2008年9月1日に広島出発、7日帰着で涸沢をベースに北穂高、奥穂高周辺の登山を計画した。
奥穂を盟主とする穂高山群は、日本列島の中央部に連なる飛騨山脈にある。飛騨山脈は東西25k、南北105kにわたり、北アルプスと呼ばれ、南部には槍や奥穂等の3000m級の山々が連なる。穂高周辺の稜線は急峻な岩稜で、飛騨側の斜面は滝谷やジャンダルム、信州側は畳尾根、前穂の東面は岩登りの世界であり、登山のルートは北穂の南稜、ザイテングラードから稜線へ、新穂高温泉から白出沢を、及び岳沢から前穂のルートがあるのみである。
今回ベースにした涸沢は、ぐるりと穂高連峰に囲まれた日本最大規模を誇る圏谷(カール)の底にある。崖錐の斜面やモレーンなどの氷河地形、秋まで残る残雪、斜面に広がるお花畑などアルペンムードが一杯で、女房を口説くに最高の場所である。奥穂は日本第三位の高峰であり北アルプスの盟主である。穂高連峰は「岩と雪の殿堂」と称され異彩を放つ荒々しい岩峰群である。
職場から帰る道が変に混み合っている。信号が2・3つ変わっても動かない。事故でもあったのか。迂回したほうが良いかと考えていると動き始めた。自宅に帰ると、シャワーを浴びて、登山の服装に着替えて飛び出す。予定より一つ早い9:30列車にて移動を開始した。
新幹線は「のぞみ14号(10:06)」の指定席であり、ホームに上がりビールを買うと車内の人となる。グビグビ、ゴクゴクとやると、夜勤の疲れで「グウグウ」と音を立てる。これが後で夫婦喧嘩の元になるとは知らなかった。
名古屋駅で「しなの13号(13:00)」に乗り換えて、またグビグビ、ゴクゴク、グウグウの世界がやってきた。「木曽路は全て山の中」ではないが、山紫水明の美しい自然の中を走り、寝覚の床の近くで浦島伝説の車内放送が流れた。車内販売で釜飯の販売があるが、既に腹は満杯を超えている。残念
松本駅に定刻に着くと、一番端の松本電鉄の乗り場に移動する。信州蕎麦の匂いが愚妻の腹を刺激するので、なだめるのに苦労する。目の前を「スーパーあずさ」が右に左に走りまわる。先程「信州蕎麦」「そば」と騒いでいたのが「鉄チャン」に変身(心)し、携帯電話で写真を取りまくる。電池が持つだろうか、山小屋では充電は出来ないのに。
松本電鉄新島々の駅に到着(16:00)。バスに乗り換える為改札を出たとき、電車を待っている登山者から、異常な臭いがしていた。俺たちも何日かするとあのような臭いになるだろう。恐ろしいことだ。だから山はやめられない。野人に変身できるのももう少しだ。
見慣れた車窓の景色も、釜トンネルを過ぎると、目は左側に釘付けになるが、焼岳の中腹から上は霧の中である。大正池を過ぎ帝国ホテル前で下車する人を見送ると「あの人は従業員」と決め付ける。宿泊者とは認めたくない貧乏人の俺がいた。
17:05に上高地のバスターミナルに到着する。ターミナルの切符売り場の隣にある松本電鉄上高地営業所にてアルピコ山岳クラブの山岳保険に加入する。これは1000円の会費で有効期間7日間の国内旅行保険が自動的に付くものである。会費を納め行動計画を記入するだけで、保障期間6泊7日間保険金額が、死亡後遺障害保険金262万円、入院保険金日額3500円それに救援者費用保険金300万円の優れものである。入会から自宅までの間の7日間も保障される。しかし、高山病、過呼吸、疲労、細菌性食中毒、ウイルス性食中毒は該当しないようです。
保険に入って気が楽になった。雨が降り始めたので、ザックカバーに傘で今晩のお宿「西糸屋」に向かい元気よく歩き出す。西糸屋は上高地のお宿として歴史もあり有名である。十数年前にも泊まっている。梓川の右岸を下流に向かい120m程で玄関に到着する。
