大塚武氏の略歴等登山行動等
大塚会長の遭難について
支部長の身に−−
「ヒマラヤ病」
あとがき
大塚武氏の略歴等
静岡県出身、昭和16年3月東京商大(現一橋大学)卒、日本銀行に入行し37年1月から1年10ヶ月新潟支店長、39年7月から約3年間札幌支店長、請われて45年11月北洋相互銀行専務取締役社長に就任した。
46年11月から北洋相互銀行社長。労使紛争の沈静化、経営の建て直しを実施。
56年北洋相互銀行会長、道経営者協会会長、道雇用促進協会会長、道経済連常任理事や北海道心臓協会の理事等を務めた。
東京商大時代は山岳部キャプテンとして活躍し滝谷4尾根厳冬期初登した。
日本山岳会北海道支部長となり、道内の岳人にとっては「オヤジさん」と呼ばれ、囲碁(関西棋院6段、日本棋院5段)、油絵を趣味とした。
登山行動等
昭和58年8月
大塚支部長と北大山の会会長の朝比奈英三さん(北大名誉教授)ら10名は8月6日から8日にかけて神威岳(1601m)登山したが、支部長は急な尾根道で仲間から遅れ始め、非常に疲れている状態になり、頂上まであと2時間という標高1200mぐらいの地点で支部長は疲労を訴え登頂を断念し『一人で引き返す』と下山した。
その時「今年に入って少し太り気味で、スポーツ心臓と呼ばれ心臓がちょっと肥大してた。医師から心臓が悪いから注意をするように言われているんだ」と話していた。
支部長はこれまでの登山で体調を崩して山に登れなかったのは長い山歴の中でこの時が始めてであり、日記に『神威岳に登れなくて残念。次は体調を十分に整えて是非登りたい』と書いた。また、「神威岳を下から見た油絵を描いたが、今度は頂上から描いてみたい」と友人たちに話していた。
前回の登山での反省から医師の健康診断や尾根道で水場が乏しいことから水筒を2つ用意するなど装具の見直しと、友人達に迷惑を掛けられないと8月20日に単独行を計画したが天候不順で断念した。
8月26日
大塚さんは銀行内で医師の検診を受け、登山には影響はないと結論を出した。
8月27日
朝、自宅から佐藤さんの運転する車で浦河町経由で無人の山小屋に正午入る。
大塚さんは、佐藤さんに、山中で1泊し28日17:00までには山小屋に戻ると言い残し一人で神威岳頂上を目指し登山を開始した。
支部長は、浦河営林署に入林届けを提出したが、北海道警察(道警)には登山届けを出さなかった。
8月28日
夜、佐藤さんは支部長を待っていたが、下山してこなかった。
佐藤さんは車で20km程走り浦河町野深で「大塚会長下山せず。」と北洋相互銀行に電話を入れた。
銀行は家族に通報すると同時に銀行首脳陣に連絡を入れた。深夜でもありまだ自力下山の可能性もあるとし29日の早朝までは、様子を見ることで一致した。
札幌管区気象台によると神威岳周辺では28日朝から低気圧が通過し断続的に雨が降り続いていた。
8月29日
早朝になり銀行は佐藤さんからの下山の連絡がないことから事態を重く見た。
北洋相互銀行は会長の懇意であった北大山岳部に捜索・救助を依頼した。
北大山岳部は捜索活動を開始するため神威岳登山口の山小屋に急行し、夜間の捜索活動を開始した。
8月30日
午後に北大山岳部は尾根の裾で支部長の空のテント発見し、テントの中は整然とし27日に宿泊した形跡があると銀行に連絡した。
連絡を受けた銀行は直ちに道警に現在までの状況を説明し、遭難届と捜索依頼を提出、会長の早期発見をお願いした。
連絡や報道をから支部長の遭難を知った道内の山岳関係者は自主的に捜索活動のため神威岳山麓目指して集まり始めた。
北洋相互銀行は北洋ビル4階秘書室に対策本部を設置した。
長男ご子息(学習院大学理学部助手)は夜現地に駆けつけた。
捜索中の隊員は登山路で比較的新しいミカンの皮を見つけた。
8月31日
05:00から捜索活動はスタートした。
