俺、大山雄二は今年で61才になった。
20代の頃は、土日はロッククライミングのゲレンデに通い、長期の休暇をもらうと、日本の壁を登っていた。
車の無い俺は、隣町の斐伊川駅で下車し、友人と落ち合っては阿宮行きのバスで、岩海のゲレンデに通っていた。ゲレンデまでの20分程の車内では、いつも仲間との楽しい会話で盛り上がっていた。
岩海のゲレンデは、斐伊川岸からそそり立ち100m程の高さをもっていた。MACCや俺達出西クライマーズクラブ(ICC)が共同で開発し、壁が3箇所に分かれ北からドーム、傘型ハング、フェース状岩壁と、それぞれ趣があり色々な登攀が楽しめた。
ある年、岩海ゲレンデで岳志会が主体の海外登山報告会があった。
山行報告会は、5月の土曜日の夕方から岩海ゲレンデ下の広場で開かれ、俺達の会は7名参加し、山陰などの山仲間が50名ほど集まり報告会とキャンプがあった。16時から報告会が開かれ、18時過ぎから焼肉会となった。
会場は幹事会の出雲山岳会が準備し、肉とタレは各会が準備した。俺達の会は市販の焼肉のタレにニンニク、りんご、ゴマなどを擂りこみ1週間前から準備していた。
帳が落ち、カーバイトランプやヘッドランプを点灯し、会は盛会に過ぎていった。ICCの中堅になっていた俺は若い会員を連れて、T会、H会と周り玉峰山の会にいった。
玉峰と俺たちのリーダが、大学の先輩後輩の関係で、交流も盛んであった。
俺と懇意だった高田が居て、話が盛り上がった。その時高田の隣に従姉妹の稲刈という娘がいた。高田からこの娘は岩も登れるからと紹介された。
高田はICCの夏合宿に参加したいと言い出した。合宿前に岩海でトレーニングと呼吸を合わせたいという申し出があった。
6月の下旬に玉峰の連中が岩海にやって来るというので、いつものようにバスでゲレンデに着てみると、玉峰山の会は既に取り付いていた。俺達も準備が出来た者から、岩に取り付いていった。
俺は、玉峰のリーダの佐竹に挨拶すると、佐竹は高田を指差し「後で一緒に登ってやってくれ」と言い、「孔雀のテラスから獅子岩のハングを結んだルート」を指定してきた。
俺は一番若い今田とザイルを結び、やさしいスラブからフリーが主体のルートを登った。隣のルートを赤ヘルメットの女性が攀じていた。二つのルートは上部の凹角テラスで合流し、上に伸びるルートと、左に逃げるやさしいルートがある。
スラブから階段状そして凹角に入りテラスに達した。テラスでは、玉峰の植山がビレイピンを譲ってくれた。挨拶をしていると、植山のパートナーが登ってきた。植山はセットを外すと上の凹角ハングを登っていった。
小柄な女性は、俺に会釈をすると「今日の高田は調子が良いみたいですよ」と話しかけてきた。玉峰の女性は知っていたが、その中には入っていなかった。怪訝な顔をしていると、「報告会の後の焼肉会で会いましたよね」と念を押してきた。ヘルメット姿で思い出せなかったのだ。
今田を確保しながら夏はどこに行くのか聞くと、会の山行とは別行動で北鎌尾根から槍、北穂、奥穂そして西穂までリーダの佐竹と女性3名で登るという。「北鎌から西穂は、楽しいでしょう。素晴らしいルートですね」と、相槌を打った。
今田が登ってきた。今田をそのままトップで進ませる。左に行くルートは3級下であるが、嬉しそうに今田のザイルは伸びていく。
「ICCの大山です」と名乗ると、「高田から大山さんの話はよく聞いています。私は草刈です」
「あの 稲刈さんでは」
「それは高田が付けたあだ名です。私は農家の生まれで、高田が近所に寄った時、手伝いで稲刈りをしていたのを見て、『草刈が稲刈をした』といって、笑い あだ名になったんです」
昼になって高田とザイルを組む。孔雀のテラスから獅子岩に伸びるルートだ。
このゲレンデの上部にある傘型ハングの中央にある[孔雀のテラス]から右にスラブをトラバースして獅子岩のハングに取り付くルートで、この獅子岩ハングはトップを務めた者はまだ10人といない。
ICCの山行は7月20日土曜日から8月2日の日曜日までと決まり、玉峰は7月24日から8月5日と決まった。
