武器技術教育隊
1960年代後期の話です
私は、武器技術教育隊で、弾薬に関する教育を受講した。 時は、やすらぎの池の事件の数日後に、横須賀の武山駐屯地にある第101武器技術教育隊に入校を命ぜられた。 (1968年7月2日13名の殉職した水難事故) 教育内容は、小銃から大砲の砲弾の構造、火薬・爆薬の取り扱いと爆破、可塑性爆薬と成型爆薬、各種信管、弾薬庫の構造、弾薬等の請求業務、発射装薬の処理等を学んだ。 教場は、やすらぎの池の数十メートル北側にあった。教場の跡地にファミリーマート武山駐屯地南店が建っている。 やすらぎの池は着隊当時は、完全に水抜きされていて、かなりの深さがあった。 現在は、静かな小さな池(公園)に姿をかえ、そばに少年自衛官顕彰之碑がある。 駐屯地には 陸上自衛隊第一教育団(団長:駐屯地司令、 海上自衛隊横須賀教育隊) 航空自衛隊武山分屯基地(ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズ) 陸上自衛隊少年工科学校(現在の高等工科学校)が混在していた。 居住する隊舎から歩いて約1㎞の教場まで、隊伍を組んで、足を揃えて行進していた。 ときどき売店とか何かの理由をつけて一人で歩くこともあり、その時は外柵沿い歩いた。850mの散歩のような気軽さがあった。 駐屯地の外柵の外に国道が走り、その向こう、お菓子の製造工場があり、製品にならないクッキーが1袋○○円と安価で売られていた。 外柵越しに1袋とか2袋とサインを出すと、女の子が外柵まで持ってきてくれた。 短い時間だが、男所帯の私たちには、僅かな女の子とのふれあいは楽しかった。 休憩時間にお金を集めると、外柵越しのささやかな出会いとクッキーが楽しみだった。 訓練も終盤になると、実施訓練が始まり、吉井弾薬支処に前進した。支処は群馬県吉井町にあり、馬庭念流の道場が近くにある。 吉井弾薬支処において、弾薬類の試験研究機関の試験室において、砲弾の破裂時の飛散につて教育を受け、あるミサイルの保管庫の内部、砲弾の安全検査等を体験した。 支処から約50キロ離れた相馬原駐屯地に移動し、相馬原演習場で爆破訓練が行われた。 導火線に雷管を装着しTNT爆薬を爆発させる訓練。導爆線を爆発させる訓練を実施した。 数回導火線に点火する訓練を実施したが、雷管と爆薬を装着すると、ぶるぶる震える者もいて、点火成功とはならない。 5名が並んで一斉に点火するが、一人でも点火できないと、全員退避とならず、早いものは早くしろと睨みつける。 やっと成功して全員退避となり、歩いて安全地域に来るまでに、突然数個の爆発音が響くが、一番最後に点火した爆薬が破裂しない。 教官や我々が不発かと肝を冷やしていると、轟音と共に土煙が上がった。 悪ガキ(隊員)が目印とばかりに、石を爆薬の上においた。轟音と同時に石が数十m空中に舞い上がる。 教官からお目玉を食らうが、皆はよくやったと・・・。 導火線を使用する場合は、その日は同じロットを使用し、導火線を15cm以上切り捨て、1メートルを取り、燃焼テストを行う。その燃焼時間が100~140秒の物を使用する。 歩いて安全距離まで退避できる時間を考えて導火線を切る。 導火線は曲る、ねじる、おる等の行為をしない。また1メートル以下で使用しない。 雷管を鉄の缶の中で爆発させると、無数の穴があく。人体に相当の損傷を与える。 導火線と雷管を繋ぐ時は、導火線の先をモンロー効果を利用するようにした。 雷管口締器で繋ぐ時は軽く締めた後、顔をそむけ腰の横で確実に固定する。 楽しい横須賀市武山駐屯地の教育・訓練だった。 山陰の田舎育ちの私は、大都会での教育は最高だった 第1教育団第101武器技術教育隊(武山駐屯地)は1975年(昭和50年)8月1日廃止。 |