穂高屏風岩から右岩稜への登攀
北アルプスの南部、穂高の中心地涸沢に至る道を睥睨する大岩壁は、穂高の屏風岩である。 屏風岩は、山麓を行きかうアルピニストを威嚇し嘲笑っている。 私は、今から30数年前ザイルの友植氏と穂高の屏風岩から前穂の四峰の正面壁・前穂東壁の右岩稜と連続登攀で奥穂高の頂上から滝谷を登って北穂高の頂上に立つ予定で出雲の後にした。これはその登攀の思い出である。 観光地「上高地の河童橋」から穂高岳を仰ぎ見る。 奥穂高岳の頂上から東に伸びる稜線が大きな岩峰となりそこから壁状に落ち込んでいる。 奥穂高岳と肩を並べるようにそそり立つ頂が3090mの前穂高岳である。 河童橋から梓川沿いに歩くと、次第に現れるのが前穂高の岩壁群である。 前穂高岳の頂から壁状に1000m落ちているのが、明神や前穂高東面の岩壁である。 河童橋から2時間程歩いた徳沢園から見上げると、前穂高岳の頂きから、アルペン的ムードを漂わせて屏風岩にのびる北尾根、前穂高の頂上から北尾根がゴジラの背のように岩峰を持ち、各岩峯はⅠ峰、Ⅱ峰と呼ばれている。 Ⅰ峰からⅤ峰までの東面に展開する岩峰群を、奥又白の岩場と呼んでいる。 上高地から美しい梓川沿いの道を溯り、徳沢あたりにくると、前穂高岳頂上から一気にそぎ落ちたこれらの岩壁が青い空と白い残雪に映え、美しく仰ぎ見られる。 奥又白の岩場は、大別して前穂高岳東壁と北尾根Ⅳ峰の岩場に区分できる。前穂高岳東壁にはAフェースを筆頭にBフェース、北壁、右岩稜、Dフェースなどがあり、登攀終了後は直接前穂高岳のピークに立てる絶好のルートである。 前穂高岳東壁右岩稜は、Dフェースとともに奥又白の両雄といえる。 奥又白の岩場は明るく、同じ穂高の滝谷や屏風岩とはまったく異質のムードが漂っている。 夏の奥又白への、アプローチは徳沢から奥又白の池に入り根拠地にするのが理想である。 池から前穂高岳東壁へのアプローチは、インゼルからB沢、あるいはC沢経由が適当である。 また、涸沢を根拠地に、北尾根Ⅴ・Ⅵのコル、あるいはⅢ・Ⅳのコルを越えて登攀しても、十分に往復できる。 5月20日 山に出かける。 うっとりと夢うつつに山の準備をして、山に向かう。 私はいったい何のために山に出かけるのか。 5月の連休が終り、登山者で賑っていた山々に静寂が帰ってきた。 植氏と私は、上高地から明神、徳沢そして横尾に向かっている。 大きなザックに岩登りの七つ道具と冬山の装具・テントを担ぎ喘ぎながらに食料を入れて植氏と夕闇が下りて来る道歩く。 登山は、「行」の世界である。美しい言葉で語っても、その苦行は伝わらない。 登山の意義を「言」の世界に求めても無駄である。岩壁で生きることを、いかに話しても文にしてみても分かりえないであろう。 重荷を担ぎ、岩壁で奮え(震え)た者達が分かり合える異質の世界である。 横尾は豪華な夕餉となった。 松本駅前で求めた肉を焼いて食べる。焼肉は岩壁の中では調理できない。 5月21日 本谷を登って行く。 屏風の真っ黒な岩壁は、私たちに大きなプレッシャとして覆い被さって来る。 岩小屋を過ぎると道は雪道になってくる。本谷の丸木橋付近から(雪崩の)デブリの上を歩く。 涸沢カールに着き、雪を踏み締め、小さな二人用の冬用テントを設営する。 テントの中にエアーマットを敷き詰め資材を入れる。登攀に不必要な資材と、登攀後の資材を入れる。 登攀具とアタック資材をザックに入れ、涸沢のテントを後にして雪道を横尾に向かい引っ返した。 横尾の岩小屋の前にある小さな沢を詰めて屏風の下部の偵察に向かった。 屏風の下部は塵雪崩等により岩場の随分上まで残雪があった。キックステップで雪の斜面を登る。 登攀の準備を済ませると、壁を登り始める。3ピッチ程でブッシュ帯に入った。ブッシュ帯の道を登りT4尾根の終了点まで簡単に到達した。 偵察を済ませると、沢を下って岩小屋の周辺で岩登りのトレーニングをしたり、記念の小石の収集をして一日が終わった。 横尾の避難小屋にて早めの夕食と若干の飲酒で眠ることになった。 寝付く前に自然現象解消で、小屋の前に出て、眺めた星空を過ぎる雲があった。 5月22日 朝3時に起床し、簡単な食事を造りすませる。