穂高岳・屏風岩緑ルートの登攀

  1973年8月22日に上高地の上流にある横尾の岩小屋に私と小藤氏は入った。

 22日から何日 天候の回復を待って二人は、じめじめした岩小屋の中で何日寝ていたのか。
 日程的には、すでに屏風岩の緑ルートを登攀し、前穂のW峰とDフェースの連続登攀を終了して奥穂高岳の頂きに立っているはずである。

 屏風岩は、前穂高の北尾根が横尾谷に大きく切れ落ちる大岩壁で、上高地から梓川沿いに3時間余り歩き横尾の小屋まで着たときに始めて見える。横尾小屋の前から涸沢に進むため横尾大橋を渡り30分ほど歩くと岩小屋に着く。
 屏風岩には横尾の岩小屋の前から対岸に渡り急な1ルンゼの押し出しを登り、取り付き点に到達し、標高差700mの大岩壁を攀じることになる。
 壁は1ルンゼから右に東壁、中央壁、北壁、2ルンゼ、右岸壁、カモシカ尾根、3ルンゼと続く幅1500mである。

 毎日続く雨の中、畳3枚程の広さがあるが頭を抑え込まれた様な窮屈な岩小屋の中で過ごしていた。ただ慰めは登山道が目の前であり、時々通る登山者との会話が気分を和らげてくれる。
 横尾の岩小屋は、昔 川底であったところが柔らかい部分が削られ河床が低くなったために出来た自然の岩小屋である。
 岩小屋は、大きな岩の下に出来た隙間が多く、昔から修験者が利用していた、そのため仙人は霞を喰って食って生きるイメージが出来たのかも知れない。明治時代となり一般の登山者が利用するようになったが概して生活状況は悪い。

 雨は降り続いているある日の午後の事である。小藤氏と私はうんざりとしてた。ぼんやり外を眺めていると、なま暖かい風が吹き異様な雰囲気となり背筋に何か感じた。小藤氏と顔を見合わせていると、目の前を一人の登山者が覗き込むようにして行き過ぎて行った。数秒してボッカに背負われたオロクが降りてきた。寝袋に包まれ背負子にくくられている。しかも二人である。小藤氏と無言で眼を合わせお互いやっぱりといった感じであった。オロクの通過前に不思議な感覚が全身走ったと、小藤氏が言った。

 横尾小屋の従業員の話では、オロクは雨の滝谷を登攀して墜落した者らしい。8月も下旬になると稜線では冷雨というか氷雨に近い状態となし、富士山の山頂に初冠雪が降るのはこの頃である。停滞をしていたのが正解だったと感じた。

 風が吹き始め雨が上がりそうになり、NHK第二のラジオから天気図を取ってみると、「明日の早朝から昼までの数時間だけ晴れ間が出る」と判断する。
 登攀の練習に岩小屋のひさしにぶら下がったり岩を登ってみる。

 食料は登攀用の数日分以外は各山小屋で購入する予定であり、現在の状況では登攀用を除いてすでに使い切った状態であり下山を覚悟していた。岩小屋から30分程の横尾小屋まで食料の調達に下る。
 横尾の小屋では、雨のため登山者が立ち往生している。小屋の売店には食料になるようなものは置いてなく困りきった私たちは夕ご飯だけを食べさせて貰おうと従業員に頼み込んだ。
 小屋の従業員は困っていたが、小屋の主人に何とか頼み込んで夕食のみ食べさせてもらう事が出来た。食堂に案内されるや、少ないおかずでおかわりを重ね他の登山者の分まで食べてしまった。二人は満足感にひたりながら帰って行った。

 26日早朝、食事も取らないで岩小屋を出発した。
 岩小屋の前の横尾沢は飛び石づたいに対岸に渡り、入り口は暗い1ルンゼの押し出しを登る。
 沢に入ると落石で埋まった小さな沢沿いに急登し、T4尾根の取り付きに到着する。
 T4尾根はアプローチではあるが、一つの岸壁である。
 スラブを登りハングしたクラックを登ると、凹角に入り岩壁が終了し、ブッシュ帯を登りただひたすらT4を目指した。
 T4尾根はV〜X級位の岩場を走るがごとく、二人とも無言で登っていく。ザイルがなくなると警笛の音で知らせ、ザイルが止まると出発し、彼のいる位置を通過し、突き進んでいく。
 後で思ったが簡単な岩場であった様である。

