持ってきて欲しい。」
 俺「350の缶1本で持って行きます。こちら親子3人です」
 ?「了解」             こんな調子でやり取りがあった。
 息子は、缶ビールを要求するのはあくどいという。
 紫の毒草「鳥兜」が咲き乱れる斜面を軽快に下って行くと、いよいよ200mの登りが始まった。蝶ヶ岳の頂上目指して登る大斜面だ。普通なら何でもない斜面だが体力がない上に疲れているからきつい。
 常念岳の最低鞍部から続いた樹林帯の中を進んで行く。もう少しで樹林帯から草地に変わるあたりまで来ると、ザックを持たない二人の若い人が下ってきた。
 俺 「無線機の人では?」
 若者「エ、どうして?」
 俺 「私のザックの上に入れてあります」
 若者「持ってきていただいたのですか」と、感激の声がある。
 話によると、「数人が無線機をいじくっていたようだが応答がなく、置き忘れた地点まで引き返して行くつもりでいた。」との事であった。私が無線機で話した事は知らなかった。
 若い人は、無線機を持って来た道を引き返して行ったが、牛馬の歩みである私達は、おいてゆかれる。若い人は元気がいいなーと、自分の年が改めて確認させられた。
 疲労が蓄積され、25分に5分の休憩タイムが20分に5分、15分にと行動時間が短縮され、休憩回数がどんどん増えると同時に、ただでさえ携行している少ない水の使用料が増して行く。
 蝶ケ岳を通過して・2625分岐の道標を確認して蝶ケ岳ヒュッテに向かう。分岐から見えるヒュッテは遥か先に見える。
 蝶ケ岳からヒュッテの間は、二重尾根の巨大なものである。他の山脈の二重尾根とは、比べ物にならない。たとえば、東天井岳・西鎌尾根などは赤ん坊みたいなものだ。
 コースタイムでは20分程度であるが1時間のように見える。疲労がかさむと、距離間も狂って来ている。分岐からヒュッテの間に2回も休憩をしてしまった。息子の元気な姿には感心する。
 蝶ケ岳ヒュッテの直前になると、他の登山者がヒュッテの前で槍や穂高を見ているので、元気よく歩く様にする。
 妻が宿泊手続きをしている間にビールをがぶ飲みする。もう待たれない。今すぐ欲しい。喉が焼けるように欲しがっている。
 宿泊手続きが終了すると他の登山者と共に寝床に案内される。ここは2階の大広間のような所に、雑魚寝である。
 1階に降りて、周囲の山々を眺めていると、見知らぬ人が「食事の時間は、いつですか。」という。何故だろうかと、思案に苦しんだ。妻が「無線機の人では」
 私達の喫食時間が来て着席すると、目の前の人がビールを進める。びっくりして見ると「ビールの人々」が4名いた。断わるが進められて飲んでいると。御主人がやって来て「家族で登山し、宿泊は6人で小屋には4名が寝る、父と子は外でキャンプ」をしている。とのことであり、しばらく会談を実施する。
 食事が終わり、夕闇が迫るヒュッテの周辺を散策していると。松本市内の明かりが見える。長野市の方まで夜景が広がっていた。すると豊科町のあたりに「花火」が上がり始める。アルプスの稜線から花火鑑賞ができるとは、思っても見なかった。
 真夜中に私を揺り動かす者がいる。時計を見ると深夜の0時である。妻が星を見に行こうと誘っている。眠たいので勘弁してくれと又寝ると。揺り動かされついに出かけることにする。
 ヤッケを着ると小屋の外に出る。見上げる空は星が一杯に輝いている。星はよく見えるが風が吹き寒いのとで早く小屋の中に入りたかった。