9月2日 5:30起床。窓から眺めると奥穂や前穂は霧の中で、時折旧岳沢ヒュッテの辺りが見え隠れする。朝食が終わり、お店の窓越しに梓川の見える雰囲気のよいテーブルでコーヒーを楽しむ。
8:10に、西糸屋を後にして河童橋に向かう。奥穂から前穂の稜線が見えるまで天気が回復している。いつものように河童橋で写真を撮る。河童橋付近から見た穂高連峰、梓川の流れと穂高連峰の素晴らしい眺め、そして振り返る焼岳は中腹を雲が流れ、何時見ても素晴らしい河童橋からの景色を眺めてから8:20スタートする。
梓川は神通川を経て富山湾に流れていたが、焼岳の誕生で現在の長野県側に流れるように、また大正4年の噴火で大正池を誕生させ上高地の自然成形に深く関わったそうだ。
清水川の美しい流れを見ながら、自然の中に入っていく自分を感じる。キャンプ場の中に大型動物の罠になるドラム缶状の物体を見る。キャンプ場に現れる動物は、熊か猪であろうか。
シーズン中は観光客が多い明神までの道だが、今日は静かな道を明神岳の岩峰を観ながら美しい樹林を進む。8:57明神分岐に到着。美味しそうな信州りんごが俺を待っていたが、予定時間を少し遅れているため遠慮した。靴の状態やトイレを済ませると9:12徳沢に向かい出発する。
明神から奥は観光客より登山者の数が多くなる。明神から直ぐにある白沢の橋を渡り徳本峠分岐を過ぎると、奥上高地の探勝路を進む。道幅は車が走れるほどもあり、土の道は足に優しく、黙々と歩くには、最高であり歩が進み気が付くと徳沢ロッジの看板が現れた。もう着いたのか。時計を見ると明神から40分しか経っていない。
9:59に氷壁の宿徳沢園(井上靖の小説「氷壁」には「徳沢小屋」として登場)に着いた。愛妻は靴と足の相性が悪く手入れに余念がない、そんな愛妻をほっといて名物のアイスを美味しく頂く。徳沢は昔牛馬の放牧地であり、広い平坦地は雰囲気がある。島々から徳本峠を越えて春に入り、秋に下って行った。
10:25徳沢を後にする。5分くらいの所にある三叉路を右に進み、新村橋の吊橋を左に見ながら横尾を目指す。新村橋は涸沢へのパノラマコース。奥又白の谷、前穂東面の岩登りの基地になっていた奥又白池への分岐である。井上靖の小説「氷壁」のモデルとなった「ナイロンザイル事件」の慰霊碑(ダビの場所)がある。
むかし、むかし横尾には氷河があった。
槍や穂高は溶結凝灰岩(火山灰が高温で溶けて圧縮され固まって出来た岩石で非常に硬い)で構成されている。176万年前の火山活動で噴出した火山灰がカルデラにたまり、圧縮され岩盤になった。100万年前にユーラシア大陸とフイリッピンプレートが衝突し、槍や穂高が隆起し、70万年前から始まった隆起や侵食で、現在露出している岩石が地表に表れた。6万年前の最終氷河期には横尾付近まで氷河が延びていた。2万年前に出来たのが涸沢カールや槍の天狗原にカールである。上高地のウエストンのレリーフの岩盤は花崗閃緑岩で140万年前に地下4kの深度に出来た岩が表れている。
赤沢山の赤い壁を遠くに眺めながら進むと、横尾尾根の末端の丸い山を見つけると、横尾の分岐が近づいたことを感じながら進むと、登山者が15名程休んでいる横尾に11:20着いた。道標の前の椅子にザックをおろし、西糸屋の美味しい弁当を広げて食べる。懐かしい横尾の営林署非難小屋(11月上旬~4月中旬まで使用可、山小屋の閉まっている期間)を見学する。昔UEと雪の屏風岩を登ったときこの小屋で2泊した思い出がある。隣の綺麗なトイレは有料であり、お金を入れる人、いれない人もいる。
槍と涸沢に行く分岐になる。
昔の横尾の橋は、今と幅は変わらないが、手すりの無い橋で黒く塗られ、川までの高さもそんなに無かった。今の橋はとても立派な横尾大橋である。