登山口に当たる浦河営林署仮小屋に前進基地を置いた。
北大OB、道警、日高地方山岳遭難防止対策協議会(浦河、静内の山岳会員ら26名)、日本山岳会道支部関係者ら約42名は6グループに分かれて頂上周辺を重点に捜索に当たった。
支部長が滑落した場合と沢に迷い込んだ可能性が強いことから、通常のルートからそれた沢や危険箇所の捜索に力を注ぐとともに遺留品の発見に努めた。
神威岳周辺では雨模様のうえ気温は15度、風はないものの視界は悪く、午後になってやや回復の兆しを見せたが頂上付近は厚い雲に覆われ不安定な状況が続いた。
捜索隊は拡声器やザイルを使って入りくんだ沢の分岐点を捜索したが難航し捜索隊に焦りの色が出てきた。
前進基地の山小屋に静内町の山岳会員らがアマチュア無線本部を設置、捜索に入った6パーティーとの連絡に当たった。このアマチュア無線は途中に中継基地を設け、北洋相銀浦河支店の捜索本部との連絡にあたった。
09:00ごろ支部長のテント発見個所から約2キロ登った最後の水場付近で山小屋と頂上の中間の高度約750mの地点で新しいアルミ製の水筒(1.2リットル)が発見された。
水筒の中には番茶がほとんど飲まれないまま残っていた。先(上)には水場がないだけに、関係者はなぜ水筒がこの場所に残されていたのか、理由をはかりかね、消息を知る手がかりにならず捜索本部では「置き忘れたのではないのか」と見た。
また、テントに残っていたザックの中身を点検した結果、支部長はノリ巻き1折り、あめ玉、オレンジ、乾パン4袋などの軽食を持参していたことがわかった。
09:50過ぎに道警のヘリが空から捜索するも視界不良で断念した。しかし、午後から再度同岳へ向かい雲のかかっていない八合目付近まで飛行し捜索するとともに、スピーカーで呼びかけた。
10:30頃「セイコー製の腕時計を発見した」との知らせが入り「鎖のバンドが切れていたが、時計は動いている」一瞬、同本部に捜索の糸口がと、期待が膨らんだがまもなく数日前に登山者が落としたものであると判明した。
無線で本部に飛び込んできたのは杖の発見であった。標高1400mの夏道付近で北大隊は流木を利用した杖を発見したが木の枝を削っただけの杖では、とても大塚支部長のものだとはいえなかった。また、前日に続きミカンの皮が発見された。
「小雨が降り続き濡れている大塚さんの体力が心配今日中に捜索しなければ」と捜索隊は16:30から新たに北大山岳部員や浦河遭対協関係者で神威岳頂上一帯から北西の中の岳への稜線、南のソエマツ沢、登山ルートの夏道などを扇状に3パーティーで捜索を続けた。
浦河支店の捜索本部には朝から次々と会長や他の登山者の遺留品の発見が無線機から流れるが、関係者らには会長の行方を探る決めての情報がなく次第に焦りの色が深まった。
札幌の北洋相銀本店は31日朝、前日午後に4階の秘書室に設た対策本部を同じ階の会議室に移した。同本部には斉藤博常務や道支部のメンバーら関係者数人がこもり、時折、3階に設けた報道関係者控え室に石川経営管理室長ら関係者が状況説明に現れたが朗報はなく悪天候で捜索が思うように任せないという説明ばかりであった。現地から要請のあった「沢の捜索用のわらじ」や「クマよけ鈴や爆竹」等の手配に追われていた。
北大山の会会長の朝比奈さんが対策本部を訪れ、登山仲間の安否を気遣い、「道に迷ったり、滑落したりするとは考えられれないが、心臓の変調で足を滑らしたということも考えられる」と不安な表情であった。
捜索隊は3パーティーに分かれて31日の夜は頂上などにビバークした。捜索を開始して3日目になり疲労の著しい北大山岳部パーティーが登山口に下り、北大OB10人が新に札幌を出発した。
9月1日
