蒜山から船上山への縦走
(1969年6月8日〜12日)

 50年たって思い出しながらキーボードをたたいている。その当時登山の知識はなかった。
 文中「
時間「○○○○」は、日本山岳會19697年版(480円)の山日記に記載していた。
    6月8日の  日の出 04:50   日没 19:20  月齢 23

 
 烏ヶ山山頂から見る 大山の南面(中央の峰が「天狗ヶ峰」)

 1969年(昭和44年)6月8日
 火薬類取扱保安責任者(乙)試験のため、松江市古志原にある松江工業高校で受検した。
 高校は旧松江63連隊の跡地にあった。
 予定は、試験後
「松江駅発11:54急行大山2号上井駅(現在の倉吉駅)13:18着。駅前発13:40のバスで犬挟峠14:50
 試験は時間前に退出したが、高校から松江駅までのバスが無く歩いた。急行は既に発車していた。
 予定外(変更)の時間等は記載していなかった。
 鈍行列車で上井駅(倉吉駅)に着いた。駅前から蒜山方面のバスは、倉吉市堺町にあるバスセンター(現在の倉吉市第二庁舎)までであった。
 関金方面(蒜山に方面)のバスは日に数本しかなく今の時間は関金までで、関金町山口まで行くバスが最終便で、日曜日で乗車する人が少ないのか遅くならないと出発しない。
 仕方なく近くにあった「タイヨー」デパート?に立ち寄り、食料など買い物し増してぼんやりと過ごした。
 バスは出発し、関金町山口集落のバスの駐車場が終点だった。山口に着いたのは真っ暗で、早く家々の電気の明かりが窓から漏れている。
 ふくらんだキスリングを担いで犬挟峠方面に向かって歩き始めた。5q高度差300m2時間ほど歩かなければならない。高校生の時遠足で蒜山高原に行った際、麓の町から犬挟峠まで歩いているが、途中適当な地点で寝るか…。
 矢櫃集落に向かってトボトボと歩いていたら、後ろから来たトラックが止まり、助手席の窓から「あんちゃん、何処まで行くんか〜」「峠までです」と言うと「後ろに乗って行くか」と荷台を指した。人家は100m程で無くなった。
 当時は、車は少なく難儀をしている人には、車に乗せたりしていて、ありがたく乗せて頂いた。高校時代に一度歩いたこの道はくねくねと曲がり犬狭峠へ続く。
 峠に到着した。店じまいした廃車バス無人の売店の裏手に回り込んで寝仕度をした。
6月9日
 宿泊地から下蒜山登山口から100m程入った林の中にザックと隠すと、蒜山高原の畝の茶屋や松並木付近を散策し開墾地を見て回って登山口に帰った。
 昼過ぎに峠に帰ると、登山を開始した。犬挟峠(515m)の湿地の中の道を歩き尾根の登山道を歩いた。
 樹林帯を進み、草原の尾根にでると風が吹き樹林帯の中の岩のある尾根を進み、所々林の中通過する。
 
「蒜山三山 大部分は1m位の笹で道は良し 日本海見える」
 暑い午後の道を喘ぎながら登る、登山道の石の急登を登ると、下蒜山(1100m)登山口から2時間で…。テントを張る場所を探しながら尾根道を歩く。
 
18:00フングリ峠に到着し、低木の木の下にビバーク地点を見つけた。低木(キャラボク?)の下に簡単なテントを設営した。
 買ったばかりのガスコンロに点火し飯盒炊爨と簡単な夕食。1年半年前に買った石油コンロは、取り扱いが判らなくて廃棄した。(余熱が必要とは知らなかった)
 日没は19:20頃、山の稜線であり1時間は明るい。
 キャラボクの下での露営は虫もいなくて快適な一晩になった。
6月10日 
 簡単な朝食を食べ05:30露営地のフングリ峠を出発する。 
06:00中蒜山(1123m)について06:30まで休憩する。
 下るとユートピアは背の低い笹原を進む。
 誰も歩いていない穏やかな稜線を登り下りしつつ進んで行く。
 登り返して
上蒜山(1202m)に08:30に着く。上蒜山の三角点1199.4mは少し先にあった。三角点から500m程標高を下げる。
 広葉樹の斜面を下り切ると蛇ヶ乢670mの峠に着いた。
 峠から北に下ると福原集落を通り堀の集落に降りる。倉吉線の最奥の駅があり、倉吉線は蒸気機関車で、先頭車両から飛び降り、小便をして客車に乗れると言う位遅かった。
 