12時前に橋の前で写真を撮ると上高地への谷に入る。急に道幅も狭くなり登山道らしくなった。道は風倒木の中を進み、屏風の一の沢の押し出しの前の旧岩小屋に12:20到着し見学するが、土石流から登山道を保護する為に盛り上げられた土砂で半分以上埋まっているが、昔の面影はある。しかし、縦に割れた岩を見ると何かしら悲しさがある。FJとこの岩小屋から屏風の青白ハングの緑ルートを登ったのは35年前のことである。
樹林帯のなかの道を歩きながら、横尾尾根のガリー(浸食された沢)を数えながら前進する。本谷橋までの目印はガリーと沢の水の音。屏風の正面そして右岩壁を眺めながら水平道をあるいていく。水の音が遠くなり、そして近くなると本谷橋に近くなってきた。先行者が橋を渡り終わると、13:30俺たちも続いて渡る。
渡りきった左岸は休憩を取るのに十分な広さがあり、15分程休憩をしながら足のストレッチをして、今日最大の登りに備える。休憩中に雨が降りそうな感じがしてため、ザックカバーを取り付ける。ゴアの雨具は準備だけした。谷の水は飲めそうで飲めない。毒の水である。
河童橋から横尾までが標高差110m、横尾と本谷橋が160m、そしてここから涸沢ヒュッテまでの標高差は530mと登って行く。年齢、疲れた足では、遅々とした歩みとなり、休憩間隔が近くなった。
歩き始めて十数分したとき雨が降ってきた。ゴアの上だけ着けて歩いていたが、次第に強く降り始めた。でもそんなに強くならないだろうと考えているうちに次第に濡れてきた。古い登山者は濡れる事を躊躇しないから、手当てが遅れる。そうして全身びしょ濡れになっていった。
遠くに見えるモレーン(氷河丘)の上に旗が閃いている。「あれが涸沢ヒュッテだ」というと、がっかりした声が聞こえる。「あんな遠くに」(バテタ証拠だ)俺は元気(?)に「まだ階段状の石畳が随分とある」涸沢小屋への分岐の道標からでも結構あるのだ。
小屋の分岐が過ぎ左に沢を見ながら「全部ナナカマドだから一度に色づくと美しいだろうな」と、声が聞こえてくる。おれは「沢の左上の大きな岩の横が涸沢ヒュッテだ、ヒュッテは突然目の前に突然現れる」。会話が噛み合わない。妻は美しい涸沢が見たいのに。
パノラマコース分岐の、大きな石の横の急な石段を二度三度曲がり登ると、15:30ヒュッテの玄関前に飛び出た。宿泊の届出の前に雨具を取り、ザックカバーを外し、トイレを済ませ、宿泊名簿に連泊で昼食を申し込むと、受付嬢が行動予定を見ながら「北穂、涸沢、穂高の各山荘で昼食が食べられます。弁当は重たいですよ」と、顔色を見ながら親切に言ってくれた。北穂への急な登りを重たい弁当を持たずに歩けたからだ。
ヒュッテのテレビでは、松本や長野県などの天気予報を終始流していたが、これがまことに悪い情報である。雨又雨、そして雨である。やめたく成って来たが広島を出る時に、既に覚悟をしていた事で、だめなら涸沢でゆっくりしよう。奥穂高だけでも登れればいいとあきらめの心境である。
展望テラスに出てみると、涸沢小屋や北穂沢のゴルジェが見える。缶ビール片手にカメラを持ちテント場をあるく。昼寝岩(トカゲ岩)を見学すると、岩小屋の入り口が石で覆われ立ち入る事が出来なくなっている。数年前は治山用の8番線が収めてあった。大島亮吉氏の「涸沢の岩小屋のある夜のこと」が思い出され、近代登山の先駆けとなった人たちの歴史がなくなっていく。さびしい限りだ。
夕食の準備が出来たとのお知らせをよそに、展望テラスでグビグビとやっていると、愛妻が夕食の時も「付けるのでしょ」と言うから、素直にうなずいて食堂に入る。豪華な夕餉だ。ヒュッテの食事は本当に美味しかった。毎年バージョンアップする山小屋の食事。ということは、昔は悪かったのかって、そうではない「美味しくなかった」だけ。山小屋では、ビールだって昔は土間にあるものが出されていた。今は冷蔵庫から出てくる。