支部長が消息を立ってから4日目の朝を迎えた。手掛かりのないまま捜索範囲を広げざるをえないにつれ、不吉な予感が周囲を包んでいった。滑落やルートの誤りで身動きできなくなっている可能性が強い一方で、支部長の遺留品を前にして、支部長の身に一体何が起こったのかと、関係者がまず最初に考えることである。
前進基地で捜索活動を指導する道山岳連盟の中山忠政理事は『日高の夏山での遭難といえば、滑落か滝壺への転落が第一に考えられる。しかし神威岳の今回のルートではどちらのケースも極めて考えにくい』と指摘した。
捜索関係者は『ルートを外れたことが遭難のきっかけではないか』という見方が強まった。
頂上に登ったあと山頂からの帰路に何らかの要因で別方向の中ノ岳やソエマツ岳に至る稜線等に入り込んだ可能性が高く、捜索の重点もこちらに移されてきた。
@ 稜線から滑落し、負傷して動けなくなった。
A 誤った沢を下った末、行く手を険しい函などにはばまれ、疲労のため戻るに戻れなくなった。
B 急病やクマとの遭遇などのトラブル−−。
支部長の遭難は、こうした状況が考えられた。
神威岳に詳しい浦河山岳会の秋山会長は、『中ノ岳への稜線が鞍状に低くなった付近から尾根または沢を下ったのではないだろうか。地形的にも下山ルートと誤りやすく、入り込んだら相当な体力がなければ元の稜線には戻れない』と第二の可能性を強調した。
一方、遭難者の登山計画や途中の遺留品が、捜索の手掛かりとなるのが通例だが、今回は逆の作用を見せている。とりわけ頂上直下の尾根に取り付く地点で見つかった水筒は、関係者の首をかしげさせた。『標高差900mもの往復を前にして水筒を忘れたりするとは常識的に考えられない』というのだ。
捜索は1日早朝から引き続き山岳関係者ら合計55人で行われ、この日も朝から小雨とガスがかかる天候で、この悪天は1日を含めて4日間も続いている。このため沢の水も増水しており、捜索は難しい状態となっている。神威岳頂上付近には新しい熊の糞などが見つかった。
頂上付近に泊まっていた日高遭対協、道支部の捜索隊員らは神威岳東方のソエマツ沢周辺や西方の中ノ岳への稜線など、また北大隊は下の方から同岳に入り組んだ沢を一つ一つ上部に向かって捜索を続けて、また道警の捜索員もそれに加わった。
05:15営林署の小屋を出発したご子息さんと従兄弟の会社員伊藤さんは北大山岳部員ら3人に付き添われながら支部長の登ったルートをたどった。07:00遺留品のテントなどが見つかった標高530mの通称第1二俣に到着、このあとガレ場になっている幅5〜10mの沢を太股まで水に浸かりながら上へと向かったが手がかりは得られなかった。
9月2日
捜索は、頂上でキャンプを張っていた日本山岳会道支部、北大山岳関係、道警山岳救助隊の他に新たに札幌山岳連盟のパーティー13人、地元の猟友会のメンバー30名が加わり、これまでで最も多い人員で夜明けから行われた。
捜索の重点は、比較的高度な登山技術を要する沢や峰に置かれた。このうち裏道から迷い込んだ可能性のある山頂北西部の沢に札幌山岳連盟パーティーが入り捜索した。
道警のヘリ『ぎんれい号』は、拡声器による呼びかけや物資の補給に当たったが、ガスの濃くなってきた昼過ぎ、捜索を打ち切った。
結局2日も遺留品など支部長発見の手掛かりはなんら得られなかった。
今日の捜索では、山頂南側のソエマツ沢に沿った林道で、パトロール中の猟友会のメンバーが数頭の親子グマを目撃するなど緊張した一幕をあったが、捜索には支障はなかった。
9月3日
千歳市にある陸上自衛隊7師団は連日の報道等から救援要請があった場合を予測し、山岳行動に優れた能力を持つレンジャー要員の人選や装具等の準備は整っていた。しかし、自衛隊は県知事等から要請が行われるまでは行動を開始できないため駐屯地で待機していた。
