美しい人との山旅 2002年8月
針ノ木岳から裏銀座を徘徊した
 

 暮れゆく針ノ木小屋から見つめる安曇野は幽玄の世界となり私の前に広がっている。
 安曇野から立ち上がる雲は赤く染まり、その頂きは横に広がり、雲の中からライトニングが怪しく美しく光る。
 「綺麗ですね」の言葉に振り返ると、缶ビールを片手に美しい人が微笑んでいた。私はドキマギしながら「そうですね。松本辺りでしょうか」
 「わたし、鹿島の頂きと種池山荘であなたの後ろ姿を拝見し、そして今日はスバリ岳でお見かけしました」「えっ」私にはその記憶が無い。
 美しい人は、ビールを美味しそうに飲みながら「わたくし、種池ではお花畑でお見かけし、スバリでは他のパーティと一緒に歩いていましたから。オホホ」
 そう言われ思い出そうした。赤沢岳を過ぎたあたりで、数パーティを追い越し、スバリ岳の頂きあたりで、男女のパーティを追い越したことは記憶にある。針ノ木の頂きでは20分余り休んでいた。でも、美しい人の記憶は無かった。
 「そうでしたか、私は八方尾根から一人で歩いて来ましたが、美しい花には常に気には留めているつもりでしたが」「オホホ」
 「どちらまで――」「わたくし、一人で太郎まで」「では水晶か、三俣蓮華まで同じコースですね」「エェ オホホ」「私に取っては、ここから水晶までは始めて歩くコースです。」「わたし学生の時、五色から船窪と烏帽子まで歩いていますのよ――」
 「では、佐々のザラ峠から針ノ木谷を詰めたのでは」
 「そうなの、佐々家の黄金を求めて、でも黄糞しかなくて―――オホホ」 美しい口元から出た言葉を聞き逃さなかった。
 私は直ぐに缶ビールを購入しそっと差し出す。
 「綺麗に写せました」デジカメで写した雷雲を見せると「コレ、カナトコでしょう」。雲を見て判断できる人は少ない。驚くとともに親しみが湧いてきた。
 小屋の石垣には私の臭い靴下が干してある。そっと登山靴の中に隠す、まだ数日履かないといけない。急激に夜の帳が辺りを包む。

