八ヶ岳連峰の縦走  (2018年)9月
 

 厳冬期の南八ヶ岳に入山したのが45年ほど前の、1973.1.4〜1.10で、単独で厳冬期の南八ヶ岳を縦走した。無雪期にも体験していない未知の山域であった。
 今のように情報も集めにくい時代に、未知の山にたった一人で突入したのは無謀ともいえるだろう。
 稜線は…岩稜は…樹林帯は…ルートは…、何も分からなかった。
   1973年1月6日
 これまでの自分自身の経験、知識、技能、体力で可能と判断し突入した。
 その当時、山陰の書店で入手できる山岳関係の雑誌は「岳人」と「山と渓谷」で「岩と雪」はまだ出回っていなかった。
 「山と渓谷」はワンゲル、ハイカーの読み物で、「岳人」は登山家の愛読書と…、詳しい八ヶ岳の情報はなくて、登山用の地図だけで入山した。
 登山計画はテント泊を基本とし、冬季小屋を利用する。しかし、冬季小屋がどんな状況か不明だった。
 その時の行動は、赤岳鉱泉から赤岩ノ頭に至る尾根上でテント泊、硫黄岳から赤岳を通過しキレット小屋に宿泊、暴風雪の中を権現岳山頂の権現小屋に宿泊。
 翌日は編笠山を通過して下山する予定だったが、しかし、どこを間違えたのか編笠山の手前の青年の家に着く直前、釜無川支流の切掛沢川に迷い込んだ。
 その時の視界は20〜30mであった。開濶地を進んでいくうちに上半身まで体が埋まる、落とし穴に捕まった状態となり、何とか脱出する状態が数回あった。
 開濶地の雪の下に樹木があり、樹木の枝葉に雪が積もり、その下は空洞だった。
 切掛沢川は、編笠山と西岳に挟まれた沢で水源は乙女ノ水である。
 迷い込んだ切掛沢川からの脱出は、左岸の岩壁をよじ登り針葉樹の台地にテントを張った。
 寝る前にテントから出てみると、5キロ以上先に街の明かりが見えた。
 林道編笠線(中央コース)付近を下り下山した。あの当時林道編笠線という地名が無かったと思う。
 あれから40数年。2014年7月北横岳から南八の権現岳まで縦走する予定で入山したが、硫黄岳山荘まで縦走した時、持病の膝の調子で赤岳鉱泉に下山した。
 某企業を70歳で退職し無職になった俺は、2018年9月南八ヶ岳の核心部を歩きたい。
 逆コースであるが編笠山から硫黄岳を歩く予定で入山し、出来れば黒百合ヒュッテを通過し高見石小屋か麦草峠まで歩きたい。
 2018年9月の某日、広島始発の新幹線で、名古屋そして松本駅に12時過ぎに着いた。
 松本駅3階の西口の窓から北アルプスを眺めると、常念岳が高曇りの中に雄大な稜線を見せている。
 あの時(1973年)は、名古屋1832に到着し、名古屋で山の店に寄ることが出来ずに、名古屋発2155の列車で塩尻に到着し、駅舎の西口の外ベンチで寝て、0532の1番列車で塩尻から茅野駅に向かった。
 今回は茅野駅から200mにある「ちのステーションホテル」に草鞋を脱ぐ。
 茅野の市内の居酒屋を探して町を彷徨うが、西口には適当なお店が見当たらない。
 コンビニにてアルコール、ツマミを考えるがコンビニが見当たらないので、ホテルのレストランで食事しビール等を飲んで寝ることにした。
 レストランのメニューを見て、宿泊者には安価で飲食できることを知った。
 ホテルを5:50に出て、茅野駅から小淵沢駅に向かう。
 6:30過ぎに小淵沢駅からタクシーで観音平。小雨状態で雨具の下とロングスパッツを付け、7:30登山開始。 観音平から穏やかなカラマツの明るい登山道を進み、雲海分岐に小さなケルンを見る。小雨から曇りになった。
 8:30雲海のベンチを出発。針葉樹の道を進んで溝状の登山道で転倒した。
 原因は、雨具かスパッツの紐が木の根に引っ掛かりバランスを崩し転倒したが、ザックがクッションとなり大事には至らなかった。
 年に数回の登山で注意散漫になっていて、紐の端末処理ができていなかった。
 雲海を通過すると針葉樹の幹には、鹿等から保護するための幕が巻かれている。
 大きな岩が出てきた。
 押手川分岐のベンチにザックを降ろす。水が流れていない小さな沢がある。
 「やまなしの森林100選『編笠山の原生林』」の看板があり、この林が原生林だと知った。
 休んでいると、単独の男性が登ってきて、男は直接編笠山へと登っていった。
 転倒したためお尻が痛く、編笠山に登り小屋までの下りを嫌い、俺は右手へと進んでいく。
 中腹を巻く道から、沢状になった道を進み、緩やかな登山道に変わった。
 青年小屋の手前で、権現小屋に携帯で電話し予約状況を確認する。
 登山道の傾斜と地図で青年小屋が近いことを感じ、数分後に広い開けた大地に出ると、手作りのブランコがあり、「遠い飲み屋」の赤い提灯が目についた。
 小屋に入り大きな声で挨拶するが、無人のようでありザックを降ろすと、二人連れの女性が入ってきた。
 小屋で休憩し昼飯用の菓子パンを食べようと、ポカリスウェットを求め、箱の中にお金を投入する。女性二人と話していると、若い従業員3人がボッカから帰ってきた。
 権現小屋に向かうため霧の中を出発。乙女の水場に向かうため、小屋の左手のキャンプ場の中を通過して数分で乙女の水場に着いた。
 乙女の水場は1973年にルートを間違えた切掛沢川の源流であり見たかった。
 乙女の水は美味しかった。ポリタンクに2リットル補充する。
 重くなったザックを担ぎ小屋に引き返し、権現岳への道を進む。
 小屋から権現岳方向に200m程進んだ地点に針葉樹の中に開けた地点があり、1973年にこの地点で、開濶地を進み乙女の水場に下りルートを間違えた所であると確信。
 ノロシバに向かうと道は次第に傾斜を増し、森林限界を越えて振り返ると編笠山にかかっていた霧が晴れ、時折、編笠山の頂が見え始めた。
 ノロシバで休んでいると、一人の青年が追いつき権現岳方面にと、西ギボシへと進みガスの中に消えていった。
 俺は青年の姿が消えてから西ギボシへ向かい、ガレ場の斜面をトラバス気味に登り稜線を進み、昔ここを一人で歩いたんだと思いながら進み、東ギボシ直下の岩壁を巻きクサリ場を進んでいく。視界は10m程の霧の稜線を進み権現小屋に着いた。
   権現小屋の2階寝室