午後になり対策本部から関係機関をとおして第7師団に対し救援出動依頼が出され、数名から成る現地連絡・調整要員を直ちに派遣した。ついで本隊のレンジャー隊員及びヘリの行動を支援する航空要員ら200人が3日浦河署に向かい前進した。
その頃、地質調査をしながら捜索活動に協力していた北大理学部大学院の三吉さんと広島大学の2人は、午後神威同岳から西北西に下る夏道登山道からはるかに離れた同岳北側の険しい北側斜面の中ノ川源頭部(880m地点で岩のテラスのある地点)でオレンジ色のサブザックなどを発見し、山頂の捜索隊に連絡した。
三吉さんの発見したザックは空であったが、直ぐ横に22枚撮影済みのフイルムが入ったカメラ(キャノン)、飯ごうの中ぶたと外ぶた、軽登山靴、軍手、銀紙に包まれた食べかけのチョコレートが並べられた状態であった。
カメラの製造番号をご子息さんに確認したところ、支部長が今年1月ネパールのトレッキングに訪れた際、ご子息さんからプレゼントされたものと一致し、ザック周辺の登山用具が大塚支部長のものと断定した。
道警は発見されたカメラのフイルムを現像し、支部長の行動を分析して遭難の原因を調べる。と発表した。
地元の山岳関係者によると、日高山系の山は北に向かって登頂ルートが走っているが、神威岳は同山系の中で唯一、山頂直前の登山道が南に向いており、下山の方向を勘違いして十勝側のコースを降りてしまう登山者が多く、霧がかかると地元の人でも間違いやすいという。
また、発見現場に比較的新しいミカンの皮が残っていたため対策本部は支部長が神威岳からの下山道を北の中ノ岳方向に間違え、途中からさらに北斜面の中ノ川源頭部に迷い込み、この地点でザックの中身を出し、ザックの中に下半身を入れ、岩のテラスの下に入ってビバークしたとみた。
9月4日
入山中の北大山岳部、山の会、日本山岳会北海道支部と昨日浦河まで前進していた陸上自衛隊第7師団や、朝から現地入りする一橋大山岳部員の合計300人の大捜索隊で捜索を早朝から開始した。
支部長が神威岳で遭難の知らせが伝わったとき、道内の山岳関係者はわれ先にと自主的に捜索に参加した。北大山岳部、北大OB山の会、日本山岳会道支部、札幌・道山岳連盟、日高遭対協、小樽商大、一橋大山岳部−−。いずれも中国ミニヤコンカ峰、ネパール・ダウラギリT峰遠征などの際、同会長にお世話になった人たちや地元猟友会だった。
道岳連の川越さんは「大塚さんが見つかるまでは山を下りない」と山頂にテントを張り、道警に水などを補給してもらいながら必死の捜索を続けた。北大山岳部、OB山の会のメンバーは全身びしょ濡れで連日12時間以上行動していた。
陸上自衛隊はまず70人が入山しヘリ7機を動員した。
捜索に加わった札幌山岳連盟と北大山岳部の合同パーティー6人が、山頂からザイルを使って十勝側の中ノ川上流から中・下流へと捜索し、小樽商大パーティは逆に下流から上流へと向かった。
15:23札幌山岳連盟と北大山岳部は、ザックや靴などの所持品が発見されたビバーク地点から直ぐ下の河原で大塚さんの遺体を発見した。
遺体を最初に発見した札幌山岳連盟パーティーの大藤さんによると、大塚さんが倒れていたのは、大塚さんの計画ルートとは反対側の中ノ川上流の直登沢。山頂から約1.3km離れた標高870m地点で、高さ約4mの滝の滝つぼに近い左岸から上体を流れにのめり込み沢水を飲むような格好で、うつぶせに倒れていた。白と黒の縞模様に長袖サマーセーターと登山用ニッカズボンに運動靴姿だった。左腕には腕時計『キングクォーツ』が巻かれ『30日15:25』をさし「針が普通よりゆっくり動いていた」
「支部長発見」の無線が神威岳山頂から山小屋に飛び込んだ。
緊張した声は『場所はザック発見の下。生死はただいま確認中』現場は山小屋の反対に位置しているため山頂を経由して無線が入る。『残念ながら−−残念ながら−−です。わかりますね』無線の声は言葉を選んだ。この瞬間、男達からため息ともつかぬ吐息がもれた。『やっぱりだめだったか』『信じられない』大塚さんが入山して8日目の午後だった。