蛇ヶ乢(669m)の湿原を10:00に出発し、鏡ヶ成に向かい登山道を進む。
 アゼチに向かいどの地点からか、根曲がり竹の中を歩いたのか、始まったのか思い出せないが、根曲がり竹は、進んでいく俺のほうに向かって曲がっている。
 根曲竹のやぶ漕ぎする。進行方向に倒れていればいいが、俺には向かって遅々として進まない。強烈な藪漕ぎが始まり竹をかき分け、身体をザックをと足掻きながら進んで行く。
 根曲がりの竹がアゼチで出てきたのか、皆ヶ山の付近だったのか覚えていないが、強烈な藪漕ぎだったのは覚えている。
 竹は弾力性があり押しては元に戻ろうとし、右に分けるとまた戻り複雑である。
「蛇ヶ乢〜擬宝珠山 やぶこぎ」
 
アゼチ(1116m)11:40に到着12:10に出発、皆ヶ山(1159m)、二又山(大ナメラ1164m)と進み、擬宝珠山(1110m)に17:10到着した。
 山日記には各峰の通過時間は記載されていない。記載する余裕がなかったのだろう。
 擬宝珠山頂から大山鏡ガ成国民休暇村(現在の「休暇村奥大山」)の横に降り立った。
 休暇村の売店で酒を少しと蕎麦と購入。今夜の夕食にする。
 高校3年の時キャンプした、鏡ヶ成
キャンプ場18:00を今晩の宿にする。
 管理施設の一部屋が無施錠だった。(閉鎖すると壊されるため開放していたのか不明)この部屋を使用させて戴くことにした。
 明かりが漏れて怒鳴り込まれるのが怖かった。やぶ漕ぎの疲れで直ぐに寝た。

 
 擬宝珠山から見る 烏ヶ山と大山鏡ガ成国民休暇村

6月11日
 鏡ヶ成6:30出発する。昨日の藪漕ぎで体力を消耗したのか、起床、出発が遅くなった。
烏ヶ山への登山道は、高校生の時登っているので判っている。
 正面登山道を歩く。
「正面〜烏 急登 道良し」キャンプ場の前の道路(925m)を横断し、樹林帯の中に入ると小さな沢を渡り、しばし緩やかな樹林帯であるが、急登となり木の根や幹を手掛かりに登っていく。
 新小屋峠ルートと合流すると、露岩となり直ぐに烏ヶ山南峰(1436m)を通過して
烏ヶ山北峰(1448m)08:30に立った。
 烏ヶ山の頂上からの下りは、一枚岩に残置されたロープを利用し5m程下る。
 鳥越峠への稜線を進む。道はブナ林の中を歩く。右側の烏谷の崩壊地を見ながら樹林帯の道を鳥越峠に向かい歩く。
 樹林帯の中を進む。
「烏〜鳥越 道良し」と記載している。
 △1385.5mの三角点を通過し、
鳥越峠(1235m)10:00到着する。
 峠から100m程標高を稼ぐと1405m稜線に着く、平坦な尾根歩きとなる。
 低い灌木となり東壁が良く見える尾根の上に出る。右に東壁の谷。左手は3ノ沢の素晴らしい眺めの稜線を進むと、草原と岩場の稜線を通過しまだ新しい遭難碑柱に
キリン峠(11:00)の表記がある。
 
「鳥越〜キリン 急登 道悪し」 「キリン〜天狗 道なし 崩壊」
 脆い岩稜の西側を巻きながら登ると、主稜線の縦走路に男女の登山者の姿が見える。登山者の姿を見ると歩く速度が速くなる。

   
 天狗ヶ峰から槍尾根と烏ヶ山  キリン峠の遭難者ケルン

 槍ヶ峰のピーク(1692m)を巻き通過し、天狗ヶ峰(12:30)についた。
 天狗から主稜線を下り、1636mの地点を通過し象ヶ鼻(1550m)にて、先行の登山者に追いつき、言葉を交わした。象ケ鼻を通過して目の下にあるユートピアの小屋に立ち寄る。
 
ユートピアの小屋で昼食、大休憩(13:00〜14:00)三鈷峰を眺め振り子沢や東北の斜面の花を眺めた。
 (これは嘘。当時花を愛でる 気持ちはなかった。)
 象ヶ鼻に登り返し、稜線を下り振子山(1452m)から北方向に進み、急な道を下って親指ピークに向かって進む。
 親指ピークから見る三鈷峰の東面は泥壁の絶壁である。木の枝、根っこを持って登り下ると、視界のないブナの中の野田ヶ山(1344m)
15:30〜16:00の頂上から真東方向に緩やかに下っていく。
 