19日の夜汽車で出発すると、20日の夜は徳沢園にキャンプし、21日の昼過ぎに涸沢にベースキャンプを設営する。テントを張っている間に、北穂の南稜にアタックテントを荷揚げする。俺と田中、今田の三人で滝谷を24日の昼まで登る。
21日は一番近いドームの北壁を登った。22日からクラック尾根、1尾根、2尾根、4尾根、ドーム正面壁を登って24日の昼に上がってきた仲間と交代し涸沢に下った。25日は若い連中をつれて前穂の北尾根をⅤ・Ⅵのコルから登って前穂の頂上に立った。前穂から奥穂への最低鞍部から涸沢カールへの近道をベースキャンプに下った。
26日、俺は一人で横尾に下った。横尾の小屋の前で玉峰山の会と落ち合った。
高田と俺は、岩小舎の前で皆と別れると、屏風の登攀に向かった。T4尾根を登る、高田の登攀振りを見ると身体は軽そうに動いている。
16時にT4テラスについてみると、既に4・5パーティがビバークの体制に入り、その上の壁には数パーティの人影が見える。
先着の連中に聞いてみると、青白のハングに向かうのは俺達だけであった。登攀開始を5時に決めてツエルトで眠る。
27日4時ごろからT4テラスが賑やかになり予定よりも早いが俺達も行動開始をする。オボスポーツとチーズ、ソーセージを食べると、4時半に登り始めた。テラスから左のバンドを進みそこから大テラスに登っていった。
屏風の頭から水平道を歩き涸沢に着くと、仲間はビールを飲んでいる。高田が素早く連中から500の缶ビールを2本脅し獲るとザックの中に入れていた。
Ⅴ・Ⅵのコルに登ると、奥又白の池に向かって小さな踏み跡下り、前穂東面のガレ場を越えて池のほとりに立った時には、既に日が落ちていた。池にビールを浸すと、ブッシュの枝を利用してツエルトを貼った。待ちきれない俺達は、直ぐにブッシュに吊ったビールに飛びつく。
28日Ⅳ峰正面に取り付く、北条新村ルートを登るとⅢⅣのコルから雪渓を下り、右岸稜古川ルートを登り、北壁を下降すると田山ルートを攀じる。前穂の頂は既に夕闇に包まれ始めていた。
穂高岳に向かって吊り尾根を歩いているうちに完全に暗くなりヘッドライトを点け、奥穂の頂上に着くと、高田は、「ここでビバークをやろうぜ、日本で3番目の頂だ」と話すうちにザックからツエルトを出し始めた。「オマエここが限界だろう」と言うと、「日本で2番目かな」といいながら、コンロを取り出している。
ここが今夜の寝床と決めると平坦な地点を選びビバークの体制をとる。夏の稜線といっても氷点下近くまで下がる。それでも俺はツエルトでなくこのまま眠りたい、星を見ながら、流れる星を見てみたいと、近くに場所を選んだ。
奥穂の頂から上高地の明かりが見え、稜線の山小屋の明かりが星のように見える。静かに大空を見上げると、新月に近いため、暗い大空には怖いくらいの満点の星空が広がっている。
寝袋カバーとヤッケの上下だけでは寒くて震える。コンロを取り出しコーヒーを沸かしたり、ブランデーを取り出したりしていると、高田もゴソゴソと起きだしてくる。
4時を廻ると周りは日の出を見る登山者で埋まり、 荘厳な朝のセレモニーは、何回体験しても厳粛な思いを抱かせる。
登ってくる登山者と駆け引きをしながら穂高岳山荘に向かって下る。山荘の前は大勢の登山者が出発の準備をしている。ザックに取り付けたザイルとヘルメットが場違いな感じがする。
山荘から北穂への途中でドーム正面壁を登ると、北穂の小屋に移動する。小屋のデッキでコーヒーを飲んでいる時、佐竹に連れられた草刈達三人が北鎌尾根から槍ヶ岳に登りキレットを通過して北穂小屋に着いたところだった。佐竹から秋の山として吾妻山に誘われ、草刈からも是非と誘われた。
北穂から佐竹らは奥穂から涸沢に周り、俺らは1尾根を登ると南稜を涸沢に下った。
翌日は、俺と高田がテントキーパーになった。朝から涸沢ヒュッテに行くとビールを買ってくる。佐竹達が下りてくると賑やかになった。その時草刈の住所を聞き出した。
穂高から帰ると、北穂で写した草刈や屏風等の写真を送った。折り返し、ゲレンデでの写真をもらった。秋の吾妻山には是非と誘われ、中に押し花が入っていた。