捜索に参加していた道内の山岳関係者は遺体発見にガックリと肩を落とした。「あれほど慎重で登山経験豊富な人だったのに」「大切な人を失った」と無念さを隠しきれなかった。
無線は断続的に入ってくる。発見者や中継の者は興奮しているため落ち着くように呼びかけた。山小屋にいる者は断片的情報をもとに、地図で確認するが現場が見えない。
重い空気が流れる中、仮設電話が鳴る。電話にしがみつき険しい顔つきで話す銀行の幹部。さらに詳しい状況をと詰め寄る下山中の捜索隊。
発見現場の地形は岩場の40度以上の急傾斜が続いて険しく、捜索隊は応援のパーティーを現場に向かわせる一方、道警山岳遭難救助隊の4人をヘリコプターからソエマツ岳側の尾根に降下させて発見現場に急行させた。
一方、北洋相互銀行本店4階に設けられた対策本部は、3日の所持品発見で会長の発見の可能性が強まってため、朝から銀行や山岳関係者が訪れ、あわただしい動きを見せていた。
同行浦河支店にある現地対策本部から『大塚武会長遺体で発見』の報が入ったのは4日午後3時半。
4時過ぎから本店3階で石川経営管理室長が『前日ザックなどを発見した中ノ川の直ぐ下流で遺体が発見されました。残念です』と発表したが、本店では引き続き現地と連絡を取るが、詳しい情報はほとんど入らない状態で、『現地本部からの連絡は「発見されました。残念ですが」というだけで、大塚支部長の死が確認されたわけではありません』と発表する一幕もあった。
同銀行の武井社長は18:30の道警本部での記者会見の前に会長の妻いま子さんのもとに報告に伺った。いま子さんは『ご迷惑をおかけしました』とガックリ肩を落とし涙を見せていたという。
記者会見で社長は、『残念ながらという連絡だけで、現地の情報はまったくつかめない状況です。』と発表し、『結局、会長がこういうことになり、皆様に心配と迷惑をかけ申し訳ありません。山岳会関係者、自衛隊、道警、地元の皆さんに迷惑をかけたことは大変申し訳ないと思っています。これほど捜索してくれる集団があったことに感謝の気持ちでいっぱいです。大塚会長は山を愛していた。これも一つの運命かとおもう。大塚会長は私からすれば兄貴のような人生の師のような人だった。非常に残念です。』と力なく語った。
北大山の会の朝比奈名誉教授は、「大塚支部長は一橋大山岳部時代北アルプスの穂高の滝谷第4尾根を始めて真冬に登った人で学生時代は一流の先鋭クライマーだった。今回は非常食でがんばっていると思っていたのだが」。
ご子息さんは「オヤジが体調を崩し山に登れなかったのは長い山歴の中でこの時が始めて。日記には『神威岳に登れなくて残念。次は体調を十分に整えて是非登りたい』と書いていました。今度こそは、と登ったんでしょうね」唇をかんだ。
道警は、「大塚支部長は頂上に達して後、下山途中、夏道を北西の中ノ岳の方に道を間違え、そこからさらに東側の中ノ川源頭部に迷い込み、ビバークしたが雨に濡れ疲労のため動けなくなった」。また、発見された時、「大塚支部長の左腕の腕時計が30日15:25をさし示し針が普通よりゆっくり動いていた」件は、動きがスローになっていたのは、水につかったり、低温状態に置かれたためと見られる。
発見現場の地形から遺体を十勝側に下ろすのが困難なため、同山岳連盟などのパーティーは4日近くの沢でシュラフに包み安置した遺体とともに現場でビバークした。山に入っていた仲間達も発見場所に集まり、『遺体をどうする』『ヘリコプターは』『俺たちが運ぶ』−さまざまな声が飛びあった。
山小屋の男達は5日の遺体引き揚げ準備と山小屋の後始末に追われ最後の夜を迎えた。
9月5日
山の仲間と一夜を過ごした大塚支部長の遺体は、山を降ることになった。