「ユートピア〜野田 道急 悪い」 「野田〜大休 道良し」
 
大休峠の小屋16:30に着いた。ブロックで出来た小屋の中にキスリングを投げ込むと、ポリタンクを持って大山滝方向に数分進み、水場に着いた。
 振り子山の中腹から水が流れ、岩に掘られた洗面器より小さな窪みの中にイモリが一匹休んでいた。
 落ち口から水を採取しているとイモリはいなくなった。
 登山最後の夜。
 大休峠はブロック造りで、中に入ると土間に、火が炊けるように仕切られた部分がありその奥が、4畳程の板場で2段の寝室があった。
 大休峠小屋は平たん地の峠にあり、周辺はブナ林中にある静かな小屋である。
 (平成3年9月の台風19号の時にブナの大木に大きな被害が出た。野田ヶ山や、矢筈ヶ山に沢山の倒木が見られ無惨な山となってしまった。)
6月12日 
 登山の最終日である。
 小屋の土間で、ザックの中のゴミを燃やし、
06:30小屋を後にする。
 小屋の裏から始まる急登を200m登り、ピーク1300mからは緩やかな稜線で、矢筈ヶ山(1358m)まで距離600m程で60m弱の登りである。

 矢筈ヶ山
の山頂(07:30〜08:00)には、三角点の測量の櫓が残っていた。
 櫓を登ると、板で出来た床が傾いたままあり、四周を見回すことが出来た。
 これから行く甲ヶ山の頂きと壁がそそり立っている。
 60m程下り小矢筈のピーク(1313m)に登り返す。
 急峻でやせたピークを通過し痩せて灌木の稜線を進むと、緩やかの稜線を進み、甲ヶ山の岩壁の基部に立った。
 基部は傾斜した岩場だが、基部に近くの壁際は不安もなく歩け、回り込むようにしてトラバースし進み急峻な岩稜を登る。
 100m程登り
甲ヶ山(1338m)(09:30)360度の視界がある。南側は今来た道で、北には勝田ヶ山を経て船上山への稜線。
 大山火山の外輪山で東西は急峻で東側は矢筈川700m、西は甲川へ500m高度差がある。
 
「大休〜矢筈 急登 半分悪い」 「矢筈〜甲 道悪し 壁急」
 ゴジラの背という岩稜は歩きにくい。樹林帯に入り、勝田ヶ山までの稜線は木々の間に東側の展望が開ける。
 
「甲〜勝田 道悪し」 「勝田〜船上 道良し 下り」
 甲からの稜線を下り、少し登り返したところが勝田ヶ山だが、その三角点(1148m)は頂から80m程下った地点にあり展望は無い。  測量した当時は三角測量、推測だが豪円山、鍔抜山や東伯の山々と構成したのだろう、視界はあったのだろう。
 甲ヶ山から樹林帯の中を歩く、踏み跡はしっかりついていて楽しい。
 天王屋敷分岐を過ぎ、樹林帯の穏やかな道を下ると船上神社の横に出た。

 船上山(11:30)
大きな石碑の横にブロック造りの船上山避難小屋を横に見ながら歩くと、一ノ木戸の石垣は何時の時代の物だろうか。道幅はぐんと広くなり、後醍醐天皇、名和長年の英雄をたたえる明治時代の拡幅だろうか。
 ジグザグに道を下ると横手道の分岐を過ぎる。
 「船上〜茶園〜山川木地 道良し」
 茶園原を下ると小屋を過ぎ、登山道から自動車道となり、山川木地の集落のバス停でバスの時刻を見ると、まだまだ時間がありすぎるので歩き始める。
 小一時間ほど歩いた高岡のバス停で少し待つと大父木地からの、赤碕駅行きのバスに乗車できた。
 赤碕駅で列車に乗車し出雲と帰った。

 
 船上山 茶園原の小屋

 4泊5日の登山は終わったが、若い時で山の知識・技術も乏しい単独登山で、緊張感に包まれたが充実した山行だった。
 山行の前に受験した火薬類取扱保安責任者は、2次試験へと進み合格した。
 