10月下旬、毛無山から烏帽子山にそして吾妻山と歩いた。12月中旬、高田と草刈の三人で雪の鏡ヶ成から烏ヶ山に登り大山の頂上まで縦走した。
二人の山行が多くなり、会の仲間と離れて行動する事が多くなったが、会の集中合宿には必ず参加していた。二人が付き合い始めて、3年目、草刈の母が入院し、山に入る事が少なくなっていった。そんな中、俺の転勤の話が持ち上がり、4月に横浜に転勤する事になった。俺は草刈に結婚を申し込んだ。
草刈は、弟や妹が小さく、母親代わりとなった今は結婚出来ないと涙を流した。
俺は8年近くすごした町を離れて横浜に転勤していった。
手紙のやり取りはしていたが、俺は1年後に過労のため3年間の闘病生活を繰り返していた。
草刈との文通も途絶えた。高田に草刈の近況を尋ねたが、「母親が亡くなり結婚が出来なくなった」と聞いた。
病院を退院したが、静養を言い渡され山から遠ざかっていった。榛名山の家の管理人をし、5年程寮長をしているうちに、快方に向かい、現場の仕事に復帰した。定年を迎え故郷の近くの米子市に帰った。
兄が所有していた土地をもらい小さな家を建てた。
ある日、安来の町で山藤と出会った。
山藤とは、昔一緒に山に登った間柄であり、色々と話しているうちに、今は登山用具店の社長をしていて峰の会の面倒を見ていた。
会の面倒も少し見て貰いたいと入会を進められた。
長い間遠ざかっていた山への憧れが湧き上がり、峰の会に入会した。峰の会は、定年者が中心の人を対象にした会であった。月一回のハイキングと4ヶ月に一回の大きな山行が計画されていた。
山行の参加費と年間の登山の保険料を納めれば良いという気楽な会であり、自由に集まり歩きまわっていた。
3年目の夏は、新穂から双六小屋に登り、槍ヶ岳そして上高地に下る4泊5日の山行が計画された。
早朝 島根県庁前を出発したバスは安来、米子と数人ずつ乗り込み山陰の町を進んで行った。
バスが勝央SAに入り休憩した時、何処か面影のある女性の姿があったが、思い出せないまま車内に戻った。
バスがSAを出ると、山藤から山の資料が配布され一通りの説明があり、参加者の自己紹介が始まった。名前と山歴そして今回の思いなどが語られた。
中年の男性の番になった「吉村といいます。妻に誘われて数年前から登っています。妻は昔北鎌尾根から奥穂まで縦走していますが、私は始めての北アルプスです」というと、女性が「皆さんの中に、昔一緒に色々な岩壁を登られた方が居られますが、私も年を取り覚えておられないでしょうネ」と、俺の方を見て微笑んだ。
草刈民子との空白の30数年が突然埋められた。
俺の番が廻ってきた。「私は、若いとき3年ほど病気になり、会社の山の家の管理をしていました。体が癒えて一人で登っていましたが、定年後米子に帰って来ました。今回ご一緒させていただきました」
バスが大津SAにて大休止になった時、民子が夫を連れて来て俺を紹介した。
ベンチに座ると、お握りを進めてくれた。その後の二人の生活を語り合った。私が独り身というと、夫との出会いを語った。
夫とは高校時代の同級生で、卒業して10年目の集まりで再会し結婚した。
民子の弟達も就職し、家を出たため結婚が出来る環境になり、吉村の申し出で結婚した。松江市内で寿司と蕎麦の店を数店経営し、今は息子夫婦が切り回しているそうだ。
新穂高に着いた時は15時を回り、暑さも少しおちて歩き易くなった、蒲田川左俣沿いの林道を三々五々、仲間同士、知り合い同士が歩いた。俺は、民子夫婦と歩きながらそれからのお互いの状況を語った。1時間半程歩きワサビ平小屋に着いた。
宿泊者の食事が終わってから、我々の食事となり宴が始まった。翌日の行動について説明があり、サブリーダーとして俺が紹介された。
翌日は、6時に出発し、一列縦隊で進む。山藤が俺に先頭を歩くよう進めた。今日から全体のペースメーカとして歩くようになった。林道を離れると、河原の中を歩く。潅木の中を進み、露岩となり小池新道を登っていく。秩父沢で休憩し、冷たい水を飲んだ。民子夫婦をみると、ポリ容器に水を補給していた。
