加藤文太郎氏 の遭難時の新聞記事など
1935年(昭和10年)12月~5月

加藤文太郎氏の遭難に関する記事
1935年から1936年の関西・神戸地方の新聞を見た。


私は、偉大な加藤氏の「単独行」や新田次郎氏の「孤高の人」を愛読した。
そして私は、一人で山中を彷徨し、縦走し、冬の大山を縦走した。
12月末の大山元谷の雪原にヤッケの上下を着たままビバークした。
友人たちは一人で山中に寝て怖くないのか・・・と。

自衛隊で昇任するための教育課程に入つていた時、大隊長からの訓話があつたとき
「加藤文太郎を知つているか・・・」とあつた。
私が「加藤文太郎は、厳冬期の北アルプス等を単独で歩いた・・・」と言ってしまった。
大隊長はそのまま降壇して、部屋から出て行つてしまつた。
私は、なんでも知つていることを話してしまう癖がある。

加藤氏とは関係ないが、或る教官(最後は自衛隊の将軍まで出世した)が
「今日は、弾薬について話す・・・ダイナマイトを知つている者・・・」
「ダイナマイトは、爆薬で音速以上で燃焼し、それ以下は火薬類である・・・・ダイナマイトは取り扱いに注意を要するが、TNTは非常に安定していて、自衛隊の砲弾および発破等に利用し、爆速は1秒間に6000m位。ダイナマイトはそれ以上に速い・・・」とウンチクを述べた。
(火薬類取り扱い主任の資格を持っていたので・・・)
その教官も、壇から降りて姿を消した。

それで・・・数々の失敗が・・・重なり・・・大変多くの人を傷つけたのかな・・・。
前置きはこれ位にして、加藤氏の遭難前後の新聞を探してみた。

できるだけ当時の新聞記事を再現するため読みにくい箇所もありますが・・・。
例:「っ」は、「つ」で・・・。送り仮名も当時のままにしています。
  古い記事の関係で私では再現出来ていない箇所もあります。ごめんなさい。
  「吉田富久氏」を「吉田富美久氏」とした記事もありましたが、「吉田富久氏」としました。

   
 愛用のピッケル 長さ約85cm  登山靴 牛革製 28.5cm

冬山に醸す憂ひ  「槍」に山の猛者消ゆ

神戸三菱の社員と鉄道員  既に消息を絶つて六日

また山の遭難報来る---神戸関西徒歩會員神戸市三菱内燃機勤務加藤文太郎(32)同神戸市鉄道省鷹取工場勤務鉄道員吉田富久(27)の両氏は去る三日槍ヶ岳の肩小屋に友人大久保清人、濱杢一の二氏を残して絶頂を極むべく出発したまま八日に至るも姿を現はさず、その生死も不明なので前記二人は岐阜県吉城郡上寶町栃尾奥村屋旅館に引き上げ人夫十数名を派して捜査につとめているが、同地方は積雪五尺に及んでをり捜査は極めて困難視されている
大阪朝日新聞 昭和11年1月9日

不死身の加藤君  驚嘆すべき数度の死線突破  家族ら捜査に向ふ
八日朝遭難の報に接した神戸市栄町三丁目関西徒歩會本部(K・W・S)では同夜11時神戸発の列車で同會から藤田幹事が両家族および吉田君の勤務している鉄道省鷹取工場山岳部員五名と共に現場に向かつた
遭難を傳えられる加藤君の山の経験はすでに十年以上におよび休暇あるごとに常にガイドも友人も伴はず単身山を相手にし今日では各季節を通じて北アルプスの征服者の一人者であり
今まで粟オコシや蒲鉾を嚙つて雪の中で夜を徹し、あるひは鰹節一本で三日間生命を保つて来たといふその肉体的に偉大な頑張力と放れ業的な登山方法は一般山黨はもちろんアルプスのガイド仲間からさへ人間業ぢやないと驚嘆されていたもので、今までにも度々死線を突破したことのある不死身の持主で、遭難するなんて彼を知るものの間には未だに半信半疑のものが多い、林田区池田廣町の自宅を訪れると一昨年春結婚した妻女は長女とし子さんを生んでまだ日が浅く憂慮しながら語る
主人は29日夜出発しまして5日に帰るといふことでしたのにいまだに帰らぬので何かあるのではないかと心配していましたがやはり・・・
と涙に沈み、また一方加藤君と一しよに遭難した神戸林田区神楽町四丁目吉田富久君の実家を訪ふと富久は20歳ごろから山が好きとなりよく山に行つていました、今度は大先輩加藤さんがついていられたので安心していましたがだめでせうか
           大阪朝日新聞社 昭和11年1月9日

