俺は婚約の報告と結婚したら、北海道に転属する希望を所属長に申し出た.
そして結婚式の日付が決まり、転勤の件を新任の所属長に報告等をし、希望駐屯地を帯広駐屯地に出来ないか要望を出した。その頃の自衛隊は北方重視で部隊の大小はあるが、北海道の部隊に数名の転属者を指名(命令)していた。
北海道の部隊に希望して転属する者は殆どいないので、所属長は内心喜んでいたと思う。
冬山に登っていたので、若干の寒さに対する知識は持っていたが、愚妻には辛い思いをさせた。
スキーや登山をしていたことと、出雲が積雪地であり、スキー訓練部隊であるのであり、大山桝水原スキー場で初めてのスキー訓練を受けた。
スキーの魅力に取りつかれ、大山の中の原スキー場下の豪円山キャンプ場に夏山用のテントを張ってスキーの練習をした。
高校生の時から登山を趣味として登り始め、自衛隊に入り出雲に配置された。出雲市の某スポーツ店にて登山道具を購入したが、登山に関する用具の説明等は受けられないでいたとき、市役所に勤めておられた郷田さんから持田さんを紹介された。
こうして持田さんと話しているとき、出雲山岳会の黒さんを紹介されて出雲山岳会に入会した。
持田スポーツ店は昭和45年ごろだと思うが、出雲市駅近くの今市町末広町で持田スポーツ店を開店され、そして、出雲市体育館の近くにお店を移転された。持田さんはスキーの準指導員検定に合格されていて、出雲山岳会で活躍されていて、郷田さんの山仲間だった。持田さんご夫妻には大変お世話になった。
出雲山岳会の会長さんは勝部さんで一度お会いしてが、当時の山岳会のリーダーは黒さんで入会すると、黒さんや角さんの指導を受け、岩登り、冬季登山を始めた。
そして大山での山仲間が増えると、土日になるとゲレンデでの訓練の無い日は大山の元谷小屋に入る日々が増え、こうして大山の元谷小屋を拠点に北壁を眺める日々が続き、厳冬期に大山に入る際、スキーと登攀具、宿泊資材を担ぎ上げ元谷小屋に入った。
厳冬期に登攀をする仲間がいない時は、元谷小屋の近くで新雪の中でスキーをしたり、小屋から治山林道を下り、中の原スキー場などで滑り、夕方元谷小屋に帰る。標高差200m、距離約2000mを疲れた身体で新雪を一人でラッセルして帰る。疲れた体でアルペンスキーで小屋に帰るのは辛い。そして厳冬期の小屋に一人で寝る。
一人で我流の練習。だが、そんな私を助けたのが、1975年頃手に入れたオーストリアスキーのスキー教程にベーレンテクニックと呼ばれる「こぶ」を利用した教程だった。小さなこぶを利用した屈身抜重技術を理解したが、これは民間スキーヤーと同じスキー板でだった。
それと日本スキー協会が出していた「スキー教程」があり、それを分解して覚えていったので、随分と時間がかかったと思う。オーストリア教程との違いを見て、その中でコブを利用して滑る技術を平坦な地形でもパラレルを習得した。
7年間の北海道勤務(第5師団)中、6年間司令部勤務をした。司令部勤務者でも冬季は、毎日走るスキーの訓練を実施することが求められた。
昼食が終わると、休憩中にスキーにワックスを塗って、屋外に出す。このワックス調整は非常に大事である。外気温と雪の温度でワックスが違う。ワックスを間違えると、走れなくなる。
スキーで雪面を抑え(蹴って)スキーを前に滑らせる。この時、雪面を抑えて蹴るときのワックスを間違えると、雪面を押さえて蹴ることができないので前に進むことが出来ない。
この時のワックスは、滑り止め(グリップ)のワックスを塗ることになる。大体スキーの中央部に薄く塗り(走る距離とも関係するが)。
先端部と後方はスキーが滑るように違うワックスを塗る。
ワックスは雪の温度が重要で、低温用、中温、暖かい雪用等で、10種類以上のワックスを自分用に購入していた。
ワックスを塗り、コルクで均等に伸ばし、外気温にさらす。その後現地で雪の上に置いて、ワックスに着く雪を見て調整する。
慣れてくると一発で決まるが、慣れるまではノートに記入し、研鑽していく。しかし、熟練者になってもワックスノートは常に記載していて、グループの者以外には簡単には教えない。
私が塗っていると、未経験者は聞いてくる。
「今日は何がいいですか…」
「グリーンを塗ったよ…」と教えても、厚塗りか薄塗とでは効き方が違う。
コルクで均一に伸ばす事を怠ると、利きが違ってくる。また、グリーンを下に塗って上にブルーを塗ってと組み合わせる。何キロ走るかでも違う。
最初のワックスが効いてきても、後半でガタガタになってしまう。酷いときは滑走面に雪が付着し団子状の雪がつき、下駄を履いている状態になったら走ることが出来ない。
最低でも6q(検定の距離)は走る。私は当時12〜18qは走っていた。時間にして6q20分くらい。18q走るときは、1時間10分位であった。
スキーが終わり、事務所(部隊)に帰ると直ぐにワックスを除去する。その当時の自衛隊スキーは板のスキーで、古いワックスは除去しないといけない。使用後の整備である。
斜面での技術は、帯広駐屯地の北側に斜面80〜100m。標高差10数mのゲレンデがあった。ロープトウという、太い綱(綱引きロープより少し細いロープ)に捕まると、スキー場の上に運んでくれる。
ここで1時間ほど基本訓練を一人で実施して職場に帰る。
平日の課業が終わると、毎朝出勤時に私有車にスキー一式(私物のスキーや市販されていた官品型スキー)を積んで、25km走ると、嵐山スキー場に着いた。