寝床に移動すると、これがまた二人で8人部屋を使用していいとのこと。豪華な宿になった。部屋の真ん中で寝ればよいが、隅っこに仲良く寝た。妻は時々置きだしては、窓の外に星を探すが何処にも無かったようだ。
9月3日 4:00頃から小屋の中に動きが出た。俺たちも置きだしてみたが、窓の外は雨、雨が降ってる。そこでもう一度寝たが、愛妻の「雨が上がっている」で起こされた。展望テラスに出てみると、奥穂高や涸沢岳、北穂の峰の上の雲が美しく染まり始めた。モルゲンロートに輝き始めた。金色に輝く峰々を写した。荘厳な朝の景観に満足し、5:35に食堂に移動した。
6:50北穂高の山頂に向かって出発した。本日の天気は15時ごろには雨が降り始めると予想した。二人は元気よくキャンプ場の中を進み、涸沢小屋のヘリポートの横を登っていく。トリカブトが美しく怪しく微笑み、その他高山植物の群落、美しいお花畑の中を登っていく。
前穂の北尾根のⅥ峰にある狸岩が大きく見える。狸岩は男、それとも雌と話題になる。そういえば「でかい物」があったのかな。どうだったのか覚えていない。
穂高山荘に荷揚げのヘリが見える、今日の天気が約束されている。快適な登山が約束されている。
岩クズの道を登り一枚岩の40mのクサリ場に着いた。妻は快適に登っていく。南稜の尾根を登っていくにつれて休憩が多くなり、喘ぎつつ登っていく。懐かしい南稜のテント場にたどり着き、奥穂や涸沢岳を望みやっと長い登りの終了間近なことがわかった。
涸沢岳や奥穂への北穂分岐に10:10到着。北穂沢上部のガレ場を登り、松濤岩のコルの直ぐ下を登ると北穂の頂に着く。
頂上はヘリポートとして使用されるため平坦で、頂上の標識が建っているが、霧で写真を撮るような状況でないと思っていたら、妻は携帯で撮っていた。後で思ったが妻にとっては初めての北穂であり撮ってやるべきだった。直ぐに北穂の小屋に10:30下りる。小屋は富士山を除けば日本最高所の山小屋である。
「小屋のテラスから、ズバッと切れ落ちている大キレットから垂直の南岳、続く稜線の中岳、大喰岳と続きその先に槍ケ岳の鋭い峰を突上げている、3000mの大感動である。」そんな素晴らしい景色を期待して登ってきたが、小屋の周りは霧に包まれ、大キレット越えの槍が見えない。ここから見える大絶景を求めて苦しい登りに耐えて来たのに。キレットに流れる霧の上に南岳、中岳、大喰岳、そして槍ヶ岳を期待してきたが、霧が包むテラスだった。
愚妻が北穂の売店で登頂記念をあさり始めた。売店のあるところ「愚妻」あり。息子への記念品を探している。
昼食に北穂名物「ラーメン」を食べていると、二代目北穂小屋主小山氏が通りかかった。ミーハーの二人は会えたことが嬉しかった。まるで芸能人に出会ったようでした。
北穂小屋の東稜に自動で廻っているカメラを発見した。従業員によるとNHKのテレビカメラで遠隔操作で画像を送っているそうだ。カメラを見ていると中年の男女が登ってきたので、お話をさせてもらうと東稜の難所はバイパスしながら登ったそうである。靴は普通の運動靴に近いものであった。
愛妻が滝谷を覗きに行った。「滝谷の霧が上がりだした」と、いうので覗きに行くと、男女が付いてきたので、三人に滝谷の壁を説明し、キレットの終了点の岩がクラック尾根の終了点だと教える。二人連れは南稜を下山中に追い越していくときに、嬉しそうに「先ほど教えてもらった所にクライマーが上がってきました。」と言った。
滝谷は近代登山の黎明期に活躍した上條嘉門次(明神池の畔に明治13年に小屋を建てた)が、明治42年鵜殿正雄を案内し大キレットの初縦走の際に「鳥も通わぬ滝谷」と表現した。