小屋を後にして屏風の登攀に向かった。 小屋の前にはうっすらと新雪があった。この新雪があとで問題になるとは二人とも気付かなかった。 昨日登った沢を詰めて行くと、新雪の量が多くなってきた。屏風の壁に近付くにつれ新雪は膝まで潜るほどになった。 ザイルを結ぶ頃、太陽は常念山脈より顔を出した。 T4尾根の最初のピッチを私がトップで登る。交互にトップを交代し、バッカス・バンドのT4に着く。 左に延びる小さなバンドを数m進むと植氏の姿凹角の中に消えて行った。ザイルの延びが止まると、私が登る。彼がセットしたザイルに導かれ彼の待つ小さな岩棚につく。 今度は私がトップとなる。昨日の寝袋・コンロ等の入って入るザックに苦しめられながら登る。凹角から微妙なバランス登攀でフェースを登りきると、数本のハーケンに私の体を固定し、植氏を確保するためザイルをセットすると彼の登って来るのを待つ。 この数分がたまらなく嬉しい。風景を楽しみ、山小屋に荷揚げをするヘリコプターを足の下に見る。 植氏はそのまま次のピッチのトップに出る。出だしから屋根のひさしのように張り出している。この張り出しを登り切ると四畳半テラスといった広い岩棚につく。彼の身体が少しづつ高度を稼いで行く。と思った瞬間、植氏の身体が変な揺れをし大声を出した。 私は余分に伸びたザイルを回収した。 彼の体が空に舞う、私の上を飛び越して行く。そう思った瞬間余分なザイルを回収し、確保の態勢に入るとショックの伝わって来る瞬間を待つ。しかし何時まで待ってもザイルに彼の体重が伝わってこない。 二~三分いやもっと待っていたのか、そっと顔を上げて周囲を見る。私の数m上空で彼の体が浮かんでいる。 そっと呼んで見ると大丈夫だと言う。静かにザイルを伸ばし彼を私の位置まで下ろそうとするが、体は数mの空中にある。ようやく引き寄せ一緒になることができた。 彼が言うには、「落ちていく瞬間に目の前に自分と私を結んでいるザイルが在ったので無意識に掴んだ。」と言う。 「溺れる者藁でも掴むと」言うが「落ちる者ザイルを掴む」とは聞いた事がない。「岩登りのテクニック」に自己墜落時の確保要領として書いてもらおう。 ぶら下げていたハンマーが岩角にひっかかり、体を延ばそうとした時にバランスを崩したと言う。 アクシデントのピッチは、私がトップで登りなおすことになった。前傾した壁を登り切ると大テラスに登り切った。 四畳半テラスに登ると大休止を取る。 横尾の河原からは、屏風の大岩壁に大きなテラスがあるとは、誰も想像できないであろう。 テラスの上はまだ岩が屋根のひさしのようにかぶっている。今朝の新雪が解けて雨のように落ちてくる。 猿回しのごとくザイルに結ばれながら写真を取り合い、行動食を取り、残り半分の登攀に備える。 四畳半テラスから真っ直ぐ延びるルートの核心部がここから始まる。岩壁の上部でせりだしハングしているいやらしい部分を進む。 屏風岩の上部のピッチは全部私がトップで登っていく。 植氏は、テラス下の墜落で闘志が揺らいだようだ。 テラスから直ぐに空中に張り出したピッチをザイル一杯40m登り切る。スタンスの上でピッチを切ると植氏を向かえる。 次のピッチ15m程だが、一枚岩の感じの微妙なバランスで登る。ハーケンの間隔も広くいやらしいピッチだ。 この場所で装具を落としてしまった。2・300m以上一度も岩壁にふれないで落ちて行った。 自分の身体が落ちて行くのを想像させて気持ちが悪い。 ハングしたピッチを、真っ直ぐにザイル一杯40m登る。 高度を稼いでいくと傾斜も緩くなり岩溝の中に雪がつまっている。傾斜のきつい所は、雪が斜面に残らないで夏場と同じ状態だが、ルンゼ状の部分とかは、いやらしくなっている。慎重に進む。 ブッシュ帯に入り木登り状態になる。後は体力勝負とばかりに強引に行く。ザイルをつけ木登りをしつつ、ラッセルしていくと、時間はどんどん進む。 樹林帯の中に入り、尾根の上に出ると二人を繋いでいたザイルを外し、ほっと一息だが、まだ屏風の頭まで何百mあるのか不明だ。今朝の新雪の中を進む二人だけのラッセルは辛い。 屏風の頭を過ぎると、涸沢のカール小屋の明かりが薄暗くなった中に見えたが、直ぐに霧の中に消えた。