NO駐屯地 陸上自衛隊ヘリの墜落事故の私の行動
19XX (ZZ年)Y月2日14:32
Y月2日、13時頃、駐屯地の営庭(グランド)では、ヘリの着陸の為、燃料のドラム缶や着陸地点を示すHマークが描かれていた。 私たち自動車教習所の訓練生は、けん引自動車免許の技能試験(Y月6日に受験)の為、駐屯地の下のグランドに於いて後進で直角に車庫入れの練習(訓練)をしていた。 私たちは全員大型免許を既に取得しており、教官・助教たちは不在であった。 訓練は教習隊員だけで、試験前の最終段階の訓練をしていた。 14:30頃休憩で、私は大型自動車の上で幌を点検し、他の教習生は別の作業をしていた。 その時、ヘリはYM市からIH町の上空を飛行し駐屯地に向かい進入しようとしていた。 駐屯地に進入する経路は2方向と思う。一つはYM市上空からと、JS市方向(峠は450m)からNS町(現在のOH市)。南には1500m〜1900mのSI山系があるからだ。 (標高や距離は国土地理院の地図を利用し記載している) 当日の風向は覚えていないが、ヘリの進入方向から北西の風だと思う。(通常、離着陸は風の方向に機首を向けるから…) 着陸場所の標高93.2m、我々の場所は78.5mでこの地点から真東320mの南門は82.3m。 19XX年当時は駐屯地の南東には水田が多く、人家は少なかった。 高度600m以上を飛行しながら駐屯地向かっていたと思う。
IH町方向から飛行し、UK町上空で2度3度黒煙が出た。 訓練中の悪ガキが黒煙を見て、「ヘリが何分に…」と言い始めていた。大変申し訳ないが、時計を見ながらヘリの行動を注視していると、ヘリはNS町方向に回り進入しようとしていた。 駐屯地の外柵から50〜100m付近、私たちの場所から370m程の地点で、高度100m以下でヘリのローターが止まったように見え、時間は14時32分。 私たちは不謹慎にも時計を見ながら、秒読みをしていたから覚えている。 ヘリはそのまま落下し地面に激突、黒煙を上げた。 直接墜落現場に走る隊員もいたが、私は、トラックから飛び降り、近くにある電話に向かい走った。 弾薬庫の入り口まで150m。そこには歩哨が24時間警備している。大声で 「歩哨…歩哨…ヘリが墜落した…」 連呼したが、数分したが歩哨は出てこない。ヘリの墜落音が聞こえたはずだし、飛行音だって聞こえていたのに…。
その時の歩哨の所属部隊はG隊だった。出てきた歩哨に、墜落を警衛所に連絡するように告げたが、ぼんやりとしていて反応がない。まったくボーとして頼りなかった。連絡するよう依頼し私は走った。 (19XX年の日記に、この時の行動図を記載していた。その図面には年月日が記載していたが…。) 私は、墜落場所に向かうため、弾薬庫前の広場(上が営庭、下が訓練所)から水平に200m程走り、墜落地点に一番近い外柵に向かい、斜面を下り50m程走り外柵を乗り越え、外柵から墜落現場までの100m程の水田を走り、ヘリの傍に着くとけん引の訓練生だけがが数名いた。 ヘリは二つに折れ(後部ドアの後ろ2m程の所で)、後方(ローター側)が5m程離れた所にあった。 ヘリは火を噴き、容易に近寄れないほどだった。 一番最初にドアを開けて引き出した人は、真っ白の顔で私は「米軍(人)が乗っている…」と叫んだ。 その米軍人と見間違えた自衛官(飛行服を着用)は、安全ベルトを外していてドアが半分程開いていたので直ぐに搬出できた。火勢もドア付近は弱かった。 誰かわからないが、その人を見て「この人は、もうだめだ…他の人を…」叫んでいた。 私たちはその人をヘリから数m離れた、藁塚(稲藁を纏めて積んだ物)の後ろに運んだ。 それから、鎌か何か刃物が来ていたのか、2番目に救出した隊員をヘリから引き離したとき、応援の人が集まりだし担架が来た。 その救出した人を担架に乗せて、私と他の人で駐屯地の外柵にあった南門(通常閉門)から、救護所のある建物まで距離にして550m程搬送した。 救護所に運び込むと、担架をもって私たちは現場に引き返した。 現場はヘリの液体や機体の燃える音、機体の匂い、指示する人の声や錯綜した声、そして人体が燃えてる匂い等、まるで戦場の様相であった。 ヘリの傍に帰ると、全身火傷の人がヘリから出され、その方は担架に乗せてあり、誰かが毛布を被せていた。 