12:00下山にかかろうとした時、空からいらない物が落ちてきた。ゴアの雨具の上を着けて出発し、松濤岩で再度滝谷を覗き込み南稜を下る。雨脚は次第に強くなり、ズボンを履くチャンスを失った。滑りやすい鉄の梯子を過ぎ、最大の難所である長いクサリ場を下り始めたが、岩の上を水が滝の様に流れている。足場手がかりを指示しながら下る。山に入る前に、岩を少し練習しておいたほうがよかったと反省をした。
美しいお花畑は苦しい下りだった。全身ずぶ濡れで涸沢ヒュッテに15時帰ると、乾燥室に今日の全ての物を持ち込んで干したが、乾きは翌朝まで待たなければならなかった。
16:10に展望テラスに出ると、おでんセットをお願いする。おでん6個と生ビールである。山小屋でいただく贅沢な一時であった。雨に打たれたナナカマドの赤い実を撮りながらキャンプ場を歩く。
9月4日 05:15に起床したが今日も雨の朝ダー。写真にならない程悪い天気だが、数枚写して食堂に。他の登山者が行動開始した後のヒュッテでゆっくり準備して、7:50にヒュッテを出発する(小屋の中は掃除が始まっていた)。県警の救助隊の建物の横からパノラマコースに入る。少しずつ天気が回復し、前穂や奥穂の稜線が見え始めた。
お花畑の道だが写真を撮る余裕はない。ゆっくりだが高度を上げていく。パノラマコースは手入れがされている石畳の歩きやすい道である。残雪の横の道を歩き涸沢カールのど真ん中を登っていく。涸沢小屋からの分岐を過ぎると、獅子岩の下にある大きな岩陰で休憩しようと目指していく。この岩を休憩岩と命名した。
ザイテングラードの上に出ると、ここは数少ない休憩地点。年老いた二人にとってオアシスかユートピアである。尾根左側の小豆沢に回りこみ岩尾根に取り付く。徐々に高度を稼ぐと前方を遮る様に壁がある。
その壁の下で登山者が20名位休憩している。コースはその上にあり、落石が出たらあぶない所で休憩している。登って来た私たちに「笑顔が無いわよ」と冷やかす人がいるが、落石が出そうなこんな所で休憩させるリーダーはとんでもない奴だ。
俺はこれまで石を落としたことは少ない。注意喚起のつもりで「落石が出たらごめんなさいよー」と言ったが、動こうともしない。休憩地点の真上で10m位の高さがあり痛いだけでは済まないだろう。休憩している所から20m程の地点に落石の当たらない腰を落とせる広さがある。
「ホタカ小ヤ20分」との印がある地点で最後の休憩(10:49~11:00)をした。ところが此処から小屋まで苦しい登りだった。空中を黒いパイプが渡っているのが見え出し傾斜が落ち着いて、やっとコルに近づいた。苦しい登りから解放される。表示は20分だが、俺たちは30分かかり登りきった。
11:30やっと穂高山荘にたどり着いた。宿泊の申し込みを済ませると、2階の白馬の間に荷物を卸した。
奥穂への登山に必要な水とゴアの雨具や弁当を持ち1階に降りた。土間で涸沢ヒュッテのお弁当と、小屋に頼んだ温かい蕎麦で昼食を摂った。
12:25小屋の前から直ぐに奥穂への登りが始まった。数段登ったとき、体調不良の妻から登りたくないとの意思表示がなされた。どうも急な階段やクサリ場に自信を無くしたようだ。天候も安定した今日を逃して登頂は再び訪れないだろう。
今後穂高まで来る事は無いだろうし、かといって無理をさせる事が出来ないし、思案していると、登ってみようかと決心したようだ。出来るだけ補助しながら登る為、他の登山者に配慮してもらうようにして前進を開始した。梯子は短いし2段だけである。クサリ場を通過した所の、下に粗いネットが張ってある部分を通過すると、ルートの傾斜は落ちて、普通の登山路となってきた。
ピッケルの形をした道標には、小屋まで800m、頂上まで200mとあり、ここを通過して徐々に高度を上げていくと、回り込んで尾根(間違い尾根)に上がり、その先にあるケルンを越すと目の前に道標と頂上の祠と方位盤が現われた。
