「いづも」と「出雲」から「日本の歴史」をみる。

  「ワイフ」らしき「女」が、俺の顔や頭を見ては「大槻教授」と言いやがる。
  私はビシと整髪したいのだが、そのらしき「女」が整髪が嫌いな上にムースなるものも、毛嫌いして、七三に分けるな。
  オールバックは嫌いだ、何は嫌だとわめく、「自然が良い。」と言っては、「教授」「大槻さん」と言う。
 その大槻教授とやらは、コメディアンであり高名な映画監督兼お笑いの「タケシ軍団長」のテレビに時々出演する「物理学者的タレント」である。
  心霊写真とか、非現実的不思議の世界を否定しては、飯の種にする人である。
 否定することで、魅惑的な社会(霊能力者等)を信奉する人たちを、テレビに登場させては、彼らの生活を心配し、日当を稼がせている。一蓮托生のグループの長である。 
  しかし、私は、「教授」と呼ばれて、悦にいっている。 悦にいるとは、「喜ぶ」「いい気分」とか、「鼻を高くする」とかであろう。
  「エツモスル」の言葉は、島根県安来市の方言で「いい格好(かっこ)する。」となる。
  ワープロで入力すると「いい格好(かっこう)する」と入力する。
  「いい かっこ」では変換できない。これは方言かな。それとも「アポストロフィ」である「短縮形」的日本語か。
 俺と同じ職場に勤務する出雲出身の友人が、パソコンを使用しいづもと入力して「出雲」がでないと、騒いでいた。 
 俺が「いずも」と入力したらと助言した
 出雲は、「雲が出るところ」だから「いづる雲が正しいのではないのか。
  「日出づる国(歴史的仮名遣い)」は「ひ いづる国」が、正しいのに「出雲(いずも)」としてしまったのは、誰だ。お前か。
  日本語の勉強となると、「いづも」の人は俄然強くなる。
  「あんたー えんやかね。」
 「えんや だわネ」
 「えんや かね」
 「えんや だわ」と。話していた。
  これは
 「貴方は、塩冶(出雲市塩冶町)の人」
 「いいえ違います」
 「やっぱり塩冶の人だったのネ」
 「いいえ違います」
といつまでも、続くーーー。
  「ヌックッタラ シイケー バーズニ シタラーカ」と、
 こんな美しい言葉を美しい女性が言っている。(注:出雲には美しい女性しかいない。)
   この言葉は、「(子供の)髪の毛が長くて 暑苦しいから、坊主頭にしてやろう。」と、「美しい隣の若嫁」が、我がワイフなる物(?)に話しかけていた。
   「ズーズー弁」といって、東京や大阪等の地方の人が笑うが、出雲弁こそが、我が国固有の「正しい日本語」であったが、地方であった大和朝廷か何かが、へんに「ねじ曲げて」しまったのである。
  「上野駅に「そ」を聞きに行く。」の文を、何かの本で読んだが。
  この「そ」は、同郷の人と人とを繋ぐ大切な心の交流に必要である。 ズーズー弁とこそが、出雲の人の手形であり、パスポートである。 この調子で、延々と続けては飽きが来よう。
  では、「ウンシュウ フラタ」は、どこにあるか。知っているか。
  「知ってるおじさん、知ってるかい。」(このラジオ番組は某国営放送局(有料)?では、なかったかな。)
 「ウンシュウ フラタ」は、「島根県平田(ひらた)市」である。
  「ウップルイ」は、何処にあり、どう書くのか。 平田市の日本海側に「十六島」がある。
   兎が「ハネ クッテ オオタ」は、 「波根」 「久手」 「大田」と続く山陰本線の駅名である。
 「イソタケ」は「五十猛」。
  山陰の歴史に強くなろうとする人たちは、私の「ホームページ」を丹念に読み、メモを取ると、いつの間にか、「素晴らしい馬鹿になれます。」
  歴史的事実を否定し、根拠なきを、根拠として、独学孤陋、自由闊達、卑屈屈折、巧言令色、大逆無道に生きている。私です。
 最後の言葉を「座右の銘」ではなく、「挫折の銘」として、謹厳実直に生きています。
 最後に、私を育ててくれた、出雲市の皆さん、島根県の皆さん、また酒を飲みましょう。