駐屯地に運ぼうとしていると、担架の上で体がグラグラして落ちそうになり、誰かが叫んだ 「この人を、落ちないように抑えてくれー」 私は、その人の膝を両手で持ちながら担架の人と走った。2回目の運搬で、搬送する者も私も厳しい状況で、坂道を駆け上がりながら、近くで見つめている隊員に交代を頼んだが、誰も見ているだけだった。 担架の上の人の、膝がしらが完全に壊れグラグラし、太腿と下腿(膝より下)が別々に動き、それが私の手に伝わる。 担架の搬送要員も息切れし、私は毛布越しに握るその膝に何とも言えない感情を感じる。 救護所に運搬すると、「この人は、体育館に運んで…」指示され更に80m程搬送した。 体育館から現場に引き返すと、現場には多くの隊員が集まり、疲れ切った私たちの入る余地がなくなった。 この出来事で、助けなければと「火事場の…力」が出たが、助けられなかった事で悔いる時間であった。 ヘリには何名搭乗していたのか不明だった。 最終的に搭乗者8名と判明し、7人死亡1人重傷(3等陸曹)の大惨事だった。 パイロットと思われる人 最初に搬出した人(飛行服を着用。私が米軍人…)は、数時間生き延びられ 「私が…私が悪かったのです…」と責務に…苦しんでおられたという。(新聞で知った) UK町上空で2度3度黒煙が出たのは、その場にいた教習生は見ていたので、操縦ミスではないと思う。 また、着陸前で高度もなく操縦で回避(オートローテーション)できない状況であった。 パイロットは、ボルテックス・リング・ステートを引き起こしてはいない。 ボルテックス・リング・ステートは翼が回転しているが、揚力が亡くなった時に発生する。 しかし、私達は回転翼が停止したのを見ていたのだから。 その方はTS3佐(当時は1尉)と手帳には記載しています。間違えているかも…。 担架もなく運搬する手段がない状況だったが、最初の誰かの一言がなくて、早く救護所に…と、50年たった今でも悔いている。 当時、救護所には医師は在籍していなくて、看護婦さんと衛生課の隊員がいても、あの状況では助けられなかったのだろう。そして2番目に救出した人(3曹殿)は、病院に搬送され、後日輸血の依頼があり、Y月6日に私も参加させていただいた。 Y月3日夜、事故で亡くなった方々の、自衛隊葬が体育館で執り行われ、私たち自動車訓練生も参加した。 式の会場の入り口と、棺の前に小銃に着剣し正装した自衛官が立哨した。屍衛兵(棺の警衛)は整備区隊の者がついた。 屍衛兵に私たちも志願したが、事故の救助に当りその惨状を、目の前にしている者達は除外された。 その理由は、屍衛兵が、涙を流すことがあってはいけないと、教官から告げられた。 小さい子供が、泣き崩れる母の背を撫でさすり、元気づけている。その姿に私は涙を誘われた。 兄弟(小学6年、3年)の二人は、父の棺桶に近づこうとせず、涙を堪えている。でも、弟の頬に涙が流れると、兄は直ぐに拭いてやっている。やはり武人の子だ。 遺族の母が子供の手を引いて、父の棺桶の前に立たせようとするが、ご列席の中から頑として動かない。 父の死を認めたくないのだろう。 棺が安置されている体育館には終夜明かりが消えない。 その夜、私は不寝番の勤務が回って来た。時間は覚えていないが深夜だった。 講堂の辺りまで巡回したとき、「カ〜ン、カ〜ン」と音がする。 祭壇の前で、誰かがお経をとなえ、鐘を叩いているのか…不謹慎だが、19歳の私にとっては、何とも恐ろしい寂しげな響きで、背筋が凍り付く感覚に襲われた。 講堂から教育隊の本部庁舎に来た時、音の原因が分かった。 国旗掲揚塔のロープが緩んで、風で揺れている音であった。通常風の強い日は、旗竿に巻き付け緊縛するのが常識だが…。 事故後の夕食に、スープの中に引き肉の団子が入っていて、私たち仲間は誰も口にすることができなかった。居室に帰って、口々にあの献立はないよな…と話しあった。 事故後の日曜日、試験前であり訓練が実施されて試験に備えた。 Y月6日けん引実技試験が実施され私達は合格した。その日の午後献血に行った。 自動車訓練生の修了式がY月8日に行われ、我々は各部隊に帰っていった。 このNO駐屯地で私は3回の教育を受けた。 自動車教習所で操縦訓練。技曹の任官教育、3回目が上曹の教育である。 