 赤い部分は1973年当時は1・2階
吹き抜け
 強度補強対策が実施されている。
 小屋の傾きで床に段差があった
 小屋の外観は少しも変わっていない。
 小屋の中に入ると右手に下足場があり、土間にストーブ、そして板場になっている。
 1973年時の小屋の状況を思いだした。
 始めは小屋の中にテントを張る予定だったが、小屋に入ると左に4畳程の部屋があり、部屋には1畳の畳がひかれていて、中央に小さな丸い囲炉裏があり俺はこの部屋で寝た。
 小屋に辿り着く1時間ほど前から、二つ目玉の低気圧が赤岳に影響を与えているので、小屋に閉じ込められると判断して小屋の中を探索した。
 誰かが置いていったのかデポしたのか、米が置いてあった。米には手を付けなかった。
 個室の中や、山小屋の中に蝋燭のかけらが沢山あり、これを使用させていただいた。
 蝋燭1本でも温かくなる。
 この個室が小屋番の部屋であっただろう。
 この部屋以外は大部屋で、中央に土間があり、左右に板場状の寝床があり、2階には垂直な梯子を上っていくと、厳重に梱包された包みがあり、布団などが格納されていたのだろう。
 現在の小屋は1973年と違い、右手に下足場と炬燵があり、中央の通路は小屋の真ん中までが土間で、奥は廊下となり、その奥に2階に上がる階段がある。
 左手の俺が使用した個室は、外観はそのまま(内部は不明)であったが、現在の小屋番は大部屋の中に部屋で管理されている。
 現在の小屋の状態ははここまでとします。
 管理人さんに挨拶・宿泊の手続きをして、2階の寝室に寝床を確保する。
 ヘッデンを持って1階に降りると、炬燵にはノロシバで追い越した若者と管理人が話していて、今夜の宿泊は5人であり後3人上がってくるという。
 17時前に中年2人組が到着。あとは広島の人が来るという。不審に思い管理人に聞いてみると、予約と昼前にもう一人から電話があったという。それは、俺の確認電話だと伝えた。
 夕飯は、カレーの大盛と生野菜のサラダであった。
 翌朝の出発は、2人組が早朝に先発したが気が付かなかった。
 そして若者は朝食が済むとすぐに出発し。俺が一番最後。
 本日は雨の中を進むことになるのか…。
 6時過ぎに小屋を出て、小屋の左上を権現岳の頂方向に少し進むと、クサリ場を進んで61段の源次ハシゴを下りきると、稜線を旭岳に進む。
 この稜線は1973年に歩いた時は猛吹雪であった。
 今回の縦走では、旭岳からクサリ場が連続した稜線で、昨日の転倒の影響で体力を消耗し、歩きが遅くなっている。
 あの時、そう1973年は旭岳周辺にはクサリ場は無かった。雪の中に埋もれていたのか。
 ツルネは南峰と北峰があり、2つの小ピークが連なっている。
 北峰を通過して下っていくと、稜線から外れ右下に下り、崖崩れの道を進むと、キレット小屋の前に出る。真新しいキレット小屋は、2階建てになっている。
 昔の小屋は1階だけで窓が外され、風が自由に出入りし、窓から中に入れた。
 その時は小屋の中にテントを張って寝た。
   1973年