絶望の色濃し  山の猛者に集る美しい友情
「槍」の遭難事件

本紙既報==○○29日ごろ相前後して北アルプスの最難関といはれる「槍」の北鎌尾根に向ひ、去る三日以来消息を絶ち、安否と気遣はれている神戸林田区池田廣町三菱造船所内燃機設計課員加藤文太郎氏(32)と関西徒歩會(K・W・S)會員で神戸林田区神楽町4丁目鉄道省鷹取工場員吉田富久君(27)の遭難事件は何しろ両氏がいづれも山のエキスパートだつただけに今冬最初のセンセイションをまき起こしている
山で結ばれた友情は美しく両君の加盟する関西徒歩會、勤務せる両工場山岳部員や直ちに捜索隊を編成現場に急行したが、9日も依然吉報なくいよいよ望みうすとなり、両君の家族は勿論両君をめぐるグループ間の憂慮はますます深めれつつある
吉田富久氏
遭難した両君はどんな男か?いまそのグループの人たちについて両氏の挿話をきく
吉田富久君の厳父荘藏さんは世にも珍らしい理解者で今度もいつもの如く彼のために「非常時の糧食のために」といつて白米一升を自分の手で洗つてやり彼のリュつクサつクに入れてやつたといふが、この子煩悩な荘藏さんは「息子の素晴らしい体力をもつている、殊に岩登りにかけてはエキスパートといわれ信頼しきつていたのだが、自分の整備してやつたリュつクサつクをもしも息子が小屋なんかにをかずをにもつていつてくれていたらまだ二日や三日は別條ないのだが・・・。
加藤文太郎氏
この吉田君に比し年齢経験から先輩格である加藤君は「文さん」でとおる気風のやさしいなかなかの人・・・ (以降・・・資料不明で・・・)
         大阪朝日新聞神戸版 昭和11年1月10日

   
 愛用のカメラ ドイツ製  愛用のスキー美津濃製
ノルウェー式フィットフェルト式締具
1980年自衛隊で私も使用していた

吹雪から捜索難  「槍」付近で遭難の二人

さる3日日本アルプス槍ヶ岳付近で消息を絶つた関西徒歩会員加藤文太郎(31)同吉田富久(27)の両氏の行方捜査に努めた船津署尾関主計巡査は13日午後5時報告かたがた帰署して語る
「10日加藤、吉田両氏の遭難したことが事実なりと見て死体捜査に努めているが12日までの操作については13日午前5時ごろ槍肩の小屋より栃尾の捜査本部へ同日午後2時までに通信が到着するとのことであつたが未だ何らかの通信がない、また捜査本部の藤本氏は13日は大吹雪のため捜索隊の連中が栃尾へ引き上げるのさへ困難の有様である」
と捜査難を語つた
      昭和11年1月14日 大阪朝日新聞神戸版 掲載

国宝的山の猛者  槍で遭難、死体発見さる
去る1月来消息絶つた加藤氏ほか一名  4か月ぶりにこの悲報!
神戸市歩行會員三菱重工業技師加藤文太郎(32)鉄道省鷹取工場鍛治場職工吉田富久(27)および大久保、濱の4氏ほか一名は、昨年12月31日岐阜県吉城郡上寶村蒲田温泉から松井強力の案内で日本アルプス鎗ヶ嶽へ登山、超えて1月3日朝肩の小屋に到着、うち大久保・濱両氏は小屋に残り他の1名は下山、加藤、吉田両氏は松井強力とともに頂上を極めるべく同日出発したが、折からの猛吹雪のため松井強力は両氏を見失ひ自来行方不明となつていたが4カ月後の廿七日、それらしい一腐乱死体を日本北アルプス高瀬入天井澤付近で発見したので廿九日歩行会員濱氏ほか2名が首実検の結果加藤氏と判明、更に付近を捜査の結果丗日午後一時吉田氏の死体も発見された旨大町署に通知があつたので大町對山館で連絡中の父吉田荘藏および加藤氏の義兄川西潤左衛門の両氏は郷里に死体の運搬を折衝中である(大町発)
         大阪毎日新聞 昭和11年5月1日
   