後日知ったのだが、ヘリは陸上自衛隊SH航空隊のHU-1B で、OS近辺の駐屯地から、SH隊に帰隊するため給油でNO駐屯地に着陸、HS隊に向かう予定であった。 ヘリには何名搭乗していたのか不明だった。 HTに出張中の幹部自衛官が、上級部隊の許可もなく登場していた。(旅費を浮かせるためなのか、早期に部隊復帰するためなのか…?)誰かが忖度し搭乗させたのだろう。 何名搭乗していたのか救出に当たっていた我々や、駐屯地の人達も知らなかった。 炎上した機体が鎮火するまで判明していなかった。 最終的に搭乗者8名と判明し、7人死亡1人重傷(3等陸曹)の大惨事だった。 UH-1Bは、最高速度 236km/h 、巡航速度 202km/h 、航続距離 418kmである。 HT航空隊〜HS航空隊まで490qであり、航続距離の関係で、どこかで給油しないといけない。 NO駐屯地までの飛行距離は概算であるが、OY駐屯地〜NO駐屯地まで300q。HT総監部〜NO駐屯地まで280q。NO駐屯地〜HS航空隊の近くのGK駐屯地まで250q。 ヘリは通常有視界飛行であり、国道等の上空を飛行する。 その為、大部分は陸上の著名な(国道や、鉄道の近く)上空近くを飛行する関係で、直線的には飛行しない。 (私が矢臼別演習場〜帯広駐屯地への連絡要員として往復した時、OH-6に搭乗した時の飛行ルートは、国道262号から国道38号と飛行し復路は逆順だった。) 海上自衛隊のヘリは海の上は関係なく飛行する。(海に着陸できる点もあるからだろう) UH-1 米国のベル・エアクラフト社が開発したヘリ。1959年よりアメリカ陸軍で採用され、日本の陸上自衛隊で採用され、陸上自衛隊員達には「ユーワン」(ユーエッチ)の通称で呼ばれ、日本では富士重工業が1962年から陸上自衛隊向けにUH-1Bのライセンス生産を行い、1972年までに90機を納入した。 オートローテーション 私が司令部に在籍したとき、ある部隊のヘリの不時着事故があり、搭乗者全員が軽傷も負わずに助かった。 某駐屯地から某駐屯地へ向けて国道上空を飛行中、ピッチレバーの機能に異常をきたし不時着した。 ヘリは、高度600m以上(この辺りには、標高300mの山があった)で飛行中であっただろう。 不時着陸した地点は30mで550m以上の高度差があり、パイロットはエンジンの力が回転翼に伝わらないヘリを操縦(オートローテーション)し、パイロットは人影がないことを確認して不時着したと言っていた。 ヘリがオートローテーションを行うのは、通常、エンジンが停止またはテールローターが故障した場合に、機体を安全に着陸させようとする緊急操作である。 エンジンが停止してもメインローターを、回転し続けられるようにするフリーホイール機構と、メインローターの回転を起こさせる風の力によって、オートローテーションは実現されている。 ヘリが起こす風によってヘリが浮上し飛行する。エンジンの出力がなくなり墜落状態になった時、ヘリの機体に空気の渦が出来る。 慣性力による回転力が失われると下降するが、下から上に流れるその空気の流れを利用して、メインローターを回転させ、ヘリの操縦が可能になる。しかし、長時間飛行する事は期待できない。 セスナ機など機体の割に翼の面積の大きい飛行機は、グライダーのように滑空できるが、ジェット戦闘機のように翼面積が少ない飛行機は、その飛行距離等は少なくなる。 竹トンボが、慣性力による回転力が失われると下降するが、下から上に流れる空気により翼は回転し、オートローテーションの効果で滑空しながら下降する。 十分な高度が確保されている場合は、オートローテーションはボルテックス・リング・ステートからの回復操作にも用いられる。 いずれの場合においても、安全に着陸できるかどうかは、オートローテーションを開始する時のヘリの高度と速度に左右される。 パイロットは、突然起こった故障に沈着冷静に判断し、適切な操作を実施しなければならない。 ブロークン・ウィング賞 緊急事態においてオートローテーションを成功させたアメリカ陸軍の隊員に与えられる賞である。この賞は 「緊急事態の際に優れた飛行技術により、機体の損傷または人員の損傷を回避あるいは軽減し、飛行中の緊急事態から航空機を回復する間に特別な技能を発揮した」軍人に授与される。 |