キレット小屋から
天狗尾根を写す
 小屋から赤岳方向に進み・2504手前の狭い広場に出て、そこから少し急な道を登り、・2504から下ると天狗尾根ノ頭への急な登山道を進む。
 次第に天候が回復してくる。
 天狗尾根ノ頭への道は、岩壁状の急峻なルンゼが続き、ハシゴやクサリを利用して、高度感のある岩場を進み、落石に注意しつつ進んで行くと、赤岳からの登山者とすれ違うが、権現岳からの登山者はいない。稜線上で休む。
 稜線に上がり赤岳に向かい進む。新教寺尾根分岐を通過し、岩稜の道を進んで竜頭峰を通過し、赤岳(2899)の頂上に立った。
  稜線から茅野市付近を見る
   赤岳天望荘と赤岳山頂
 赤岳頂上山荘で遅い昼食をいただき、赤岳展望荘に向かい、岩礫の急斜面を下り、風車が数台回っている天望荘の食堂で温かいコーヒーを頂く。
 生気を取り戻し天望荘を出ると、霧が上がり青空が見え、茅野市側の景色が見えている。
 本日の宿泊小屋「硫黄岳山荘」を目指して稜線を進む。
 赤岳から天望荘までは稜線という感じだが、ここから岩稜となった。
 冬の南八ヶ岳単独縦走の時は、技術・体力・気力もあり、稜線をただ歩いて、危険性や困難は感じなかったが、70歳の今は技術・体力・気力も落ち、夏の稜線を初めて見て、厳冬期は困難な稜線だったんだ感じ、無謀な行動をしたものと思う。
 地蔵ノ頭、二十三夜峰と進み、クサリが連続する凹状のルンゼを通過して日ノ岳、そして鋸岳を西側に巻いて通過し進んでいった。
 その時、西側巻いて進んだ地点があったが、そこが鋸岳だったんだ。
 石尊峰、三叉峰(2825)と進んでいくが、地名は地図はネットで承知しているが、当時はただ吹雪の中を進んだいただけだった。
 横岳(2830)付近で小同心、大同心の岩を見るが150m程の岩壁が下方に見える。
 岩稜の横岳を通過して台座ノ頭(2795)に近づくと、稜線は台地状の尾根に変わった。
 15時過ぎに硫黄岳山荘に着いた。
 前回(2014年)登った時、シャワー室を利用するため行ってみると、コインを投入する機器がなく、使用していると温水が出てくると勘違いして、入ったが冷たい水だけだった。
 その後、フロントに500円を差し出すと唖然としていた。
 今回はフロントにシャワー室の使用を申し込むと、温水が出て気持ち良い一夜になった。
 早々に寝床に潜りこんだ。
 本日は硫黄岳山荘から黒百合ヒュッテまでの4時間ほどだけど、昨日は相当疲れたのと、膝が痛くてどうにもならない。
 同室の登山者に膝の痛みを話すと、バッファリンを譲ってくれた。
 俺は鎮痛剤を服用しどこまで歩けるか不安だが、夏沢峠まで前進し様子を見ることにした。
 山荘を出発し稜線に出ると、西風が強くストックを突かないと膝の不安で、体が維持できない程で、硫黄岳を通過して樹林帯に入ると緩和されると思う。
 硫黄岳山頂台地から、爆裂火口を右手に見ながら下ると石積みのケルンが並び、登山道は稜線のやや西側にあり、強い風の中を下り岩陰で休んで、夏沢峠まで下る。
 鎮痛剤を服用しても歩行に不安がある。痛いと思うと足に体重がかけられない。
 夏沢峠(2440)の山小屋は2軒(山びこ荘、ヒュッテ夏沢)とも閉じられている。このまま進んで次々と現れる山小屋の状況が判らないし、膝に不安があり軒下で雨宿りしつつ考えた。
 本沢温泉に下るか、黒百合ヒュッテに進むか…。
 日本最高所の露天風呂も魅力があり、行ってみたいと考え始めた。
 日程を切り上げて山を降りて何をするか…。
 木曽路の妻籠・馬籠宿を訪ねてみたい。また、松本の町で馬刺しで一杯やりたい…等と色々と、悪い考えが浮かんでくる。
 こうなるともう下界に向かって一目散。本沢温泉目掛けて下りることにした。
 苔やキノコをカメラに収めつつ下る。倒木が数本道を塞いでいる。
 コースタイムは夏沢峠から温泉まで40分とあるが、雨の中を2時間かけて下った。
   登山道から