涸沢に続く水平道を雪に苦しめられながら悪戦苦闘すること数時間。 ようやくたどり着いた2300mの涸沢は腿まで来るくらいの積雪であり、私たちのテントは姿も形もなかった。時間も十時を過ぎていて明りもない。 ヘッドライトの明り数mが頼りで探し始めるが、広いカールの中のどこを探したらいいのか検討がつかない。 僅かに残る記憶の中で、小屋の石垣の位置から(適当に)検討をつけ、探して行くという、頼りない二人。 僅かな膨らみを見つけると喜んで掘るが、連休のテント場の雪の残骸 テントを破らないように探し回っていく。 微かな膨らみがあった。静かに手で掘っていくと、私達のテントであった。 掘り出したテントの中は、今日の晴天で雪が解け、十数センチの大洪水でありエアーマットが浮かんでいる。 予備の着替・食料等が全て濡れており、23日の行動はできなかった。 5月23日 寒さに震えながら、朝を迎えた。 朝食後濡れた装具をテントの屋根に広げたり、涸沢ヒュッテの石垣の上やテラスの上で乾かした。 小屋の人と仲良くなったあとで、スキーを借りたが、お金はしっかり取られた。 スキーの上手い植氏は、新雪の中を滑っていくが、私は借りないほうが良かったくらいだ。 登山に来てスキーなんて邪道とばかり、装具の乾燥に心を配った。 5月24日 早朝、涸沢カールのテントを出発し、前穂東面の右岩稜の登攀に向かう。 北尾根のⅤ・Ⅵのコルに向かって前進する。 テントから直ぐに膝まで没するラッセルが延々と続く。5月の下旬に大雪に降られるとは思わなかったため、二人とも雪輪を持たずアイゼンしか準備していなかった。 ラッセルは、登攀道具とビバーク用具で膨らんだアタックザック、寝ぼけている身体に相当のアルバイトを要求している。 数十歩進んでは喘ぎ、数分でトップを交代する。 二人が登る雪の斜面には北尾根から数十㎝から1m大に発達したスノー・ボールが何十いや何百、何千もの数で落ちている。これに当たったら二人とも吹っ飛ばされるであろう。 湿っている雪は重たく体力の消耗戦が延々と続けられる。Ⅴ・Ⅵのコルが近づくにつれて傾斜が強くなりジグザグに登る。稜線に遮られた涸沢カール側は暗く冷たい。 Ⅴ・Ⅵのコルに到着すると、朝日が常念山脈越しに奥又白の谷とコルに降り注いで、疲れた身体をほぐしてくれる。 コルからⅤ峰の岩稜登りは、二人に取ってはお遊びの斜面である。雪と岩の稜線を競争するように飛ぶように登り、Ⅴ峰の頂を越えて少し下るとⅣ峰の登りだが、あっという間にⅣ・Ⅲ峰のコルに着いた。 今思い出そうとするがⅤ峰とⅣ峰の岳稜の記憶は岩場状で階段のように続いていたくらいの記憶しかない程の稜線だった。どんな稜線だったのか、まったく記憶がない。 Ⅲ・Ⅳコルから奥又白側に下る。Ⅲ峰の壁際を下り始めると雪の斜面は次第に急になってくる。両手にピッケルとアイスバイル。足にアイゼンで下降する。前向きに下っていたが、後ろ向きとなり、ピッケルを差し込みアイゼンを蹴り込みながら数百m下ってⅢ峰リッジの下端に下りきった。 ここはDフェースからのB沢の下部である。 この沢は数日間に降った雪のため雪崩の危険があるため一人づつ沢を右岩陵の基部に向かって移動する。 二人とも右岩陵の取付点に着いた。 今回登る右岩稜は、稜線の様な名前になっているが、下部は急峻な岩壁となり、上部は段々と傾斜を落とし緩やかな尾根になりAフェースにたどり着き前穂の頂上に直接上がる。 この壁には2本のルートがあり今回登ろうとする古川ルートは1957.8.16古川純一、久保田進の両氏が初登攀したものである。 岩壁の中央にある右上に延びる草付上昇バンドを探す。しかし今は新雪に覆われた冬の壁である。かすかにそれらしき上昇バンドを見つけ、植氏がトップで30m程詰めてみるとテラスにハーケン陣のビレイ点を見つける。 次のピッチを私が登ることになりテラスから左へ少しトラバースし、雪の詰まったクラックからフェースのⅣ級の25mを登りきるとハイ松テラスたどり着く。植氏を引き上げ次のピッチを任せる。 植氏はテラスから上部オーバーハングめがけて左に登り、バンドを右へトラバースしてクラックの手前で彼はピッチを切った。Ⅴ級A1の嫌らしい雪の壁を植氏は難なく登っていた。 