 加藤氏 結婚記念写真  加藤氏の手帳

遭難の両君の死体発見
4ヶ月ぶり天井澤で

「松本電話」既報、北アルプス天井澤地籍で松本高等学校山岳部員木村、西村の両君に発見されたスキーヤーの死体は去る1月3日槍ヶ岳肩ノ小屋付近で消息を絶つた大阪鉄道局員吉田富久(28)同三菱造船所員加藤文太郎(31)両君の何れかであらうと29日加藤氏の義兄、吉田君の実父と遭難前日まで両君と行をともにした友人濱杢一氏他三名が北城村登山口に駆けつけ濱氏が現場で首実検の結果吉田君の惨死体と判つたので更に六尺余の積雪を掘り返し付近隈なく捜査の結果30日午前11時6m離れた雪中に加藤氏の死体も発見(?)に湯俣水股小屋に収容した
         5月1日

全国の峻嶮を 単独で征服
名だたる加藤氏

山の犠牲をなつた加藤氏はわが国唯一の単独登攀者として全国的に名あり、すでに北アルプスは勿論全国の峰々を全部征服して世界人の目ざすヒマラヤを単独征服の計画をさへたてて着々準備をしていた山の猛者である、氏が山における常食はカマボコ、オコシの類で日暮るれば雪の上にゴロリと寝、夜明くればそのまま前進するという普通人の想像もおよばない登山を敢行するので、わが山岳界からは「単独登攀の加藤」として国寶的の存在として認められていた、それほどに単独登攀を厳守していた彼が今度初めて神戸徒歩会の吉田君を伴つて槍ヶ岳に登攀して遭難したことは山岳から不思議なこととしていたく惜しまれている
         大阪毎日新聞 5月5日
   
 加藤氏の手帳  藤木九三氏の短歌

悲しき逸話  
同伴者と登山したのが  皮肉・死の門出

加藤氏は結婚僅かに一年、夫人との間は非常に睦まじく妻をもつてからはあの冒険的な単独登攀も止めようと口ぐせにいつていた、そして今度の吉田氏との登山はかれの多年のタブーを破つたものだつたが死の登山であつたとは余りに皮肉である、なほ夫人は彼の最後の登山に先立つて彼の二世をあげた
「不死身の加藤」として日本の山岳界から驚異の眼をもつて見られた一例にこんなことがある
----東京の某大学のリーダーが三月の穂高岳に登ろうとして未明に山にかかると、雪の中に人間が横はつている、てつきり人間が遭難しているものと近寄るとその黒いものがムクムクと起き上がつて歩き出したのでビつクリした、これが加藤氏であつた、今でも山岳界の語り草になつている、雪の中にゴロリと一夜を明かすほど大胆な加藤氏も一面にいかにも小心で用意周到なところがあつた、或る時新しい登山服を新調したが友人の手前気になると見え、例のボロボロ服を身にまとつて出かけた、友人が聞くと「世間では死出の晴着だといふからあの新調の服はやめた」と語つたさうである、加藤氏にしてこの言葉ありと山岳界の人は意外に思つている
また剣澤の小屋で雪崩のため遭難した土屋子爵令息一行とともに剣岳に登山して小屋に同宿を拒まれて仕方なくその夜立山室堂に帰つたばかりに一命を助かつたという奇跡的のこともあつた
         大阪毎日新聞 5月5日

遺児を抱いて  夫人ら急行す
涙につきぬ留守宅

死体発見の報に接し加藤夫人はな子さん(25)は昨年11月生まれたばかりの忘れ形見の長女とし子さん(二つ)を抱き故人の義兄兵庫県立神戸病院川西庶務部長および神戸徒歩会の幹部に伴われ丗日夜六時廿分神戸駅発長野県大町へ向け急行した、加藤技師は兵庫県美方郡濱坂町出身、県立工業学校卒業後三菱に入社しものである、なほ遭難後1月6日加藤氏が夫人の夢枕に立つたので同家はその日を命日と定めその日より丗五日目に盛大な告別式を営んだ、丗日夜同家を訪ふとはな子さんの母さわさん(60)が一人で留守居ていたが
加藤さんは毎朝出勤前日課のように鷹取山へ登山しました、山は御飯よりも好きな方でその山で死んだのですから本望でせう、はな子は去年生まれた赤ん坊をつれて今夜現場へ急行しました
と涙で語つた
         大阪毎日新聞 5月5日