妻を先頭に13:30銅盤の部分に上がり、日本第3位の高さを登った事を確認し写真に収めた。
前穂の方向に進んで安定した広場で周囲の写真を撮っていると、ジャンダルムの頭が霧の中に見える。時折前穂の頭も見える。「上高地が見える」と妻が教えてくれる。目を凝らしてみると、大正池と赤い帝国ホテルの赤い屋根、河童橋の辺りまで見えたが直ぐに霧に閉ざされた。
奥穂の頂には、男2人女6・7人のパーティと単独の男性、そして私ら夫婦の10数名の静かな(?)一時であった。女三人寄れば「姦(かしま)しい」が女7人では「やかましい」のであります。こんな五月蠅い連中を連れて山が登れるなんて、忍耐と苦痛の楽しい山登り。昔の山は静かに歩き、鈴の音もラジオの音もしなかった。最近は如何なものか。
そして、14:00頂上を去ろうとした時、天から涙が降ってきた。それも極わずかであった。すかさずゴアの上と下をザックの取り出しやすいところに準備して下り始める。ピッケルのケルンを過ぎた所で雨具を着るほど強くなった。ズボンを履き、上着は小ザックの上にして着込むと、鎖場に。
クサリの部分は、次の固定部分まで一人が利用するよう指示を出して進む。あくまで岩の部分を利用し、補助的に掴むように。昨日より安定し移動してくる。次は梯子の部分になってくる。梯子は縦の部分でなく横の部分を握るようそして、出来るだけ土踏まずの部分で下るようと教え込んだ為、案外と楽に下ってくる。鉄の部分だから良く滑る。
15時小屋の前の広場まで下ったが、雨はやみそうにない。入口でゴアの上を脱ぎ中に入ると、一段と賑やかな声が聞こえる。先ほどの頂上の集団と、そして外国から来た一団である。前にも外国の人と一緒になったことがあった。自己主張がはげしいのと、会話全体がガンガンキンキン。
さて、夕食が終わるころ、小屋の外の雨がやみ、夕日が期待できた。白出沢が見える位置にテレビカメラがスタンバイしていた。レポーターが「山の天気は変わりやすいと言いますが」と何回も同じことをしゃべっている。150m位の視界から数kの視界そして50m程の視界と目まぐるしい。「それではスタジオに返します。」それを眺めつつ、笠に沈む夕日を待っている。妻から「小屋のご主人今田さんにあった」と、教えてくれた。
眠る時間がやってきた。「アンタ、イビキがすごいヨ、皆さん寝れないから、起きていなさい。口を開けて寝なさい」と、わめく女が隣にいる。「また、イビキをかいている、いい加減にしなさい。寝なくていいから」と小突かれる。疲れた身体は睡魔と闘うことが出来ない。時計を覗き込むが、まだ0時になっていない。まだ1時だ。こんな調子で時間は進まない。
9月5日 4時過ぎから人の動きが出てきたが、俺の身体は動くことも出来ないくらいにダメージが残っている。5時になってようやく起きだした。カメラを持って小屋の外に出るが日の出は雲が厚くて写せない。飛騨側に移動し、奥穂の方向にカメラを向けると、数名の登山者が登っている。
食事を済ませると、部屋の荷物を片付け、乾燥室の靴等を取り組んで土間にザックを置き、06:05水とカメラを持って涸沢岳に向かい小屋を出る。途中で昨夜同室になった人とすれ違ったとき、「先ほど槍が見えましたよ。また霧が 」と話をしてくれた。「良かったですね」と、言葉を返しながら、愛妻に見せる事が出来るだろうか。北穂でも奥穂でも見せることが出来なかった。
06:35涸沢岳の頂に着いたが、何処から見ても絵になる槍は雲の中、飛騨側の笠ヶ岳は綺麗に見える。奥穂も西穂も綺麗に見える。残念、一番写したい槍が見えないのは残念、仕方がないと諦め掛けた時、突然霧が晴れてきた。