 神話は、大和朝廷の都合の良い方向で記載されているという。
  これは、大和朝廷が国土統一後に「古事記」や「日本書紀」を創ったためである。
 大和朝廷は、「天皇家による国土統一の課程を基本として記載」していると考えられる。
 何故なら歴史は「勝者の史実(?)」であるから。
 推古天皇の620年「天皇記」「国記」  孝徳天皇の時代に蘇我氏の政変(645年)により「天皇記」「国記」消失
 文武天皇死去(707年)後文武の母が元明天皇となる。
 元明天皇は712年「古事記」撰上(太安万侶)させ、713年に諸国に命じて「風土記」の編纂を命ずる。
 元正天皇の時に720年「日本書紀」撰上(舎人親王)  聖武天皇の時代に「出雲風土記」が733年になる。
 島根県は、島根郡名から来ているとか、「出雲風土記」によるとか云われている。
 島根は、現在は八束郡に編入されている。島根は、島の意、島根半島は現在は地続きの地ではあるが、太古には、国引きがあり、三瓶山、大山等を杭として引き寄せた島である。
  ここで、「国来」「国来」と叫び引っ張ってきた新羅の国の領土を引っ張ってきた地域を記載する。
  出雲市西にある杵築(大社町)の園の長浜を綱として御崎を、出雲市の北にある狭田の国(平田市の宇賀から佐蛇川)が曳いてきたのが佐伎の国、良波の国を闇見の国(松江市の北部)、三穂ノ碕(美保関)の綱が夜見が浜(弓ヶ浜)である。
   出雲の国造を中心とした地元の国人によって編纂された「出雲風土記」は地上を舞台として記述され、大和朝廷による「古事記」「日本書紀」は、高天原という天空を舞台として記述が始まっている。
  「古事記」はその3分の1以上を「出雲神話」にさいているらしい。
 すなわち、「日本の歴史」は「大和朝廷の歴史」でなく、「出雲の歴史」が「日本の歴史」であると、私は考えている。
  小泉八雲は、松江の中学校の教師として赴任する状況を「知られぬ日本の面影」を、次のような書き出しで始めている。「山を越えて、古代の神国出雲へ行く。太平洋から日本海へ、強い車夫に車を曳かせて四日の旅。−−−私どもは最も人の通らぬ、最も遠い道を通った−−−。」と、不安と期待をつづっている。
  出雲は、「八雲たつ、出雲八重垣 妻ごみに、八重垣つくる その八重垣を」の「古事記」の歌からきている。雲のわきあがる美しい国の意
  「八雲たつ、出雲八重垣−−−」の「古事記」の歌は、誰が作ったのか。 これは、私の父である「八岐の大蛇」を退治した須佐之男命(素戔嗚尊)である。
 「八岐の大蛇」を退治して出雲の国須賀の地(大原郡大東町)に、住まい(宮)を作り、歌を読んで、奇稲田姫(くしなだひめ)と夫婦となり末永く暮らした。
 須佐之男命の6代目の孫が、あの有名な「大国主命」である。 大国主命の神話は、あの有名な「因幡の白兎」で始まる。   (参照、私のホームページ「山陰の神話」「鳥取県の歴史」) 
 地上を舞台として生きてきた出雲の神々の国を、神として「力」、「歴史」を持たない大和朝廷が支配するには、「高天原という天空から天降った天孫」が支配する。と、しなければならなかった哀れさが滲んでいる物語「古事記等」である。
  では、「出雲風土記」はいつ頃つくられたのか。聖武天皇の頃といわれている。
 風土記は他に「常陸」「播磨」「肥前」「豊後」の5カ国のもの現存(?)するらしいが、略本や欠本で、完全な形として残っているのが、「出雲風土記」であるらしい。
   石見は、粗くごつごつとした岩山、海岸に岩の見られる国という。
 三瓶山から西の地域は、海岸線まで山々が押し出し断崖絶壁のようになっており、江の川が、中国山脈を蛇行し日本海に流れているが、川の両岸は急峻でV字谷となりゴツゴツとした岩場が多い。
  奈良盆地には石見、出雲、薩摩、土佐、備前、吉備、丹波、但馬、上総、武蔵等の地名がJR桜井線と近鉄橿原線の周辺にある。
  これらを見ると、奈良に都があった頃に、都の造営か、苦役のために強制的に登らされた人たちが作った町であろうか。
  石見駅が近鉄橿原線にある。江戸時代には柳沢藩15万石の城下であり江戸末期には戸数60数戸、農業主体集落であった。ある本では、石見の人が帝都造営、陵墓増築、耕地開発、寺院等のため都に挑発された者達が住んでいたのだ。とある。
  全国各地から集まった民が、都を作り長い歴史の中で生きてきたが、都市化の波がそういった地域に押し寄せ、団地が形成され、緑が丘、○○ニュータウンとして別の名前で呼ばれ、石見、出雲、薩摩、土佐、備前、吉備という地名までなくなっていくのか。
  歴史のある地名が、いつのまにか消えてしまい、何丁目何番地になっている。大手町、鉄砲町、鍛冶町、紙屋町、寺町等の町名が消えてしまってから、騒ぎだしても遅い。
  元明天皇の頃に「ミコトノリ」により地名が変わり、廃藩藩置県のおりにまた地名がかわってしまったらしい。
  浜田藩から浜田県そして島根県となった。長州藩が、山口県に、薩摩藩が鹿児島県など、県名はいい加減に作られてしまっていると、私は偏見でそう思っている。その当時では真剣に議論され、決定したであろうが−−−。
  前に記した島根県は郡名、鳥取県は鳥取部(氏姓時代の「部」)、群馬県は郡、千葉県は町、長野県は村、神奈川県は川であるらしい。 島根県は、出雲県で良かったのではないのか。その土地の文化とか伝統、歴史を無くしてしまう地名の付け方には、多いに反対である。
    明治2年大森県が設置された。大森県は長州軍の支配する旧浜田藩領と石見銀山領に加え隠岐県も編入して設置された。
 大森は、石見銀山の代官所のあったところで徳川幕府の天領であった。
 3年2月大森県は浜田県と改称され大森から浜田に県庁が移された。
  益田市の西南に津和野藩があり津和野県になった。
  津和野藩の廃藩により4年に浜田県に合併された。
  出雲国では松江県、広瀬県、母里県の3県が置かれ、4年に3県と浜田県から分離した隠岐を併せて島根県が成立した。
  島根県は9年4月に浜田県を、8月に鳥取県を合併した。14年9月に鳥取県を分離し現在の島根県となった。