火薬類取扱保安責任者乙種
 発破現場等において火薬類を補完・消費する際等、種々の保安に関する責務を担う者で、火薬類の貯蔵合計量は年間に20t未満、また消費合計量は1ヶ月に1t未満に限定され、薬量100gの爆薬は1日500本(就労20日)の発破ができる。
                 登山した山等の説明
犬挟峠
 急峻な線形、幅員狭小区間が多く、冬期には積雪量が多いこともあり通行が困難な道路であった。
 犬挟峠道路の開通後、1997年10月国道の指定から外れた。
蒜 山
 象山、擬宝珠山、二俣山、皆ヶ山、上蒜山、中蒜山、下蒜山の各峰で構成されるが、通常は上蒜山・中蒜山・下蒜山を「蒜山三山」と呼ぶ。
 北隣の大山山系より形成は古いが、特徴や成分も似ていて形成過程を重複している部分も多く、大山山系の側火山・外輪山と見ている。蒜山は約100万年前〜約60万年前に活動を停止した火山で、蒜山高原は古くは巨大な淡水湖であった。
 昭和34年(1969)、ステゴドン(東洋象)の臼歯の化石が発見された。
 山名の「ひる」は「蛭の住むような広い湿地」で「ぜん」は山。
 蒜山には、巨人が住んでいて、中蒜山と下蒜山を跨ぐとき自分のフングリ(睾丸)を引っ掛けたので「ふんぐり乢」と呼ぶ。
皆ヶ山
 蒜山連峰の1つ。60万年前の噴出トロイデ火山。古くからブナ林に覆われていたが、上部はネマガリダケに覆われ、ブナ等が茂っている。山名の「皆」は水気の多い地。ブナに覆われた水源豊かな山。
烏ヶ山
 大山の南東にそそり立つ鋭峰。大山の寄生火山ではなく独立峰で、北面に爆裂口と見られる烏谷があり、周辺に火砕流の堆積による雄大な高原地形を持つ。
 笠良原から仰ぐと、怪鳥のまさに羽ばたかんとする姿に見え、残雪期の東面に黒く鳥形が現れるなどが山名の由来。
 東麓の鏡ガ成に国民休暇村ができたが、原始性は失われていない。
 成因としては新期大山火山に属し、約2万年前の活動で大山の弥山、三鈷峰とともに形成された巨大な溶岩ドームである。大山山系より少し離れた場所に位置しているため、蒜山火山系の一つとする説、大山火山の外輪山の一つとする説などもある。
 山頂からは大山南壁・大山東壁、蒜山三山などの眺望がある。
 鳥取県西部地震の影響で頂上付近が崩落し2001年8月以降登山禁止となったが、2016年7月30日に禁止措置が解除され、現在は再び登山可能となった。
大 山
 『出雲風土記』(天平五年(733))に、火神岳の名で登場する。我が国で最も由緒のある山の1つで、大山隠岐国立公園の中心にあり、歴史、民俗、自然科学の面でも傑出したものが多く、名実ともに中国山地の王者である。
 日本海に面した独立峰であり、気象条件、地質地形条件が厳しく、特に冬季は「寒気の吹き出し」の影響を受け、標高に似合わず遭難事故が多い。中国地方の他の山々とは全く異質の山である。
 山体を形成する角閃石安山岩は軟らかくもろい。激しい浸食作用により、登山道の転変が多く、頂上と通称される弥山への道は夏道ルートと行者谷ルート以外は閉鎖されている。特別天然記念物ダイセンキャラボク純林を縫って頂上に達する。
 元谷をベースに、大屏風岩、小屏風岩、別山、天狗沢、中ノ沢、滝沢などの岩場がある。
岩はもろく、登攀には高度の技術が要求される。南面の南壁はすべてガレ壁で、登降は勧められない。
 大山の名をより高めているのは、史跡の豊富さと荒らされていない生物相とにある。
 『出雲風土記』には、大山を杭にし、弓ガ浜を綱にして島根半島を引いてきたと記され、大化改新(645)前後には修験者の大道場であり、興亡栄枯を繰り返し、その遺構が全域に残され、現存する大山寺と大神山神社の門前町が大山寺の集落。
 大山の北東部、大休峠から北へ12km続く魅力的な縦走路。植生、史跡、古戦場、岩場など、どれをとっても中国山地第一の呼び声が高い。
矢筈ヶ山
 矢筈型の双耳峰で、三角点を大矢筈、北の岩峰を小矢筈。
甲ヶ山
 大山の火山活動によってできた山で、甲冑の甲に見立てられてこの名前がついたとされている。
船上山
 後醍醐天皇が名和長年を頼り隠岐島から脱出し船上山で旗揚げし建武の新政を開始した。
 船上山の頂上は平坦で湧水も豊富。
 船上山の断崖は有名で、溶岩の冷え固まった断崖絶壁が数kmにわたって続き、断崖の地形は天然の要塞となり、要害堅固の地であり、古戦場としても知られる。
 船上山は、大山火山の噴火でできた外輪山の一部といわれる。