雲上の湯を見る
   本沢温泉
 登山道が平たんとなり、硫黄の臭い漂い露天風呂に近づいた感じ、右下の沢を見ると、露天風呂(雲上の湯)が谷の底に見えた。
 浴槽には蓋がしてあり入浴者の姿が見られないし、湯舟以外の施設は見えない。
 雨の中の入浴は乙な物だろうが、そんな風流を楽しむ人はいないようだ。
 露天風呂の分岐を過ぎて数分後、本沢温泉の玄関先に立った。
 雨具を脱いで中に入ると、少し早いが草鞋を脱いだ。
 2階の大部屋20〜30人位の部屋に案内される。
 個室から話し声が漏れ、何組かの連泊者か、早く着いた宿泊者だろう。
 昼食にするには時間が早いので、建屋の中を探検してみると、談話室の奥に自炊場があり、増築の歴史を感じられた。
 本沢温泉は原田豊三郎氏が小屋開設した。八ヶ岳を挟んで、佐久地方の小海・野辺山と諏訪地方の諏訪・茅野を結ぶ旧街道の夏沢峠を往来する人の安全や利便の為に、明治15年(1882)、湯川のほとりに宿を構え、湯治にも利用され、創業百三十有余年。
 冬季も営業し、温泉では日本で3番目の高所にある温泉(2100m)である(最高所はみくりが池温泉2411m)が、露天風呂としては最高所で、通年営業の温泉宿としては日本で2番目の高所である(最高所は赤岳鉱泉2215m)。
 なお、赤岳鉱泉の温泉は通年営業(宿泊は通年)ではなく、加熱不要の高温泉としては「通年営業の日本最高所の温泉」である。
 本沢温泉の内湯は24時間入浴可。
 露天風呂「雲上の湯2150m」は日本最高所であり、風呂の大きさは10人位入れる。
 赤岳鉱泉は「温泉と言わないのは何故か」
 調べたが、どこにもはっきりした答えがなかったが、Yahoo!知恵袋に次の記載があった。
  日本では源泉温度が25℃以上でないと「温泉」とは認められません。
 赤岳鉱泉の泉温は10℃?らしいので、多分沸かしているのでしょう。湯量も少ないです。
 (なお、冬季は配管凍結のため、温泉入浴は出来ません)
 露天風呂「雲上の湯」に行くため、雨が上がるまで談話室で過ごすことにした。
 談話室の壁に、露天風呂の標高ランキングあり、本沢温泉2150m、白馬槍温泉2100m、高ヶ 原温泉1900mとある。
 談話室で蕎麦と地酒で一杯やりながら室内を見ると、古いアイゼンが飾られている。
 CARAVAN EISEN SANSEISHAPATRPENDの表記がある。
 何時の時代だろうか。またSANSEISHAはどんな会社だろうか。調べてみた。