灌木の道は徐々に傾斜がきつくなってきた。枯れた沢の中を登ると鏡平ノ池にでた。小屋まで2分もかからないが、大休止にする。今朝は風がなくきつい登りになったが、池は静かに波も立たず絶好の撮影日和となった。槍ヶ岳から穂高のジャンダルムまで稜線がくっきりと青空に映え、池に映し出している。
山藤と相談し、山藤が最期となり、11時までに小屋に集まるよう指示すると、自由に歩くことになった。俺は、民子夫婦の写真を撮ってあげると、民子は夫に峰々の説明をし、キレットを歩いた思い出を語っていた。北穂の思い出が甦っていることだろう。俺は早々に小屋に向かった。昼食のため小屋のベンチを確保するためだった。
11時半に小屋を出発しいよいよ今日最大の登りにかかった。1時間ほど頑張ると、弓折岳の分岐に出た。分岐にザックを置くとおれはザック監視のため残ると、山藤ら全員で頂上を目指していった。
双六小屋までの稜線は、右に槍から北穂、そして穂高までの3000mを越す峰々が、左に双六岳から黒部五郎のなだらかな対照的な稜線が続いている。平らな尾根の中に雪田が残っている地点を過ぎ青空の中をゆったりと歩いていく。ハイマツの山腹を進むと双六池の向こうにテント村が見え、その中を進むと14時に小屋に着いた。
小屋の宿泊は、自炊場の上にある2段ベッドの上下とその前の畳の部屋が割り当てられた。食事は一般の人が終わった後の18時頃の予定となった。小屋の人に確認すると、今日は雷雲が発達しないから夕立がないとのことで、双六岳までの往復の人を募集した。
15時に小屋の前に集合すると出発した。小屋の前から直ぐに、ハイマツの中の急な登山道を20分余り登ると、三俣山荘への巻き道、そして中道の各分岐を過ぎると再び急な登りとなり、広い岩礫の稜線をなる。双六岳の頂上で写真をとる。
槍ヶ岳が正面に広がる広い稜線は穏やかで気持ちがいい。空身の歩行は心地よい。直ぐに分岐となり小屋が真下に見えるハイマツの道についた。目の前に見える明日登る西鎌尾根の山の斜面が見える。「明日登る道が見えますが、ゆっくり登ればいいだけです。硫黄乗越までは難所は有りません」と説明すると安堵の声とジグザグの道に嫌気がさしている人もいた。
小屋に帰ると、民子がビールのジョッキを準備してくれっていた。夫と三人で飲んでいると、山藤が「仲間に入れてください」といいながら缶ビールを差し入れてくれた。山藤は吉村夫婦と俺の仲に入ると「俺は、仲間にも音信不通の時機があって死んだのかと思ったんです。横浜に行って直ぐにだ」と笑いながら話した。
俺は、「管理人を8年間していたが、会社に助けられ、山の家に居ながら登れなかったのは辛かった、でも、本当はザックを担ぐことも出来なかった」
翌日も素晴らしい天気となり、6時に小屋を出た。
小屋の前から、稲妻のようなジグザクに折れ曲がった道を登っていく。15分歩いても、小屋はすぐ下に見える。
三角点を過ぎ、緩やかな上り下りをしながらハイ松やお花畑の道を進んでいく。岩場の鎖を持ちながら登るようになると、いよいよ槍に向かって登っていく。天上沢に入り、ガレの斜面を登っていく1000m、900mの距離が岩や石に記されているが、その間隔の遠いことに、皆がうんざりしている。
300m置きに休憩するが、後ろから「まだ」の催促の声に、150mに間隔を狭め、最後は100m毎に休む、上部に大きな岩が見え避雷針が見えた。岩と岩の間を回りこむと小屋の前に出た。双六の小屋から6時間半で着いた。
山藤が、「ここで昼食にします。今日の小屋は下に見える殺生ヒュッテです。14時に全員集合してください、槍の穂に登る人と小屋に下る組み分けします。槍の穂に行く人はビールはやめてください」続いて「俺さんと、石川さんは、ザイルを持って、少し早目にこの場所に来てください」と指示をだした。
槍に登るものは15名で、小屋に降る者は10名であった。
山藤は、参加者の顔を見ながら、組み分けしていった。
俺の組に4名を割り当てた。その中には、民子夫婦と、看護師の春日と田中だった。
時間をおいて各組は小屋から槍の基部に移動した。岩場を5m程登る間に技量を確認し、5人が集まれるガレ場で全員が簡単なハーネスを付けザイルを結んだ。トップが俺で次が春日達との中に民子と夫の順にした。
