昔、「出雲風土記」に、「出雲」にいた神様が、あまり自分の国が小さいので諸国の余った土地を国来国来と綱で引き寄せた。
引き綱の杭が火神岳(今の大山)である。」と、伝えている。
「出雲」は須佐之男命や大国主命の神話等があり古い国とされ独自の古代文化の発祥地である。
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冬の別山バットレス |
全国の神がいなくなる「神無月」は出雲では神が集まる神在月と言われている。その神が集まる出雲の地近くに大山は高くそびえたち、秀麗な伯耆大山は伯耆富士として慕われている。
大昔の人々は山そのものを神とした。大山神(大山を神)は、仁明天皇承和4年(837)2月従五位下に叙任されている。
大山を有名にしたのは北壁の下にある「大山寺」である。奈良時代に、諸国の高山が山伏修験道によって開かれた頃に創建された。
開基のについての伝説はいくつかあって、西行法師の「撰集抄」によれば、養老年間(717-724)玉造(松江)の俊方という武士が大山に狩して鹿を射た所、その矢のあたったのは自分の尊崇していた地蔵であった。そこで深く後悔して、発心して堂宇を建てたという。
その後大山北壁の下に沢山の寺院が建てられ、各寺院は僧兵を擁して、武力と権力の一大勢力となった。後醍醐天皇の船上山からの建武の中興の一助等幾多の変遷を経て江戸時代には三千石の寺領を受け、治外法権の天領となり、寺内に四十二坊あったという。
中国地方には目立った山が少ない。
大山は、秀麗と厳しい容貌を持っている。
中国地方は山岳の陵夷運動が発達したのか高い山が無いのみならず顕著な峰も少ない。たいていゆったりとした尾根の連続にある似たような山々である。
個性的な山は大山周辺の山々と島根県の三瓶山の二つの火山だけである。
中国地方には大山の稜線を除くと標高1600mの高さはない。
1600越える峰は大山頂上からの2Kmの数座しかない。
大山は1700m余りの小さな独立峰のため天候は急激に変化する。
この天候の変化のために沢山の登山者の命を奪い西の谷川岳との異名を持つ。荒れ狂う日本海からたった20Kmの地点に北東からの風を受け止めるように2Kmにわたり連なる悪壁の北壁をもつ。
北壁の東に三角の素晴らしいピークを誇る三鈷峰とユートピアを経て天狗ヶ峰、剣ヶ峰、弥山へと連なる。特に天狗から弥山までの東西に長い稜線は、日本刀のように南壁と北壁が絶壁となり狭い痩せ尾根の稜線は登山者の縦走を拒んでいる。
北壁は、東からローソク沢、サポート尾根の上部の墓場尾根、元谷沢・天狗沢・屏風岩・小屏風・烏帽子岩、中の沢、天狗沢、別山沢・別山・弥山沢となる。
各壁・沢とも非常に脆く、特に融雪期には壁からの落石と岩雪崩が北壁を震撼させる。
一番早く落ち着くのが、別山の壁である。6月の山開きには登攀の対象となり、数多くの登山者の登る稜線から離れているために安全な登攀が楽しめる。
しかし、冬期には、別山の壁に取り付くのは、非常に危険な沢からのアプローチとなる。
泡雪崩とチリ雪崩で埋まった沢は、何時大きな雪崩の発生が予測され、長時間の歩行と、極端な心理的圧迫、そして体力の消耗等沢山の困難をもっている。
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八合目付近からの別山のピーク |
12月28日大山下山キャンプ場で伯耆山岳会の安氏氏・阪恵子、そして近畿大学の小川氏とで、「別山右リッジの登攀」と、そのサポート態勢についてミーティングを実施し、登攀の準備を実施する。
29日四時起床、五時静かなテント場を出発する。
急な坂道を登り大山寺の脇をぬける。
大神山神社の奥宮への道は、杉の大きな並木が続き僧兵の栄華を誇っている石垣が残っている。昔の繁栄の跡が新雪の中に埋もれているのも感慨深い。明治維新の廃仏き釈まで、ここも神仏混淆で、大智明権現の本殿であった。
大神山神社の奥宮で手を合わせると、いよいよ登山者だけの世界となった。
06:30元谷小屋についた。
小屋で簡単な朝食兼ねた行動食を取ると、アイゼンの下にワカンを装着し、七時に小屋を出発する。
風雪の中を出発し、沢を交互にラッセルし、交代し途中小さな氷壁状になった堰堤を乗り越えると、大きなデブリに会う。右側のデブリより高い位置をラッセルする。
風雪は一段と激しさを増し、視界は15m以下となる。
壁に近付くと胸までのラッセルとなる。喘ぎながら早くリッジに取りつき雪崩の恐怖から逃れようと二人のラッセルは続く。
ようやく正面右手にブッシュのリッジを見付けると取付リッジの上に立つ。
09:10 安氏の確保のもとに俺がスタートする。
リッジの上はクラストし雪は吹き飛ばされている。ブッシュに捨て縄、カラビナ、ザイルセットし登る。時折現れる岩場を登り、40m進みピッケルを叩き込むと確保の体制をとる。次のピッチを安氏がつとめる。ザイルが気持ち良く出ていく。