日本山岳会北海道支部、北大山岳部、札幌山岳連盟などに第7師団、道警山岳救助隊が加わり総勢80名が午前4時半から行動開始した。
神威岳周辺は薄曇りながら視界良好。時折日差しがのぞく天候。標高1050m地点の野営地点から遺体の安置されている中ノ川源頭部(880m地点)へ下り午前9時半道警本部員が簡単な検視後、遺体は青いシュラフに収容され白樺の木などで作った簡易担架が付けられザイル固定された。
札幌、小樽、美唄、遠くは東京から来た山の仲間33人と自衛隊、道警山岳救助隊の合わせて65人の手によってヘリコプターの着陸できる山頂まで7時間以上もかかって運ばれ、午後零時15分に山頂に到着。
丘珠から飛来した道警のヘリコプター『ぎんれい号』が12:25山頂に着陸し収容され、13:35浦河町の潮見ヶ丘球場に到着した。
潮見ヶ丘球場に到着した大塚さんの遺体は青いシュラフにくるまったまま、白樺の木の急造担架にザイルで固定され警察官に抱えられ浦河署の車両で警察署に搬送された。激しい山の状況を示すようにシュラフは所々破れ、担架には木の葉がついていた。
道警の検視の結果は、転落死でなく疲労による病死と発表した。「大塚さんは、顔(右目やあごにすり傷)や左腕が折れている模様であり、両手や両足にさっか症があるだけで、致命的な外傷はなく斜面を滑落したと見ている。『心臓関係が原因の病死』悪条件下で心臓に負担がかかって疲労死したものと判断した。死後推定5〜7日間で捜索が始まった29日夜から31日までの間に死亡したとみられる」
午後4時半すぎ、ご子息さんは桜庭北洋相互銀行専務に付き添われ、遺体発見後、初めて記者会見をし、心境を語った。冒頭、専務が『多くの方に迷惑をかけ、申し訳ありません。また、多くの山の仲間の協力があり、ありがとうございました』と言うと、ご子息さんも一緒に低く頭を下げた。
ご子息さんは比較的冷静に、はっきりとした口調で『山の人たちがよくやってくれました。ありがたく思います。ちょっと考えられないくらいの捜索でした。本人も幸せでした。これまでに父は心臓が悪いという症状は聞いていなかったが、疲れ果てたのだろう。』と話した。
大塚さんの棺は、ご子息さんと長女に付き添われ21:15自宅に到着した。
アイヌの伝説で『生還し難い山』神の山−神威岳(カムイヌプリ)その美しさに魅せられた大塚支部長は入山以来9日ぶりで悲しい帰宅をした。
22:00から行われた通夜には武井社長、朝比奈北大山の会会長や同行、山岳関係者が訪れ、祭壇に静かに手を合わせた。
9月6日
密葬は12:00から中央区南4西27の龍興寺。喪主のご子息さんで執り行われた。
道内は勿論日本各地から銀行、経済界を始め大学の先輩や後輩や山岳関係者も多数駆けつけた。山岳関係者は山の頂や尾根そして山小屋での支部長の元気な姿を思い起こしながら涙するばかりであった。
大塚会長の遭難について各氏は次のように語った。
(役職等は当時です)
森鼻武芳道銀頭取
「非常にビックリしました。食料も10日間は大丈夫と聞いていましたのに−−。大塚さんが日銀札幌支店長(昭和39年から42年)時代に、私が道銀専務として入ってから公私ともに、ゴルフや碁友達としてお付き合いしてきました。大塚さんは日本経済に造けいが深く一家言を持っていただけに、本道のために残念でなりません。北洋相互銀行に入られてからも、二つの労働組合があったのをよくまとめ、業績を伸ばされましたし、これからも本道の開発を進めるうえで企業誘致などまだまだやってほしかった。大塚さんと最後に会ったのは、8月半ばに武井社長ともどもゴルフを一緒に楽しんだ時で、ワンラウンド回ったあとも元気そうで『全然疲れないよ』といっていました。」
水出久雄道相互銀行会長