   
 神戸市背山を歩く 加藤氏 
昭和3年
 清水伸子画 文太郎と槍ヶ岳

槍で遭難の両氏遺骨帰る
神戸駅頭・涙の出迎へ

日本北アルプス槍ヶ岳で遭難・四ヵ月ぶりに死体を発見された神戸市林田区池田廣町三菱重工技師加藤文太郎(32)同区神楽町4丁目鉄道省鷹取工場員吉田富久(27)両氏の遺骨は思い出の遺品ピつケル2本リュつクサつク、ザイルなどとともに加藤氏の義兄川西潤左衛門氏、吉田氏の厳父荘三氏ほか友人にまもられ4日夜9時18分神戸駅着、駅頭には現場から一足先に帰つた加藤氏未亡人はな子さん(25)が遺児とし子さん(二つ)を抱いて傷心の姿を見せたほか関西歩行会、三菱、鷹取両工場の友人たち数百名ご出迎へそれぞれ自宅へ帰つた、両氏の死体発見の報とともに現場に旧久下友人の濱、宇田両君は語る
加藤君の死体は天井澤と千丈澤との接合点から百メートル上の雪中に吉田君のはこれより五百メートル上の吊り橋付近にありました、吉田君の死体の上にはピつケルが日本立ててあつたがこの状況から蜜と猛吹雪の中で寒気を飢えからまづ吉田君がたふれ、加藤君はピつケルを死体の見印に残して山麓へ急を告げる途中自分もまたたふれたものらしい
         大阪毎日新聞 5月5日

アルプスで叫ぶ  悲痛な面持ちで語る濱杢一氏
アルプスの犠牲者、涙の帰宅

去る1月3日日本アルプス槍ヶ岳絶頂より北鎌尾根をめざして肩の小屋の根拠地を出たまま消息を絶つた神戸市林田区池田廣町三菱造船所内燃機設計課員加藤文太郎氏(32年)とそのコンビにあつた同区神楽町4丁目鉄道省鷹取工場員吉田富久氏(27歳)の遺骨は遺族、山友などに護られて4日夜帰神した、一足先に現場を引き上げて帰神していた第二世を抱く加藤氏妻女はな子さん(25歳)をはじめ神戸駅頭には故人を山で知る友人、三菱、鷹取両工場の同僚多数が出迎え、両氏ともそれそれ4ヶ月ぶりの悲しい帰宅をした、両氏の遭難前、肩小屋で見送つて九死に一生を得た両氏の当時のパーティKWS会員濱杢一氏は去月28日死体発見の報と同時に両氏の遺族、親戚を導いて現場にいつていたが、同夜帰神するや駅頭で沈痛な面持ちで左の如く語つた
加藤氏の遺体は去月26日天井澤を登つた松本高校生によつて発見されました、現場は天床澤と千丈澤との出合ひから上手七、八丁のところで河水に浸かつて横たわつていたさうです、それから200m上手でピつケルが立ててあつたが、その下の雪中深く吉田氏の遺骸が埋もれていたのです。何しろ捜査本部に充てられている大町からは強行で丸一日を要するところにあり、すべての操作は全く不便でした、ために発見順により、まず加藤氏を、続いて吉田氏を荼毘に附し加藤氏は2日午後、吉田氏は3日午後いづれもお骨上げを済ませ急いで帰神した次第です加藤氏はなんとしいつても我国山岳界で特異な単独登山家として知られた山の猛者だけに現場の状態が整然としていたのには思わず泣かされました、つまり両氏が死の最後まで山の友情を保ち互ひに山登りのコンビを引締め合つて慫慂として死についている模様がはつきり看取されました、遭難原因は御誌がすでに報道されたように餓餓と吹雪が最大原因で想像すれば凍傷などにも罹つていたと思われます
          5月5日大阪 朝日新聞神戸版
   