俺は登りながら、前のパーティの進み具合を観察しつつ登っていく。そして、全員を待たせると10m程登り確保の体制をとると一人づつ登らせる。ホールドの位置スタンス、右手を少し上と細かく指示しながら登らせる。民子はバランスよく登りながら夫を補助しつつ登って来る。
鎖や最期の垂直の鉄梯子を登ると、狭い頂上に立った。頂上からは常念から燕、鹿島槍から鷲羽そして水晶、笠から黒部五郎、薬師から立山、穂高の連峰が美しい姿を横たえていた。山頂に立った仲間から感激の声が上がる。民子は夫との握手をしあっていた。俺は民子の夫から手を差し伸べられ握手を交わした。民子そして春日とも握手をした。
山藤が「写真を撮りますから、カメラのお持ちの方はカメラを預けてください。無い方はこちらで取ります」お互いに写真を取り合っている間に、民子は祠の裏に回ると北鎌尾根を覗き込んでいた。
槍の穂から降り全員がそろうと殺生小屋に向かって下った。
翌朝は霧が立ち込め100m程の視界の中を一列になり下っていった。坊主岩小舎を過ぎモレーンの岩の上で小休止をしながら遅くなっている者を待っている時、霧の切れ間に槍の穂が青空の中に現れた。「綺麗だ」「素晴らしい」等の感嘆の声が上がる時、民子夫婦が「秋の山は甲斐駒だそうですよ」「ご一緒出来れば良いのにね」と誘ってくれた。
ハクサンイチゲやシナノキンバイのお花畑を下ると槍沢雪渓、大曲やババ平を過ぎ旧槍沢小屋の石垣で小休止を取る。ホースから流れ出る水で顔を洗い水を飲む。雨具を着ていた人たちは脱ぎ始めた。
民子が「私達が登っていた時は、ヤッケは谷の中では着なかった」と話しかけた。「そうだった、雨にならなかったら」と答えた時、剣の朝を思い出した。冷えた雪渓は、キックステップでも跳ね返される程ガチガチだった。、長袖一枚だが急な登りは歩くだけで汗をかいた。民子は「熊の岩まで朝が来ているよ」と嬉しそうに言っていた。
赤沢岩小屋を過ぎ槍沢ロッヂで大休止を取る。
ベンチでコンロを取り出していると、民子夫婦と山藤がやって来た。「俺さんコーヒーでいい」と、言いながら民子がザックの中からドリップ式のコーヒーを取り出した。山藤が「雄二は、コーヒーはインスタントしか知らなかったよな」「ゴールドブレンドが最高と言っていたが、民子さんが山小屋にサイホンを上げた時は、目を白黒させていた」と、昔の話を出してきた。
二ノ俣、一ノ俣の橋を渡り穏やかな登山道になった。横尾山荘の前から自由行動になった。河童橋に17時までに集まる指示が出された。
俺は、横尾の岩小屋を見に行くことにした。山藤に話すと、民子夫婦も一緒に行く事になった。
大橋を渡り横尾谷に入り屏風の岩壁を見ながら歩いていくと強風に倒された無残な大木を見る。横尾の岩小舎は見るも無残な状態になっていた。唖然としてみていると、山藤が「河原から1m以上も上にあり、屏風の取り付きに便利だったのに」と懐かしんだ。
見上げる屏風には誰も取り付いていなかった。俺は「昔は、同じルートを登るのに時間待ちをしたほどだったのに」と見上げていた。
梓川沿いに下る道は、民子と懐かしい思い出を語り合った。
あの時は、5月の連休で、明神から除雪された道を歩き、徳沢では50Cmを越え横尾の谷は雪崩の跡で歩きにくいが、谷の中心を歩いて行く事が出来た。涸沢ヒュッテに泊まると北穂から奥穂に周り前穂に登ると岳沢に下った。
観光客であふれる河童橋から上高地温泉に行き、民子が出てくるのを待ったことがあった。
神田川のような甘い一時もあったが、今日は上高地からタクシーで坂巻温泉に移動して入浴と夕飯を食べた。バスに乗り込むと暗くなった安曇野を走り一路山陰に向かって走っていく。
大休憩の時、次の甲斐駒の参加を民子が聞きに来たが、「日程を見てみないと」と言葉を濁した。日程など無いが、今の民子と夫の姿を見ると素直に参加するとは、言い切れなかった。
山から帰って写真が出来上がると、山藤の店に持って行って、皆に配ってくれるよう頼んだ。
山藤は、甲斐駒の日程を教えてくれたが、俺は一言「参加は出来ないと言って」店を後にした。
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