 最後に、鳥取藩は、鳥取県と成った以後に島根県に吸収されていた歴史を振り返ってみる。
 この点についても、現政府に歴史的謝罪を要求したい。
  鳥取藩32万石、それが松江藩の18万石に吸収されていた。
  鳥取藩は、明治維新にあたっては倒幕運動を展開し、佐幕派で山陰鎮撫使の取り調べを受けた松江に県庁を持つ島根県になった。
 鳥取の町は城下町として、県庁所在地として発展したが、県庁がなくなり経済的に打撃を受けた。
  島根県からの分離に対し、伯耆国、とくに米子を中心とした西部地方は反対論が強く、鳥取県の復活に反対運動をしていた(島根県庶務部文書科が受付けた14年度の建白と上申の五つは、全て分離反対論であったという。)。また、鳥取県再置後も分県−島根県への合併運動が行われた。
  明治44年3月に鳥取県西伯地方を島根県に合併しようとする動きが島根県側に起こった。
 出雲の海の玄関となっていた境港を自分の物としようとした。
 大正3年12月に両県の合併論としてふたたび具体化する。 

 明治政府のやり方は、いま振り返っても正しいとは言えない。
 西郷隆盛等の薩摩、長州等のやり方は、いま糾弾されてもおかしくない。
  「糾弾」する「球団」は色々あるが、セリーグが日本の野球が持っているのは、「糾弾」される「球団」の一つである「某球団」であるが、万年最下位の「球団」こそ「糾弾」されるべきでないのか。

  東京が、埼玉県に吸収されるようなものである。埼玉県東京市千代田町、または、埼玉県東京郡千代田村大字桜田門字警視庁。愉快である。 愉快、愉快、痛快無比。では、さようなら−−−。