赤岳  横岳方向から  加藤氏撮影  加藤氏愛用の飯盒

加藤文太郎氏の 単独行を讀む
◇登山家や愛山家の多い神戸からまた山の素晴らしい単行本が出た、本年1月槍ヶ岳北鎌で遭難した(当時本紙既報)三菱造船所内燃機設計課員加藤文太郎氏の遺稿集「単独行」がそれだ、加藤氏は若いころまず身体を作るために兵庫県下の国道という国道を歩きまはり、次いでアルピニストとして立つたもので、単に「単独登攀者」として有名なばかりでなく、その挑戦ぶりの勇猛果敢でしかも沈着、用意周到な点は謙譲なその人格とともに特に山友間の信望が厚かつた
◇だから氏の山生活中には吹雪の尾根で、或いは雪崩の渓谷で雪中露営などを余儀なくした数々の遭難物語が秘められてをり、しかも氏はその間それらの事故のため会社を欠勤遅刻したことがなかつたことや、峰から谷、谷から峰をつたふ燕のやうなその明確なそしてスピーデーな登攀ぶりはまつたく人間業ならぬ「山の超特急」だともいわれ、山岳界に「奇異」な存在とされていた
◇去る5月4日多くの山友に迎えられ悲しい帰宅をして以来、氏をめぐる山友の間には涙ぐましいまでの美しい友情が大きな力となつて集まり、或いは追悼報告会、或いは追悼登山会などをひらく一方、氏の遺稿集の編纂に努めていたが、遂に完成を見たものである
◇まづ加藤文太郎氏のあまりにも山男らしい人となりについて述べられた藤木九三氏の序文「生まれながらの単独登山者」があり以下二十数項にわたる遺稿が収められている、主なる目次を拾つてみると
「単独行について」「冬期登山の常識」「私の登山熱」「山と私」「山へ登るAの苦しみ」「初めての錯覚を経験した時のこと」「私の冬山単独行」「山に迷ふ」「冬の氷ノ山と鉢伏山」
などすべて氏の豊富な経験と実践による山に対する焔のごとき情熱で一杯、日本山岳界最近の収穫であらう(QP生)菊版、美本500部限定版、神戸湊東区上橘通2丁目津田方同遺稿集刊行会の発行

「不僥不屈の岳人加藤文太郎」の追憶より
一度だけあつた人   新田次郎
加藤文太郎さんとは冬富士で一度だけ会いました。35年も前のことでほんの二こと三こと言葉をかわしただけでしたが、そのときの印象はきわめてはつきりと残つています。当時私は中央気象台に勤務していて、富士山観測所に交代勤務のため登山する途中で彼に会つたのでした。私たちは五合五勺に泊まつて、二日がかりで登つたのでしたが、彼は一日で登りました。突風が吹きまくる富士山の氷壁をまるで平地でも歩くような速さで彼は歩いて行きました。私たちは、天狗のような奴だなと云いながら見送つたものでした。
私が小説「孤高の人」を書いた動機はいろいろありましたが、もし、このときの彼と会つていなかつたら、おそらく筆は取らなかつたのではないかと思います。ちょつと顔を合わせただけでしたが、なにか心の中に残つたものがあつたのです。小説の中で歩く加藤さんの姿は、そのときの彼の姿であり、小説の中でときどき使つた、不可解は微笑も、五合五勺の避難小屋で彼が浮かべていた顔つきでした。そのとき彼は、アルコールランプに火をつけて、コつフェルで湯を沸かしていました。湯が沸くとその中に、ポケつトから一つまみの甘納豆を出して投げこみ、スプーンですくつておいしそうに食べていました。
「まだ日が高いのにここに泊まるのですか」
彼は私たちに向かつて、こんな意味のことを云いました。その時はもう3時近くなつていました。冬の3時は行動停止の限界でした。
「もう間もなく暗くなります」
私は時計を見ながら加藤さんに、云いました。すると彼は、そのとき、にゃつと、まことに不可解な微笑を浮かべて
「そうですか、頂上まで行つて見たいと思います。頂上には観測所があるのですね」
と聞きますから
「観測所があつて所員が5人います。泊めて貰つたらいいでしょう」
と云つて上げました。彼は、甘納豆を食べ終わるとすぐに出発しました。
そのときの不可解な微笑について、花子夫人に聞きますと、照れかくしの微笑であつて、誰でも馴れるまではちょつとへんに思つたらしいということでした。小説の中では、この不可解な微笑みがたいへん役に立ちました。
加藤文太郎さんを小説に書くに当つて困るようなことはほとんどありませんでした。
遠山豊三郎さん(小説では外山三郎)と花子さんに訊ねただけだ充分でしたし、資料は遠山さんと花子さんがすべて提供して下さいました。私が書いた長編小説としては、幸福に恵まれた小説でした。しかし苦労した点が全然ないのではなかつたのです。花子夫人に最初に会つたときに、加藤文太郎という実名小説にして下さいと、一本釘を打ちこまれたことでした。この釘は最後まで、私の筆をおさえつけました。実名小説となると、たとえ小説であるからと云つて、へんなことは書けなくなります。ご遺族や御親戚がおられるからです。しかし、もともと、加藤さんという人は、誰に聞いても、いい人だつたから、実名小説でなくとも、やはり、「孤高の人」の中に出てくる加藤さんのような人を書くことになつたと思います。
「孤高の人」が、出版されてから、全国の人からたくさんの手紙を頂きました。都の人の手紙にも一様に、加藤文太郎さんの故郷の浜坂へ行つて見たいと書いてありました。私の筆で描いた浜坂よりは、実際の浜坂はずつと美しいところですからぜひ行つて見て下さいと私は返事を出しました。ほんとうに浜坂は人情がこまやかであり、景色が美しいところです。「孤高の人」加藤文太郎さんの故郷にほんとうにふさわしいところだと思つています。
(作家「孤高の人」著者)

