俺と植氏は、毎週末ゲレンデで遊んでいるうちに、どちらともなく穂高の岩について話し合っていた。
9月になると、滝谷のクライマーの数も激減するだろう。
どこでも、登れ、落石の心配もない、順番待ちもない。好き放題が出来る。
そこで、滝谷に行こう。ルート図を探し、コピーし必要な資材を購入する。
山陰には、岩登りの登山道具を売っている店は、米子市内の大山山荘しかない。
9月下旬になると穂高の3000mの稜線は紅葉から新雪へと変化する。 初雪は、直ぐに消え去るが、しばらく岩陰に凍り付くように残り、稜線の空気は冷やされ、岩壁は一段と冷たく手はかじかんでくる。
準備は出来た。
9月19日山陰地方には、夏の香りがあちらこちらに渦巻いている。
友人に見送られ、我々の夜汽車は出雲の駅を出発した。
京都駅までの夜行列車の中で植氏と私はサントリーのレッドを胃袋に流し込んでいる。
窓の外を流れる景色はいつもの沿線である。
いつしか酔いつぶれ京都近くで目をさます。
20日の昼過ぎ、新島々から上高地に向かうバスは、季節外れのためがら空きである。
上高地の河童橋も夏の喧噪はなく、梓川の流れだけが音を立てている。
上高地の歩きなれた遊歩道を進む。
明神池の周辺はすでに色づいている。
「氷壁の宿」徳沢を過ぎると観光客の姿はなく、私たちの前後に人の姿はない。
横尾の避難小屋には夕闇がせまる頃到着した。
避難小屋から数十mの横尾山荘の前には、数人の登山者が楽しそうに佇んでいるが、俺達の様な貧乏登山者は、寝具と食事の無い避難小屋泊りが似合いだ。
山で迎える最初の夜はいつも豪華な夕餉はである。
松本駅で購入した豚肉に味噌をまぶしてもらい日持ちをさせている、その豚の味噌焼き、そしてレッドである。明日からの登攀を前に二人だけの素晴らしい宴
21日早朝、昨日の残りのご飯にみそ汁を胃袋に納めると、横尾の避難小屋を後に北穂の南陵までの荷揚げである。
屏風の岩を眺めながら、横尾本谷を登り涸沢カールに到着し、急な登りの北穂の南稜を見ると登る意欲がなくなる。
登攀道具に食料・テント・寝具と重たいザックを、まだ700m程担ぎ上げなければいけない。
南稜のジグザグ道を、一歩一歩喘ぎながら登っていく。
途中南稜の水場があるが、これ以上の重量は二人には無理である。
今夜の水は、後で汲みに下ろうと決めて登っていった。
南稜のテント場が近づくと岩影に新雪が見える。
テント場に登り切ると一張りのテントがある。
先住者のテントから少し離れた所に我々のテントを設営する。
引越しの挨拶を兼ねて滝谷等の状態を聴くと、稜線では数日前に降雪があり、彼らは多量の新雪で水の確保は十分であったが、今日の好天で殆ど解けてしまったとの事であった。
夕餉まで少し時間があるので、登攀用具を持って北穂の小屋に向かう。
テン場の使用や今後のこと等で、小屋に挨拶に行く。
天気予報では、台風が南海上を通過するとのことで、我々のテントでは、心もとないので、小屋の従業員に状況により避難する旨を告げると、そんなことで避難してくるなと告げられた。
滝谷の中では一番短いドーム北壁の70mの壁を登る。
始めのピッチは私がトップとなる。次のピッチを植氏が登り、ドームの頂きに立った。
滝谷の概念を頭にいれるため、頭でしばらく眺めていると、ガスが上がってくる。
飛騨側から上がってきた霧が、ドームの頭を覆い始めたので、慌てて登攀道具を格納しているうちに完全に霧に囲まれてしまった。
ドームの頭から南稜のテントに帰るために霧の稜線を進んで行く。
視界は5m程になり岩の上の印だけを頼りに進むと岩稜は下り始めた。
霧は飛騨側から流れてくるが、ふと左手に霧の隙間ができ谷底を見て驚いた。
我々の左手に涸沢カールが見えた。
霧の晴れ間に涸沢のカールの底にあるヒュッテが見える。