15日
 ヒュッテ−徳沢園−上高地温泉ホテル−河童橋−バスセンター−西糸屋別館
 小屋の外は御来光を見るため沢山の人である。御来光の出る東側を見る人を無視して、私は西側にカメラを向ける。
 穂高岳等の荘厳山々がモルゲンロートの染る光景をカメラに納めるべく眺めている。南から木曾の御獄山、乗鞍岳、焼岳、明神、前穂高岳、穂高岳、北穂、南岳、間岳、槍ヶ岳と続く。徐々に稜線が輝き、下る影を追ってシャッターを切る。
 素晴らしい景観に感激しつつシャッターを切ったが、パノラマ撮影モードのため各山頂がカットされていた。
 朝食が終わり、出発準備が整うと0700ヒュッテを後にして長塀尾根を下る。
 ハイマツ帯から徐々に背の高い潅木となり白い肌の岳樺に変わる。稜線上には所々窪んだ所があり道は窪地の真ん中に通っているが、中腹にも道の跡がある。残雪期には、水が溜りその迂回路であろう。
 下山路の左側に汚い池が現われた。周囲150m程だが、これが有名な妖精の池だろう。池の周囲に盛りをすぎた花の群落がある。時期が早ければきっと綺麗だったろう。
 先をいくパーティに追い付いてしまうと異様な匂いがある。体温と気温とで、醸し出される匂いがある人から出でいる。私達もすごい匂いが発散されているのだろう。ここ5日間も入っていないので早く上高地の温泉に飛び込みたい。
 ゆるやかな尾根の下っていくと、次々に登って来る人達と出会う。なかには70才ぐらいの女性が主体のパーティもある。元気な人達だが、私のスキーのストックを見て、感心する人。欲しがる人、曲がったストックを見てこんな活用方法もあると感心する人等色々であった。
 長塀尾根の末端に近づき、斜面が急になりジグザグになると徳沢園の屋根が足元に見え始め、徳沢園の玄関先に降り立った。
 徳沢園は、沢山の登山者の汚い者、観光客の綺麗な者が休憩している。
 妻と息子は、アイスクリームを食べるが、私はビールの販売機を探す。
 徳沢ロッジを出発し明神を目指して歩くと、梓川には水が流れていない。徳沢園のすぐ横の橋のかかっている沢にも水は無かった。白い石の河原が不気味な感じになっている。
 徳沢から明神の中間まで来て、伏流水が表面に出てきて小さな川になっている。明神の近くでまとまった流れになった。
 徳沢と明神の間に古池があり、ここに越夏の鴨がいる。上高地の夏が涼しく、水が冷たいために居着いてしまったものだ。
 明神館で小休憩をすると河童橋までの道を急ぐように下っていく。
 河童橋の近くまで下り、上高地で一番冷たくて一番綺麗な流れ清水川で妻と息子はこの沢で顔を洗っている。
 入浴のため上高地温泉ホテルに向かい前進する。アルペンホテルという綺麗な感じのホテルを見る。昔泊まったことがある村営ホテルの変わり様に驚く。
 ウエストンの広場からすぐに上高地温泉ホテルの建物が見える。やっと5日ぶりに入浴できる。一人600円であるが、少し高くても絶対入る。すえったような体はもう御免である。紳士らしくなりたい。
 入浴後、河童橋を回ってバスセンターに向かうとバスセンターの方向に4列縦隊の行列ができている。
 バスセンターに着いてみると、渋滞等で3時間程度バスが上がってこない。との声が飛び交っている。タクシー乗り場もすごい列である。
 バスもタクシーも今日の乗車を断念すると、観光組合に西糸屋別館の宿泊を依頼し、河童橋に帰る。西糸屋別館には、もちろん浴場もある。観光組合では、2段ベッドの部屋になり、他の客との相部屋であるというが、着いてみると8畳の個室で久しぶりに家族だけの夜だ。

16日
 西糸屋別館−バスセンター−新島々−松本−広島
 河童橋の周辺は、早朝の観光客・登山者でにぎわっているが、バス等の出発時間のみに集中していたし、何回も歩いたところであり通り過ぎる。
 バスセンターにつくと、早朝のバスでありながら0750発のバスは満員でこのあと2便後の0840頃まで待たないと乗車できないので、急遽タクシーで新島々まで移動することにした。妻は松本まで移動したかったようだった。
 上高地から新島々までタクシー代は10400円であった。
 松本発名古屋行きの「特急しなの」に乗車。車窓に広がる木曽川の河原には、ほとんど水が流れていなかった。

給食計画 
1 行動間 : 山小屋で、弁当を確保した。行動食としてパンを食べ、終盤は非常食を食べた。
2 非常食 : ハム、蜂蜜、ソーセージ、キャラメル、その他
3 嗜好品 : 珈琲と缶ビール(現地調達)
4 初日の朝・昼:弁当・パン・竹輪を動きながら食べれる物。
5 その他 : 缶切りのいらない食料

装備表 
 個人 : 長袖・半袖の上着、ズボン、半ズボン、アンダーシャツ、パンツ、帽子、靴、靴下、手袋、タオル、ヤッケ、傘、箸、ザック、ナイフ、寝袋、時計、水筒、懐中電燈、筆記具、保険証控、地図、ストック等
 共同 : ツエルト、細引、磁石、カメラ一式、トレペ、コンロ・コッフェル、アタックザック、薬品等(頭痛薬、征露丸、アンメルツ等)

反省点
8月14日の水の消費量について(3名で)
  大天荘出発時から常念小屋 0.7リットル
  常念小屋出発時      1.7リットル
  ジュース等        0.7リットル  合計水類は 3.1リットル
1人1リットルは、少なすぎた。
 2リットルは消費したい。それと予備に1リットル。家族で9リットル