 
 加藤文太郎記念碑
浜坂漁港西側の丘
城山の北

庫偉人館25 加藤文太郎
小説「孤高の人」のモデルとして知られる加藤文太郎。積雪期の日本アルプスの山々をたつた一人で次々と踏破する偉業を成し遂げ、「単独登攀の加藤」「不死身の加藤」と呼ばれた。彼を山へと駆り立てたのは、生来親しんできた山を愛する心だつた。
明治38年(1905年)、加藤文太郎は浜坂で漁業を営む父岩太郎と母よねの4男として生まれた。浜辺や山々など近隣の自然を遊び場にして育つた彼は、口数は少ないが心優しい性格で、一つのことに集中すると脇目も振らず熱中する子供だつた。
14歳で神戸に出た文太郎は、三菱内燃機製作所(現三菱重工業(株)神戸造船所)に製図研修生として入社。勤務に励む傍ら県立工業学校などにも通い、着実に技師としての知識と技術を身に付けていく一方、大正10年、遠足を楽しむ目的で社内に結成された「デテイル会」に入会し、山歩きの楽しみを覚える。次第に山に魅了され、本格的な登山を志向した彼は、14年、須磨から宝塚までの六甲全山縦走に一人で挑戦し、往復約100kmの道程を一日で歩き切つた。これが文太郎の単独登山家としての始まりだつた。
「文太郎が単独行を好んだのは、歩く速度が人一倍速いので、一緒に歩く人に気兼ねしたことも原因ようです。「孤高の人」の作者、新田次郎さんは、冬の富士山を人間業とは思えないスピードで登る文太郎を見て、クマが登つてきたと勘違いしたというほどでから」と話すのは、文太郎のおいに当たる加藤富吉さんだ。単独行には、さらに金銭的な理由もあつた。当時の登山は、時間とお金に余裕のある人が高価な装具を身にまとい、案内人と荷物持ちを雇つて楽しむ高級スポーつだつた。とてもそのような余裕のない文太郎は、自ら大きなリュつクサつクを背負い、有り合わせの服に地下足袋という格好。当然、単独行はタブーとされた山岳界では異彩を放つ存在で、時にはあからさまに疎まれることもあつたという。
そんな周囲の声をもろともせず、文太郎は県内の山々を中心に単独行を重ねる。一人、道に迷ういながらも頂上を目指して黙々と登り、万歳三唱をして踏破の喜びを表現。山上からの眺めを心行くまで楽しんだ。そして、下る際は山との惜別の思いで涙が出そうになるほど山に夢中になつていたという。こうして夏山で十分訓練を積んだ文太郎は、昭和3年2月、23歳の時に鉢伏山から氷ノ山の冬山単独登頂に挑戦する。その成功を皮切りに、毎年積雪期の日本アルプスの山々に果敢に挑み、次々と踏破。特に、4年の槍ヶ岳の冬季単独登頂達成という偉業は岳人たちを驚かせ、「単独登攀の加藤」「不死身の加藤」として、一躍有名になつた。
やがて単独での登山に限界を感じた文太郎は、昭和11年1月3日、山仲間の吉田富久とともに槍ヶ岳北鎌尾根に挑むものの、猛吹雪に遭い消息を絶つ。当時の新聞はその様子を「冬山に醸す憂い「槍」に山の猛者消ゆ」と伝えた。春が訪れ、ようやく発見された文太郎は、自らの死期を悟つたのかのようにすぐそばにピつケルを突き立てて目印とし、大好きな山で永遠の眠りについていた。