  SANSEISHA(山晴社)は、1954年6月19日銀座にその産声を上げたのが、現在のキャラバン社である。
 俺が本格的に冬の縦走や、氷壁攀じていた当時キャラバンという軽登山靴があり、ワンゲルの連中が使用していたのを思い出した。同社のHPには、次のようにあった。(一部抜粋・追加等をしている)
 戦後日本の山岳会が、オールジャパンで取り組んだマナスル初登頂を達成したのは、その2年後のこと。ベースキャンプまでの長い道のりを歩く隊員達の足元を支えたのが、山晴社の【キャラバンシューズ】だった。
 マナスル(8,163m)遠征隊のアプローチ用シューズとして使用され、遠征隊員達に“キャラバンシューズ”と呼ばれ、このシューズを開発したのが、山晴社(現在のキャラバン社)の創業者である佐藤久一朗氏だった。
 慶応義塾大学生から山岳部で活躍した佐藤氏は、当時日本山岳会に所属し、ヒマラヤ委員会の装備担当を任され、1953年の第一次マナスル遠征が決まったとき、軽くて履きやすいアプローチ用シューズの開発が必要となった。
 当時の日本には、いわゆる軽登山靴が存在しなかった。開発担当として白羽の矢を立てられたのが、佐藤氏だった。
 佐藤氏はシューズ開発に没頭し、アッパーには靴ずれしにくい綿帆布を、靴底には足を守るゴムソールを選択し、マナスル遠征隊全員の足形を調べ、木型をつくり、一人一人にぴったりのシューズを完成させた。
 第一次マナスル遠征は初登頂を果たせなかったが、遠征隊員たちは、キャラバンシューズを褒め称え、「日本中の登山家や登山愛好者にこの靴を履いてもらいたい」と勧められた。
 市販化を果たし、日本で愛されるロングセラー登山靴へ。
 1954年、佐藤氏は「株式会社山晴社」を設立し、「キャラバンシューズ」の販売を開始した。1956年に日本山岳会がマナスル初登頂を果たすと、登山ブームが巻き起こり、キャラバンシューズは追い風を受けて急速に販売数を伸ばしていった。
 1958年にモデルチェンジを行い、ソールにトリコニーと呼ばれる鉄製スパイクを採用。
 さらに、1959年に当時としては非常に困難だった“ナイロンとゴムの接着”に成功し、「キャラバンスタンダード」が誕生した。
 技術革新で開発したシューズは高く評価され、数々の賞を受賞し、最盛期には1年間の売上数が約20万足に達し、2003年にその生産を終了するまで、総生産数は約600万足に及んだ。
 佐藤氏氏は上高地にあるウェストン碑の製作者であり、初めは四角いレリーフだったが、その後傷みが激しかったウェストン碑を昭和40年に作り直して現在は丸いものになった。 
 アイゼンから今日の本沢温泉に帰ります。
 雨は一向にやみそうにありません。
 露天風呂をあきらめ、宿の温泉に入るため地酒を手に、老化を歩き階段を何回も下り歩いていくと館内に暖房用の割木が所狭しと、備蓄・貯木(?)してある。
 浴槽からお湯が溢れ流れ出ている。一番風呂のようで、浴槽の木の蓋を取り、1m程の隙間を作り半身浴の状態で、地酒を楽しむ。
 浴槽の周囲は温泉の含有物で面白い模様ができている。
 ゆっくりと体を温めて部屋に帰る途中、階段の下にヒカリゴケが密かに佇んでいる。
 夕食のため食堂に行くと、15名位の人達が今夜の宿泊者で、翌日、数名は下山し、数名は硫黄岳、天狗岳に向かうという。
 楽しい山の会話でお酒が進んだ。
 今朝、俺は本沢温泉から、みどり池にあるしらびそ小屋経由で稲子湯温泉に下る。
 “みどり池”は、北八ヶ岳山麓の標高2090mにある小さな池。
 宿を出て水芭蕉、クリンソウの残念な姿を見て歩く。
   苔の中に数十種類のキノコ
   秋のクリリンソウ
   中山峠分岐近くの湿地の沢
綺麗な沢の中にクリリンソウの
群落

 みどり池分岐となり、50m程標高を上げ、緩やかの針葉樹の森を歩き、みどり池に向かう道は、霧の世界にとけこむ苔と茸をカメラに収めて進む。
 水平道が緩やかに下ると道は、湿地の中を歩くと、綺麗な水が流れ、クリンソウの大群落の中の木道を歩く。
 今のクリリンソウは葉が茂り、花茎が40pほど伸び種子をつけている。
 クリンソウは渓谷の湿地などに時に群生し、日本に自生するサクラソウ科の植物のなかでは最も大型で、5・6月頃に花茎が伸び花は花茎を中心に円状につき、それが数段に重なる姿が仏閣の屋根にある「九輪」に似て、花の色は濃い紅紫色、ピンクや白などであるが、今は9月。
 サクラソウ科は、アレルゲンを持つことが多く、その毒性からニホンジカなど草食動物は忌避するらしい。
 