 T4テラスに到着すると行動食をようやく口にした。
 今日のルートは上級者のパーティのみに許される屏風岩の一番難しいルートである。
 しかも許される時間は5時間もない。昨日の雨雲のほんの束の間の隙間を求めて登っていく。
 雨がいつ降り出すかが重要なポイントである。濡れた岩壁の登攀は冬季の凍った岩壁と同じぐらい危険性は高い。

 屏風岩東壁青白ハング緑ルートは、標高差700mの岩壁の中間から上部にかけて連続したハング帯の最後に数メートル張りだした青白ハングがある。
 谷川岳の衝立岩正面壁に匹敵する大オーバーハングである。緑ルートのポイントは、体力を消耗したときに現れるこのルートの核心部である青白ハングを乗り越すことにある。
 T4から左に草付状のバンドをトラバースし凹角を登ると人工登攀となる。
 交互にトップに立ちザイルを伸ばしていく。
 私が「この赤いピンは効いている」と、言った。小藤がピンを手で動かすと簡単に抜けた。

 20m登りピッチを切ると、確保のザイルは空中3m位に垂れ下がっている。そんなハングしたピッチを登る。
 小さなテラスに立ち、ハーケン陣のテラスでトップを交代する。そんな時、小藤氏がアブミを落とした。するとアブミは200m位もどこにも当たらないで落ちていった。
 その時、我々も落ちたらアブミの様に落ちると震えた。
 最後の大きな張り出しである青白ハングの手前で小藤氏のザイルがザイルが止まり、小藤氏からの確保完了の合図で私もそのハングを乗り越えて行く。
 私はハングを乗り越え、壁の上方に顔を屋根の庇状に成っている所にもって行った瞬間、顔に水滴を受ける。予定した時間どうりに雨が降り始めた。

 天気予報のとおりとなって来た。雨に濡れた青白ハング上部のスラブ帯を、フリークライミングで登って行くのは心理的に嫌らしい。
 ハングを登り切った私は、バランスの良い小藤氏にトップを譲る。私たちは、雨が降っている状況から今後のルートをディレッテシマルートに変更し、小藤氏は攀じていく。
 彼の確実な登攀に導かれつつ、登って行くが、時間だけがどんどん進んで行く。
 樹林帯に入りザイルを解くと直ぐに雨具を被ったが、身体は既にスブ濡れになっていた。

 屏風の頭を超えると、駆け足となり最低コルを過ぎ、水平道を涸沢の小屋に向かった。
 涸沢の小屋に濡れた身体でたどり着いた。
 小屋には私と植田が5月に登った事を覚えていた従業員がいて、祝福してくれた。遅く小屋に着いた我々に暖かい夕食が出された。

 翌日は、涸沢の小屋から横尾の岩小屋前を通過し、上高地から松本の町に下り夜行列車で出雲に帰らなければならない。たった数時間の晴れ間をとらえた登攀で、約1週間の休暇を使い切ってしまった。
 27日の夜 松本駅近くの居酒屋に飲んでいるときに、小藤氏が言い出した。「これから岳沢の畳岩の快適な登攀を登らないか」と、誘ってくる。
 難易度が低くいが、ルートは長く、快適な岩壁登攀には心が揺さぶられる。ザイルの相手は申し分がない。酔っているだけ心が揺れる。

 追記
 30年ほど経ったある年、横尾の岩小屋の前を通りかかった。
 岩小屋は、見る影も無く、入り口も見えなかった。しかし、ザックを降ろして、ストックで草を薙ぎ倒して見ると、何とか入り口を探し出せた。
 小屋の前は土石流防護の高い土手が築かれていたが、対岸や後ろの林付近は私の青春の思い出を何時までも残していてくれていたが、岩小屋から数分の所から横尾大橋に続く美しい林は、強風の為無残にも薙ぎ倒され、自然の力には恐ろしさを感じた。