右手か前方なら南稜だが、我々は奥穂高に向かって誤って歩いているではないか。
狭い岳稜で誤って歩いているのに驚いたが、原因はドームの頭から稜線に戻るときに大きな岩に突き当たったとき左手に進むところを必要以上に巻いてしまったらしい。
テントに帰り着き、明日からの生活用水の確保の為、今日登ってきた稜線を水を求めて下る。
1斗缶とポリタンクに水を満杯にして、月の光に幽玄の涸沢カールを見ながら、男二人の稜線散歩を楽しみ、テントに帰り着いたのが夜の十時であった。
22日は、クラック尾根と第1尾根の登はんである。
クラック尾根は長大で、滝谷の中では安定した岩場であり終了点が北穂高の小屋であり楽しいルートである。
最後ののピッチは滝谷は初めての植氏にやってもらう。
第一尾根を終了すると、少し早かったが本日の登攀を打ち切り、意気揚々と北穂の小屋に行く。
贅沢品の缶ビールを購入する。9月22日今日は俺の誕生日である。
近くにいた人たちは、今日下山したので、この3000mの稜線にあるテント場には、私たちの他に誰もいない、サントリーのレッドも残っている。
今夜はとことん騒ぐ事にした。
植氏の、歯の浮いた祝辞の言葉を上の空で、飲み干す頭上には巨大な満月が照り輝き兎も祝福している。
23日
第二尾根は取付きがクラック尾根と第一尾根を過ぎたところにあり、独特なピークを終了点にしている。
最初の1Pを私がトップをで登ったが、ルートを誤り浮き石にルートを阻まれ、ボルトを打って懸垂下降で退避し、正しいルートを登り直す。
次のピッチを植氏が登り、交互にトップを交代し快適な岩登り楽しんだ。
核心部はすっきりとした壁であり、斜度もきつく快調であった。
二人の雄姿を稜線上からカメラで狙われているのが判ると、つい演技的に登ってしまった。
この時の山行では天候に恵まれ毎日登ることができた。
この他にドーム西壁・第1尾根・P2フランケ・第4尾根等を登った。
登攀三昧のある日、飽きて来たある日の午後、私は北穂の周辺を散策していたとき、植氏は半日で槍ケ岳まで往復しアルペン踊りをしてきた。植氏の体力には脱帽である。
「北穂の南稜の頭」付近の一般ルート
北穂の南稜の頭付近は狭い地域で、登山者ならこんな所で、道を間違えるとは考え付かないだろう。
ところが、本当にやってしまった。
ドームの頭から南稜のテントに帰るために、霧の稜線を進んで行く。
視界は5m程になり、岩の上の印だけを頼りに進むと岩稜は下り始めた。
霧は飛騨側から流れてくるが、ふと左手に霧の隙間ができ谷底を見て驚いた。
我々の左手に涸沢カールが見えた。
霧の晴れ間に、涸沢のカールの底にあるヒュッテが見える。
右手か前方なら南稜だが、我々は奥穂高に向かって誤って歩いているではないか。
狭い岳稜で誤って歩いているのに驚いた。
原因は、ドームの頭から稜線に戻るとき、大きな岩に突き当たった。
左手に進むところを必要以上に、巻いてしまったらしい。
NHK趣味百科「中高年のための登山学(岩崎元郎氏)」の「なぜ迷う、なぜはぐれる。」に、次のような一文がある。
昔の話になるが、風雨のなかを北穂高岳から奥穂高岳へと、僕は一人で歩いていた。
風は西から僕の右のほおをたたいている。岩をよじ登り、トラバースする。
コースは、尾根上から右の滝谷側に出たり、左の涸沢側をまいたりする。
ペイントだけが頼りだ。岩場やガレ場でコースを外れたりすと、浮いている石をけって落石を引き起しやすい。危険なのだ。
涸沢側に入ると風はない。岩をよじ登って再び尾根上に出る。すると左のほおを風が打っているではないか。
僕はどこかでコースを外し、北穂に向かっていることを思い知る。
私と同じ場所で間違えたようである。
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