 綺麗な湿地の中の木道を歩き、中山峠分岐を右に進むと、登山道に小さいレールが現れしらびそ小屋を過ぎ稲子湯温泉に通じる道に伸びている。
   八ヶ岳森林軌道の
渋森林軌道
   みどり池
 このレールは八ヶ岳森林軌道の渋森林軌道で山から木を切り出すための線路道である。
 その歴史を、ネットでの調べると次のことが判った。
 営林署が昭和4年から始まり昭和37年まで八ヶ岳周辺で森林伐採事業で八ヶ岳森林軌道を開発・運営した。3軌道が引かれ、レールが残っているのは現在はみどり池に行くまでの渋軌道(戦後敷設)だけである。
 カーブも勾配も極めて急で、直線距離で約1.5kmで標高差約350mを下り木材を集積場に運んだ。木材を積む台車を馬が引き揚げ、材木を積んで、下りはワイヤーロープでコントロールする木製ブレーキだけだった。
 やがて木材価格の低下もあり、昭和37年(1962年)頃ついに廃止され、既に50年
以上経っている。
 渋森林軌道は空の台車を馬が牽引し登った。台車は盈車(えいしゃ=積車)といった。
 木材を台車に積み込み、その木材の上に作業員が跨り、ワイヤーロープひとつでブレーキを扱ってこのカーブ続きの急坂を下るのら、乗り下げる作業員の度胸一つで、他所から来た乗り下げ経験者でも、この渋軌道の坂を見て怖じ気づいたという。
 レールは4〜5mの物を現地でカーブに合わせて曲げていった。
 始めに内側のレールを敷いて(固定)それを基準として外側のレールをカーブに合わせ加工し、枕木は既製品と、現地で応急的に作った丸太のものがあった
 この軌道では3〜4頭の馬を使用し、上りはトロッコを数台積み重ねて馬に牽かせて登ったが、馬が橋を怖がったが、1頭だけ平気な馬がいたので橋ではその馬に牽かせた。
 朝登って木材を積み集積場まで降りてくるのが1日仕事だったようだ。
 
 俺はしらびそ小屋を通過し、軌道道を歩きこまどり沢の右岸を下る。
 森林軌道と別れ、また合流してカラ松の樹林帯を歩くと、車道と合流し100mほど進むと再び登山道を下り、再び車道を歩くと唐沢橋につきみどり池入口バス停の広場に出た。
 バス停の時刻表を確認すると、20分ほどで来る。
 みどり池入口で町営バスに乗車13:58、松原湖駅入口に14:28頃。松原湖駅舎に着いたが、近くにドライブインがあるが何もない無人の駅舎で、待ち時間は30分程であり駅舎のベンチでまったりして登山が終了した。
 小淵沢から松本駅に移動し、松本駅前のホテルに投宿。手ごろな店で一杯と出かけ「串かつ夢屋」。色々食べて、最後に「山賊焼き」を注文し吃驚。食べきれないよ。
 松本駅から特急で南木曾駅に。バスで妻籠第3駐車場にて下車し、雨の中、妻籠の街を歩き妻籠第1駐車場で再びバスに乗り、馬籠峠を通過し馬籠宿上入口のバス停で下車した。
 雨の中を馬籠峠付近の旧中山道を、歩いて妻籠に向っている外国人が数組見られた。
   江戸時代を思い浮かべる

中山道の宿場

板の屋根に石の重し
 馬籠宿上入口のバス停で下車し、馬籠宿を散策しつつ下って行くが、俺的には妻籠のほうが魅力的であった。
 馬籠宿下にある馬籠館で買い物し、バスで中津川駅に向かった。

 今回の山行で、1973年に歩いた厳冬期の南八ヶ岳の主稜線を、無雪期に歩いた。
 青年小屋の近くにある乙女ノ水からノロシバ、ギボシ、権現岳、赤岳、硫黄岳と逆縦走し、どのような登山道だったのか、微かに思い出し確認した。
 2014年の縦走の時、1973年に赤岳鉱泉から赤岩ノ頭に登る尾根でテントを張った地点を確認した。