2時間ほど滑る。スキーは毎日滑らないと感覚が鈍る。1週間滑らないと小1時間は感覚が戻らないので、殆ど毎日滑りに来ていた。車は乗り合わせで行くので楽しい冬だった。
民間スキーの技術は、佐藤敏ちゃんという素晴らしいスキーヤーがいて、性格も優しい人で俺はこの人と滑れることに喜びを感じ、一年間お世話になった。夏のテニス、冬のスキー、春・秋のバーベキュー会等。俺の知人が(転勤の為)少ないから、面倒を見てくれたのかな。
佐藤敏ちゃんについて回る俺がいた。まるで金魚の糞の様に。
数名で富良野等で滑るとき、彼が「○○リフトまで・・・」等と仲間に言うと、俺はいの一番に滑り下る。
そして敏ちゃんが来るのを待つ。彼は俺の滑りの欠点を一つだけ指導してくれる。次に滑るときには、指導されたことを注意して滑る。そしてまた俺は皆より早く滑り、敏ちゃんの滑りを見る。
ある時仲間から「あんたの滑りは敏ちゃんに良く似ている」と言われたときは嬉しかった。
真っ先に滑るのは、皆が滑り下り集合した時に遅れては迷惑するのと、先に滑り敏ちゃんに見てほしかった。一点だけ指導するのは、人間多数指摘されてもできるものではない。次はその一言を大事にして滑っていく。そして、また「一点」だけ指導して貰う。
そして紺野君とも滑りまくった。彼と富良野プリンスに宿泊してスキーを楽しんだ。ニセコにも行った。紺野君はサホロスキー場のサウス・ウェイの斜面を豪快にパラレル・クリスチャニアでぶっ飛ばして滑っていた。紺ちゃんが滑ると皆が見惚れていた。大柄な彼がコブの急斜面のぶっ飛ばす。
今のスキー場みたいに斜面は整地されていない。1m近いコブの斜面をダイナミックに飛んでくる。
サウス・ウェイに向かって右斜面の樹林帯の中に新雪の斜面があり、仲間と滑った
佐藤敏ちゃんが「帯広駐屯地スキークラブ」の役員を長年務めた関係で、後任に俺と紺野君を推薦した。役職は庶務係でクラブの各行事の計画・実行であり、金銭関係は会計係がいて、会計状況を聞いていただけだったか、結構裕福であった。
クラブの会長は特科部隊の橋本さんで、挨拶に行ったが「よろしく」と言われたが、以後お会いすることがなかった。そんなこんなで庶務係を紺野君と二人でやった。
スキーシーズンの前に、クラブの総会がありそのあとで、スキー映画をしたり、抽選会をやりスキーの回数券、スキー用品等を景品とした。
スキーの回数券は、クラブ員が各スキー場のスキー教室の先生で、スキー場からの贈り物(宣伝の為に・・・)、スキー用品はスポーツ店が提供してくれたもので、PRのためであろう。
スキークラブの会員は120名位いて、年会費2000円で、活動費が25万円。厚生科から大会などを計画すると補助金が出て、トロフィー等の賞品を買うことができた。
スキー教室を計画し、クラブ員は無料。クラブ員外は500円位の講習費を取った。また、自衛隊員の家族に対するスキー講習会を開催すると、どこかしら補助金が出た。
講習会の先生(クラブ員)は全員指導員の資格を有していて、その先生に支払う金は、全てスキークラブの収入にした。
先生には交通費程度の微々たるお礼はしていたが・・・。
毎年冬季に5回位、帯広から富良野などのスキー場へのツアーを計画した。
紺野君と俺が参加できる日を組むから、全て参加していたが、クラブ員は2000円安で募るものだから、クラブ員外から苦情が出たが、クラブから補助費を出していることを説明すると、クラブへの入会者が増えていった。
クラブで行ったスキー場は、富良野、十勝岳望岳台スキー場、ニセコ比羅夫等に出かけた。
初雪が来ると、日勝峠のトンネルを出た日高側の斜面を滑った。また、5月の連休が終わるとクラブ員で標高1445mの頂から1000m位まで全員で豪快に滑り下り降りると、競技会を実施し、清水町の清水公園でジンギスカン大会をやった。
部隊スキー指導員を受験したくて、嵐山スキー場で自衛隊スキーを練習した。クラブのスキー講習会にも自衛隊スキーを持参し、指導員(自衛官)に指導を受けた。指導員は俺の目的を知ると、丁寧に教えてくれたが、受験に失敗した。
新雪がくると、糠平温泉にある旅館で、クラブの忘年会をやった。会場は、元自衛官が養子に入った旅館でやった。旅館の主人はデモ選に出たことがあると聞いていたが・・・?。
その旅館で、所属部隊の年度の忘年会があった翌日、全日本スキー連盟(会長伴素彦)のスキー検定(2級)に参加するために、嵐山スキー場に向かった。依田主任検定員から認定された。
また、大樹町白銀台スキー場で行われた全日本スキー連盟のスキー検定(1級)を受験したが見事に落ちた。
十勝岳望岳台スキー場で敏ちゃんが滑降の大会に出場するので同行したことがあった。大会の成績は覚えていないが、敏ちゃんの大会が終了すると、仲間と望岳台スキー場から白金温泉までの直線の林間コースを滑って下ったのは楽しい思い出で、ほぼ直線をガンガン飛ばして下る最高のコースでした。
彼はサホロの大会で海部俊宏(かいわとしひろ)と滑ったことがある。
自衛隊のスキーの思い出は色々とあるが、少しずつ記載していきます
何時になるか、体力と根性とタイピングによりますが・・・。
大山北壁と中の原(左)、豪円山(手前)スキー場 (5月)
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