「大塚さんはなかなか慎重で登山のベテランなのにまだ信じきれません。19年前に札幌支店長として札幌に来てからの知己ですが、非常にまじめで学究派の人でしたね。何でも勉強する人で、銀行業務でも、日銀時代に外国為替に関する著書を書かれたほどです。登山、絵画、碁は五段の腕前、ゴルフも上手と何をしても相当なところに行くんですよ。46年に北洋相互銀行の社長に就任してから、揺れた労使関係をよくひとつにまとめ得たことは大変な出来事として記憶に残っています。」
朝比奈英三・北大山の会会長(北大名誉教授)
『最も寂しくて悲しいニュースだ。今はそれ以上何も言いたくない』とぼう然とし言葉を失った。『もうこれ以上聞かないで』と家に閉じこもった。
山川力(つとむ)日本山岳会道副支部長(道武蔵女子短大教授)
『どう言ったらいいのか。とにかく悲しい気持ちです。』と肩を落とす。大塚さんが道支部長になった時から、お互い助け合ってきた仲だけに、言い尽くせぬ悲しみのようだった。大塚さんが優れた山男であることを熟知している山川さん。『今回、大塚さんが単独行したというのは、私らには理解できない。天候状態も体の状態も良くなかったというアクシデントが重なったのかもしれない。あるいはクマに出くわして一刻も早く遠ざかりたかったのかもしれない。何かメモでも残っていれば。彼がなぜこうなったのか分かるだろうが、それがない限り永久にナゾでしょう』と、改めて無念さがこみ上げてくるのをこらえていた。
北大名誉教授(前北大経済学部長)千葉商科大教授の早川泰正
東京商科大学(現一橋大学)の同期会の早川さんは、大塚さんの若い時代の思い出を語ってくれたが、話の最後には涙がこみ上げてくるばかりで、言葉にならず学友を失った深い悲しみに沈んだ。大塚さんは昭和16年3月現一橋大学を卒業、一方早川教授は本来翌17年卒業の予定だったが、太平洋戦争ぼっ発で卒業が一年繰り上げられた「同期」の間柄で、卒業後も大塚さんが日銀札幌支店勤務中、家族ぐるみで旧交を温め合っていた。
『大塚さんは一年先輩で、大変な秀才だったが秀才ぶらない人で、学生時代から山岳部のキャプテンをつとめ、よく日本アルプスへ出かけていました。また、山の写真をアルバムしたり、油絵をかき、碁も上手と趣味が広く、勉強ばかりでないところに偉さがあった。大学時代、私と大塚さんが経済学の懸賞論文に応募、二人とも入選したのですが、大塚さんの「貨幣経済の安定性と不安定性」という論文に当時、経済学の教授も読んでいなかったノーベル賞学者ミルダールの考え方を書いて評判になったんです。私もミルダールの本を読み、その後、卒論のテーマにしたものでした。大塚さんは札幌支店時代、よくうちに遊びにきていた。北大山岳部の人とも何回か日高、大雪山系に行っていた。本道のために惜しい人を失った−−。』
支部長の身に−−
日高山系・神威岳で4日、遺体となって発見された大塚武日本山岳会北海道支部長の行動は『登山歴50年の慎重なクライマー』と呼ばれているだけに謎めいている。遺体が見つかった沢は、山頂から北東の十勝側に延びている。計画ルートの日高側から入る夏道ルートとは、全く反対方向だ。地理的に山頂からの下り口を誤りやすいとされるが『尾根を下る夏道と深い沢に入り込む十勝側ルートは、明らかに地形が異なり、下り口も勘違いしてもすぐに誤りに気づくはずだ』と地元山岳会員はいう。
『山頂で時間的余裕ができても思い付きで足を伸ばすような人ではない。』と8月6〜8日の神威岳登山で同行した北大山岳部OBの小林さんはいう。
標高差にして約800mも沢を下った同会長の行動を理解しかねる関係者も多い。このため『予定のルートと異なることを認識しての行動ではないか』という見方も一方で出ている。それも慎重派という前提に立ち『下山途中クマに追われたか、クマを避けるためやむを得ず入り込んだ。』という説だ。