死亡日は定かでないが、墓に刻まれた命日は昭和11年1月6日(1936年)。
「花ちゃんただいま・・・」と文太郎が妻、花子さんの夢枕に出てきた日だという。

加藤文太郎年譜
 明治38年  1905  3月11日  兵庫県美方郡浜坂町浜坂552番地、加藤岩太郎とよねの四男として生まれた。
 大正8年  1919  3月  浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸市三菱内燃機製作所に製図修業生として入社
神戸市立兵庫実業補修学校に於いて工業部英語A科・B科・C科を終了
 大正9年  1920  3月、9月  学校長より優等賞を受ける。尚全期間の皆勤賞を受ける。
 大正10年  1921    研修生第三学年度副級長に任命された。
三菱内燃機製作所設計課のデテイル会員として山歩きを始める。
 大正12年  1923  3月11日  兵庫県立工業学校別科機械科(修業年限2箇年)を卒業、この間皆勤賞を受ける。
神戸徒歩会の方々と山を歩く。
 大正13年  1924    兵庫県内の国道、県道を歩き始めた。
 大正14年  1925  12月1日~  補充兵役陸軍輜重兵特務兵となる。
 大正15年  1926  3月13日  神戸工業高等専修学校電気科修業年限3箇年の過程を卒業
 昭和2年  1927     藤木氏創設のRCCに入つて活動を始めた(?)。
 4月1日  三菱内燃機株式会社神戸製作所、神戸製作所技手となる。
スキーを始めた。本格的な山スキーは昭和4年より始める。
 昭和9年  1934    三菱内燃機株式会社神戸製作所技師となる。
 昭和10年   1935   1月16日  結婚、神戸市  池田廣町178に居をかまえる。
 3月  浜坂に里帰り中に扇山(  )に登り、結婚式に送れる。
 昭和11年    1936    1月31日  加藤登志子、加藤花子、川西潤左衛門より三菱重工業株式会社に、故技師加藤文太郎の死亡届が出された。
 2月9日  神戸市長田区臨済宗福聚寺にて告別式、
 5月2日  浜坂 加藤家で本葬
 1月4日より6日頃に至る間に於いて、長野県北安曇郡平村字高瀬入天井沢岩小屋下方25mの沢に於いて死亡
5月14日 加藤善造届出、受付
「加藤文太郎記念図書館」
兵庫県の山陰本線の浜坂駅から徒歩で約6分の場所に「加藤文太郎記念図書館」がある。
加藤文太郎が駆け巡つた山々をイメージして、館内には山を彷彿とさせるデザインが散りばめられています。
加藤文太郎は、日本海に面した現在の兵庫県美方郡新温泉町の浜坂に生まれ父は漁業を営み、幼い頃から海岸近くで育つた文太郎は魚獲りや水泳が好きでした。14歳の時に神戸に出て、三菱内燃機製作所(現在の三菱重工神戸造船所)に製図修習生として入社し勉強と仕事を両立。
そして、回りの人々が電車やバスなどを利用する道を毎日、徒歩で通勤していました。当時、神戸には外国人が多く住み彼らの影響を受けて、六甲山へのハイキングや日曜登山などレクリエーションとしての山登りが流行。
加藤文太郎も余暇の楽しみとして、山登りを開始。登山家・加藤文太郎の第一歩を踏み出した。後に“不撓不屈の岳人”、“生まれながらの単独登山者”とも呼ばれた。
「加藤文太郎記念図書館」の2階には“加藤文太郎像”の右側に“加藤文太郎資料室”と“山岳図書閲覧室”がある。
“加藤文太郎資料室”には、加藤文太郎の登山略歴が掲げられ、その下には新聞の切り抜きや写真などが展示され、また愛用したスキー板やストツク、ピツケル、登山靴、ドイツ製カメラなども並べられている

   

加藤文太郎記念図書館

本ページは、加藤記念図書館等に於いて取材し、また私が周辺を散策しました。
絵葉書の画像を借用しました。「加藤文太郎生誕100年、但馬浜坂ふるさと塾」
2010年7月琵琶湖~敦賀~城崎の車中泊旅行時に浜坂を訪問しました。