確保完了の合図がある。私は、登り彼のセットしたカラビナを回収していく。
斜度が少しづつ増してくる。完全装具で動いていても体温は上がらない。
寒くなるばかりで温度は段々下がっているような気がする。
3P目私がトップで登り始めるとリッジと岩壁が現れる。夏場だと登れないグズグズの部分は完全に凍っている。アイゼンとピッケルで登っていくと、上部にはビレイ・ポイントが無いように感じられて早めにピッチを切る。次の4Pは安氏氏が進む。
岩場を簡単そうに登って数分もしないうちに安氏の姿は風雪の中に消える。
40mのザイルを一杯に登り、ビレイ・ポイントが無いので私に少し登るようにいってくる。
壁にヘバリついた安氏氏の確保がないまま、10m程登り、小さなスタンスに立ってビレイをする。安氏が登りやっと確保の体勢を取ると、私がついに本格的に登る番がくる。安氏はリッジを確実に登っている。
安氏の確保地点に到達すると、5P目は私がトップを受け持つ。
完全に凍った岩稜であり、登攀は快適である。傾斜が強くなって40m登った所がハング帯になっている。
6ピッチ目のこのハングは安氏氏の担当となった。彼は左上にルートをみつけると見事なバランスで乗り越していった。ハングの上はブッシュとなり6Pが終わった。
7P傾斜が緩くなり風雪の中に稜線がうっすらと見る。雪の斜面を30m登ると、壁は消えその先は奈落の底に落ちる。
ここが別山の頂上である。
クラストした斜面を登り切る。ピッケルをバイルで叩き込んで確保しようとするが3OCm程で止まってしまった。痩せ尾根の稜線に跨がり安氏を確保する。安氏が登って来る。13:20握手をする。
このナイフの刃のような稜線に跨り少し進んみ、安定した地点で休むため稜線を進む。右リッジの登攀より痩せ尾根のほうが嫌らしい。
安氏がトップで夏の一番嫌らしい所を歩いて行くが完全に凍っていて難なく通過する。
背の低い疎らなブッシュ帯に入り別山沢寄りにトラバースする地点にでた。
コンテで歩く。
稜線近くを進んで行くと、私の足元の雪が流れ始めあわててピッケルを斜面に差し込む。雪崩の中では効果がないと思った瞬間アイゼンがブッシュに引っかかり10m程で停止した。
安氏の話では、私の声に驚きザイルの輪の中にピッケルを差し込んだが自信はなかった。もう少し流れると稜線の反対側 弥山沢に飛び込むつもりだったと言う。
安氏は一段と厳しくなる寒さと風雪の尾根をリードしてくれた。雪崩地点から100m程前進した地点で、頂上近くからの尾根に取り付く所で遅い昼食を簡単に取る。
ここは北西の風を遮るが急峻な場所である。
休憩地点から、右上に登りきると九合目付近の尾根の上に出ることが出来るはずだ。
休憩地点から十mトラバース気味に前進すると、安氏の確保の元に雪庇にトンネルを掘り進む。
頂上と九合目の頂上台地の中間にでる。
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阪嬢と近大の小川氏(右下 |
顔のない安氏と俺 |
夏の別山(宝珠尾根から) |
クラストした台地を進み頂上小屋に14:45たどり着く。
頂上小屋に飛び込むと、阪嬢女史と小川氏が堅い握手で登攀の成功を祝ってくれた。二人は昼過ぎから常に暖かいお茶を準備していてくれた。
女史らは登攀完了予定時刻を過ぎても現れないため心配していたらしい。
私たち二人は、1時間程休息を取る。
再び風雪の中に出る。
頂上付近の写真を取ると、安氏・阪嬢と俺の順に1600頂上を後に風雪の中を下る。
小川氏(数日頂上小屋に泊まり込む。)に見送られる。
数分もしないうちに頂上付近の視界が戻ってきた。軽快に下っていくと、右手に先ほど登った別山の頂上が見える。
八合目付近まで下ったとき、登ってくる二人のパーティと出合う。
挨拶をすると、突然「オイ、女の子だ。」と驚きの言葉が帰ってきた。小柄な阪嬢は大変御立腹だが安氏と私は大笑いである。
昭和40年代に冬山を登る女性は少なく、彼女はよく間違われた。
草鳴社ケルンに近くになると下界の展望が急に開け始めた。眼下の日本海方向は弓形に砂浜が伸びていた。米子市内から大山にかけての内陸は緑の畑が段々と白くなり大山をとりまいている。
海と陸の美しい眺めを楽しめたのは数分である。ケルンを過ぎると急な下りとなり、「グリセード」と「尻セード」で快適に下る。
6合目の避難小屋からは樹氷のトンネルの中を快適に飛ばす。3人はまるでレーサーのごとく競いあい、失敗しては笑いあって登山道を下っていった。
大山の環状道路まで下ると夏山登山道のすぐそばに僧坊の一つ蓮浄院がある。
志賀直哉氏が滞留し「暗夜行路」を書いたのは有名である。
志賀直哉も季節は違うがこの素晴らしい大山の自然と景観を満喫したのであろう。
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