しかし、十勝側直登沢は渓流が断がいで囲まれた函と、大規模なものでは高さ40mにもおよぶ滝が連なる難所で『まるで十勝側に下山するかのような行動は、ちょっと理解しにくい』との声も聞かれる。
神威岳で遭難した大塚さんが山に残したカメラには、山を愛し、山に逝った同会長の最後の姿が収められていた。写真は頂上で「残照を背に静かに微笑んでいた」
このカメラは3日午後、同岳山頂から約1.3キロ北側の中ノ川源頭部でオレンジ色のサブザック、ゴルフシューズ、飯ごうの外ぶたとともに見つかった。これが重要な手がかりとなって翌4日午後、直ぐ近くで支部長の遺体が見つかった。カメラにはカラーフイルムが収められ20コマが綺麗に写っていた。その20コマ目が頂上東側にカメラを置き、セルフタイマーで自分を撮ったものだった。頂上での大塚さんはブルーのゴルフ帽に白の雨具、グレーのニッカズボンをはいて片膝をつき、静かにほほえんでいた。頂上周辺の写真が十数枚に及ぶことから、よほど登り切ったことがうれしかったに違いない。これだけ写真を撮れたということは、まだこの時点でかなりの余力があったことがわかる。この写真を見て「下山途中、ガスの中で道を迷わなければ」とくやしがる山岳関係者も多い。登山歴50年。道内の山を知り尽くしている支部長にとって、神威岳は始めての山だった。
「ヒマラヤ病」
大塚支部長は根っからの山好きだった。生まれ故郷の「裏山」に始まり今年1月には65歳の身で二度目のヒマラヤ旅行をやっている。自ら「ヒマラヤ病」と称するほど、山への愛着は深まっていた。真の登山家であり、山男たちを大切にした。
登山家の海外遠征の裏には必ず大塚さんがいた。銀行の仕事をこなしながらせっせと資金集めの裏方を買ってでた。不幸にして登山家が遭難するとその遺児の世話に走り回ったともいう。日本山岳会道支部長に選ばれたのも、外から見えぬところでの活動に信望が集まったからだ。
もともと凝り性の人だ。負けず嫌いでもあった。趣味の絵は相当の腕前だったが、本格的に始めたのは昭和30年代という。「一度に道具を全部そろえて始めた」。初めは静物を忠実に写生し、次にカラー写真を模す。基礎から修行しないと気のすまぬたちだった。日本棋院五段の囲碁もそうだ。自分で打った碁は棋譜に直してノートに張る。それが5冊になる。「趣味の多い人が仕事もよくやる」が口癖で、その通りに北洋相互銀行を全国の上位に引き上げた。堅実で慎重そのものという人柄を知る人は、遭難が信じられぬと語る。
大塚支部長は、今年1月に、2週間程ネパール側エベレストへトレッキングした。ヒマラヤのタンボチエの村で絵筆をとった。大塚さんは1月22日付北海タイムス紙に『ヒマラヤ病』と題してその絵とともに旅行記を寄稿した。
旅行記は『山の友達の手紙に「ヒマラヤ病」という言葉があったが。一度行くとまた行きたくなる病気』の書き出しで、エベレストの標高4000m近いタンボチエの村で見たラマ僧院の印象を語っている。
絵は、僧院から見た家並みと背景にエベレスト、右手にアマダブラムの高峰であった。
この旅行中に冬季エベレスト登頂に成功した加藤隊が、下山途中で消息を断ったことに『同じく山を愛する者として、私たちもエベレストを眼前にして重い気分を払うわけには行かなかった』と記した。旅行記の終わに『ヒマラヤ病に罹って時折、ヒマラヤを歩いてくるのが私のドック(人間)入り』と記した大塚さんであった。
あとがき
この捜索記は、北海道内各新聞社の記事を参考にさせて頂きました。
私のスクラップ・ブックに、各新聞社の記事の出所が整理されていま せんでした。申し訳ありません。
本ページについてご意見がありましたら、メールを頂きたく思います。
大塚支部長、沢山の思い出をありがとう御座いました。『合掌』
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