私がクラックを直上すると頭が押さえられる感じの部分を通過してピッチを切ると、植氏の出番である。 バンド状になり岩場の部分からハング状部分となり植氏が乗越し、スラブ状態の壁を登りハングの部分から溝の中を2m程登り切って終了した。 壁は全体的に4級からⅤ級のフリーと人工登攀のA1ピッチがあったが難しいとは感じなかった。難なく登ってしまったといった感じがした。 この難しさは、初登の時と違い、ルートははっきりしているし、ハーケンががっちり打ち込まれていたからだ。 岩壁の部分から夏場のガレの部分をコンテで進む予定であった中止した。 アイスバーン状の旧雪の上に積もった新雪が非常に危ない状態で、雪崩が発生しそうである。その斜面を慎重に登っていくことになった。 雪の斜面は非常に歩きにい。新雪の下にある古い雪はアイスバーンとなり、ツルツルである。ザイルを延ばし、ピッケルを支点に確保の態勢を取るためピッケルをハンマーでたたき込むが入らない。不安な状態で植氏を引き上げる。 次のピッチを植氏に任せる。苦労しながら植氏はAフェースの基部まで前進すると、ビレイを取ると私を確保してくれ。Aフェースの基部に着いたとき時計は13時を指していた。 Aフェースは50m程の急な壁でその終了点は前穂高岳頂上である。 私が最初のピッチを登る。岩溝と凹角のピッチを30m程伸ばすと、最終ピッチを植氏が努める。植氏がトップに立つ。しばらくして警笛が長く鳴り響き登頂と登攀の終了を高らかに宣言している。 警笛に促され、彼の確保の元に最終ピッチを楽しむ。確保されている安心感から快適に登る。 1400前穂高の頂上で堅い握手をする。 前穂高の頂上からみる景色は、吊り尾根の向こうに雪の奥穂高岳。北穂高岳の肩ごしに槍ヶ岳の鋭鋒。振り返れば上高地の河童橋と煙噴く焼ヶ岳の荒々しい姿。 抜群の眺めの中に二人の姿がある。周辺の峰々が二人の登攀を祝福している。 コンロを取り出すとシャンペンの変わりにコーヒータイムとする。 頂上で佇んでいると昨日涸沢のカールで会った登山者(泉州山岳会員)が、前穂の北尾根を単独で登ってきて、二人の登攀を祝福してくれた。 登山者の言葉では、前穂の3峰を登っている時に、東壁側から声が聞こえたが、涸沢カールで昨日見かけた登山者の中には、前穂の東壁を登れそうな人は貴方達以外にはいなかった。と話しかけてくれる。 単独の登山者は、しばし頂上にたたずんだあと岳沢に向かって下りていった。 私たちも頂上に長く居るわけにいかない。吊り尾根を下り奥穂に向かって出発する時間がやってきている。 お互いを結んでいたザイルと登攀道具をザックに入れ、稜線を足どり軽く稜線を下り最低暗部から足場の悪い稜線を登り返す。 奥穂の頂上は、日本第2位の高峰(実際はケルンが積んである。ケルンを取ると第3位)を踏んだ。 ジャンダルムの奇怪な姿を眺め夕闇が迫る頂上から奥穂の小屋に下る。 氷の登山道を下る途中で太陽は笠ヶ岳の稜線に降り夕張が二人の周辺を徐々に包む。 奥穂の小屋は明るい光が窓から漏れ、楽しそうな山小屋の雰囲気だ。 二人は涸沢カールのテントをめざして、真っ暗な雪の大斜面を真っ直ぐ下る。 岩登りの夢を語り合う二人。 カンテラの明りが、カールど真ん中を下って行く。 前穂の東壁はそれまでに2回登っている。 杉栄氏と、A・B・Cフェースを登った。 この壁のBフェースは中央に40m以上のハングの凹角を登る5級のルートを登った。 小藤氏とは、Dフェースを登る予定が先行者のもたつき等で変更し、北壁からAフェースにルートを登った。 二つの登攀の時は、アプローチは涸沢を根拠地に、北尾根五・六のコルから奥又白側にお花畑の中を奥又白の池方向に移動し、大きなガレの中を登りインゼルの右の沢C沢を登って取り付いた。 前穂高岳東壁へのインゼル(どこかの言葉で「豆」というそうだ。北洋相互銀行会長大塚武氏談)の右のC沢を詰めた。 見上げるⅣ峰奥壁のは上部が反り返り威圧する。 C沢の上部は傾斜が急で、時折発生する落石は砲弾のように、近づく者に対しおそってくる。 雪渓の上に落ちる砲弾は、音もなく弾着し、ブーンという音ともに身体の近くを通過していく。 ガレ場の場合は、はじける音ぶつかる音で降ってくる石がわかる。 |