北穂が見え徐々に槍が見え始めた。槍をバックに愛妻の写真を撮る。場所を変え奥穂をバックに撮る。俺がモデルになり妻が撮ってくれる。これが涸沢岳の最後の写真になるかもしれない。いつも、これが最後の頂、これが最後の奥穂の写真と思いつつ登っている。広島から来るには遠すぎる。だから山頂でも長く居たい。写真も沢山撮って置きたいと思いながら登っている。
7時が過ぎいよいよ下山の時が来た今日中に涸沢から上高地を経て松本まで下る予定である。
穂高山荘の荷物を回収し、ザイテングラードを07:33下り始めた。下りは足に来るが呼吸は楽だし快調だ。妻は岩場も難なくこなし付いてくる。20分の表示箇所を過ぎ、岩場をトラバースする所も越えて、ザイテン尾根の下の広場に降り立ったが、直ぐに下ろうということで、獅子岩の下の休憩岩まで行って休む事にする。
休憩岩から少し下った地点のパノラマコースとの分岐で涸沢小屋の前に出る道を下山することにした。歩きにくいコースの為、なんでこんな道にしたのか愚痴が聞こえて来た。左足の爪が痛くて、歩き易いパノラマコースが良かったと言われたが、あと少しで小屋になる。
小屋の前は工事中で下に上に横に歩いていると、「ここが正規の道か」と聞いて来たが、ここしか歩くところが無い。テラスでザックを降ろしたとたんに、「休憩しないで、直ぐにヒュッテに移動しよう」と、山の神のお告げがあった。もう一度ザックを担ぎ上げ9:59涸沢ヒュッテに到着した。
ヒュッテの展望テラスで休憩すると、妻がアイスを買ってきた。冷たく甘くこれは極上の究極の食べ物だ。「涸沢のアイスは三ツ星ヤー」。そして「涸沢名水」蛇口をひねると冷たくて美味しい水が無料で飲める。本当に「名水ヤー」
トイレを使い、顔を洗い、最後の写真を撮ろうとしていたとき、ヒュッテで顔見知りになった人が通りかかり、「写真を撮りましょうか、構図を決めさせて下さい。私の好きなアングルがあるんです」5歩も行かないところで、写してくれた。「紅葉の涸沢素敵ですヨ」優しい声にうなずくオジサンだった。10:23ヒュッテを後にする。
自宅に帰って見てみると、とてもいい構図で綺麗に撮れていた。
本谷橋までの道は結構長く感じられた。登りも大変だったが、疲れた足・痛めた足には下りは大変だ。随分長く歩いたようだ(疲れた)、やっと南岳の稜線が見え、キレットの下りが見え初めて、本谷橋の右岸に11:55着いた。登山者が十数名休んでいた。金曜日だから登山者が増え始めたのだろう。
12:03左岸に移って1のガリー、2のガリーと数えて、6のガリーを過ぎると、旧岩小屋の前に12:45出た。屏風の壁も見納めかなと思うと寂しい限りである。13:04横尾の橋を渡り、いよいよ上高地の一角に下りてきた。
横尾の小屋には、お坊様の御一行が三十人位集まっている。食堂で昼飯にラーメンを予約すると、中では食べられそうにないようで、外で食べることにした。お坊さん御一行は、「播隆上人」の登頂記念日に槍に登りに来ていた。(槍ヶ岳山荘では毎年9月第一土曜日に「播隆祭」が行われている)
13:40横尾を出て只ひたすらに徳沢を目指していく。14:30徳沢着、水の補給とトイレを済ませ14:45に出発し明神を目指し下っていく。徳本峠分岐15:27、15:33明神着15:40発。
河童橋に16:20到着したが、奥穂や前穂の稜線は霧で見ることが出来なかった。バスターミナルに16:26到着。バスの乗車券と17:25発の整理券を受け取ると、土産物を買いあさり、バスに乗る準備をする。19:17松本駅に到着し西口(アルプス口)の近くにあるホテルモンタニューにザックを卸した。重たいザックは宅急便で自宅に配送を依頼した。入浴を済ませると、夜の街に繰り出し、「馬刺の店」にて登山反省会をやった。
9月6日 朝、松本駅から「しなの」で中津川駅に移動し、馬籠の宿を見学。恵盛庵で美味しい御蕎麦を頂く。18時に自宅に帰りついた。 |