 翌朝は、すこぶる上天気。小屋からの道は出だしから急登である。一歩一歩確実に穂を進める。小屋の人から蓮華岳に至る道の途中に白いコマクサがあると聞いていたから、周囲を見ながらガレの道を進む。2754地点から穏やかな広い尾根道にとなりコマクサの大群落が私の匂いにおののいている。
 蓮華岳の頂上に着くとザックを降ろす。扇沢の大きな谷を隔てて爺ヶ岳から鹿島槍そして針ノ木岳までの峰々が穏やかに「ご苦労さんお疲れ」と慰めている。
 朝の陽光に包まれている蓮華岳の頂から伸びる東尾根は穏やかに伸び。大町の町並みはかすんで見えない。
 ペットボトルの水を飲んでいると、背後から鈴の様な声が聞こえ「アラ オホホ」、驚いて振り返ると「わたし見ましたの、白い コマクサ」「エッ 何処にありました」「本当に美しい花に興味が――― オホホ」
 敵は手ごわい。直ぐに話題をそらし、「こんな素晴らしい天気は珍しいですが、昼すぎには雷が来るかも知れませんよ」「ほんと 恐いわ」。二人並んで鹿島の頂やこれから進む烏帽子の頂を眺める。
 近くに雷鳥の姿を見つけ「ほらそこに雷鳥がいますヨ」「オホホ」数m離れた岩の上に母鳥が雛を見つめている。
 ザックを担ぐと、美しい人も立ち上がる。「お先にどうぞ」の声に促され先に下るが、美しい人は離れずに着いてくる。蓮華の大下りを一緒に下る。先行のパーティに追いついてみると、昨日のスバリ岳の人たちである。クサリ場やハシゴが連続で現れるがそんな難所も簡単に着いてくる。
 一気に500m程下ったのだろうか、最低鞍部を通過し登りに掛かると太腿の筋肉が悲鳴を上げる。下る筋肉と登りに使う筋肉は違うのだ。北葛の頂で休憩をとる。父と息子のパーティが休んでいた。
 北葛からの下りは樹林帯の中を進み七倉乗越で休憩を取る。父と子の二人連れは追い越していく。風が心地良く感じるが長居は出来ない。昼すぎには雷雲が来るだろう。やせた尾根を登り七倉岳の頂きに着いた時には、昼だと言うのに薄暗くなってきた。視界も200m程しかない。
 5分ほどの休憩を取ると急ぎ小屋を目指して下る。視界は100m程になった。遅れ始めた美しい人に、「あと少しで小屋に着く」と、促すが「お先に」という。初めての人だから遠慮しているのか、10分程だから先に行く。
 別れて直ぐに船窪小屋に辿り着き、小屋の前のベンチにザックを降ろすと、宿泊の手続きは後にし、靴を脱ぎ、臭い靴下素早く雨の当たらない軒下に干す。缶ビールを二本購入すると、遅れている彼女を待つ。ハイマツの中から頭が、そして上半身が見える。ベンチにザックを降ろす彼女に黙って缶ビールを差し出す。
 美しい人は思い出したように、「あなたは、鹿島槍の頂きで、若い娘と三人だったでしょう。そしてお弁当の鰻をもらっていましたよね」私は慌てた。私は、その時の状況を話した。
 キレット小屋を出発し岩場の道を鹿島槍の鞍部を目指し登っていくと途中で彼女達を追い越し、鞍部でザックを降ろしていると追いついて来た。「ここまで来たからは南峰に登りましょう」と薦め、共に頂を踏み鞍部に引き帰すと北峰へと歩き、頂きを踏んだ。
 私は鹿島槍の頂上の三角点の近くに腰を降ろし、キレット小屋の弁当を広げると、彼女たちも近くに座り弁当を開くと「キレット小屋の弁当は鰻弁当なのネ。私鰻だめナノ」。そして鰻は私の弁当の上に移った。鰻娘は種池から扇沢に下るということで同一行動になった。
 鰻娘は、五竜小屋にいた。キレット小屋でも見かけた。そうして行動を共にして、布引の頂き、冷池そして爺の頂きに立ち爺ヶ岳の頂まで同行しここで別れた。今日中に扇沢に下るため爺の斜面を兎の如く下って行った。俺は爺の頂上で暫したたずみ、余韻を楽しむと、後を追うようにハイマツの斜面を下り種池の小屋に辿り着いたが、鰻娘達の姿は既に見えなかった。
 種池の小屋の前は、小学生や中学生の集団登山100名近くの人の群れに驚き、次の新越まで行くほうが良いのか、カウンターに確認すると、昨日小屋に泊まり今日下山するという。
 そのころ美しい人は、赤岩尾根から冷池の小屋、鹿島の頂きと歩を進め種池の小屋にて夜を過ごし、私と前後して行動していたのだった。
 船窪の小屋の周りは霧が包み始め、昼というのに暗くなってきた。このまま二人は霧に包まれていると「夜霧よ今夜もありがとう」だ。と思うまもなく数分後には太陽が顔を出し、周辺の山々を見せてくれた。
 明日の行動は、朝食後に船窪から烏帽子までと決まった。小屋に宿泊の届けを出し、小屋の中にザックを持ち込み、ここまで大事に担ぎ上げたウイスキー入りのペットボトルを持ち再びベンチに座り込む。
 親子が到着し四人の語らいとなった。息子は来春大学を出るため最後の夏休みを父と鹿島からここまで歩いたという。
 お互いに知らない世界ながら稜線では何の隔たりもなく話が進む。父と子は明日七倉尾根を下り大町に下るという。
 明日の目的地烏帽子小屋は不動沢を挟んで遥かかなたの不動岳そして烏帽子岳の奇峰の先にあり、お互いに長い道のりに、ウンザリの雰囲気である。その気分を吹っ切るには、これしかない。取って置きの「ウイスキー」で乾杯だ。ペットボトルに入っているが中身は高級品だ。瓶入りが飲みたいがアルプスの稜線では仕方が無い。
 水割りの水は小屋から往復30分以上離れた七倉岳直下の名水である。ネパールから小屋に来ていたシェルパ サーダーのベンパラマ氏が運んでくれたものである。疲れた身体に心地良く広がるアルコール。

 船窪の小屋はランプの宿である。囲炉裏を囲んだ夕餉になった。
 夕食について、美代ちゃんから説明があった。天麩羅の材料は全て山菜。その他珍味もありで、こんな素晴らしい手作りの夕餉に在り付けるとは、まるで夢のようである。
 その後は、囲炉裏を囲み楽しいい語らいとなり、ベンパ氏を中心にネパール語での語らいとなった。通訳は美しい人がしてくれた。美しい人はネパール・トレッキングに三回行き完璧であった。お酒の会は、大いに盛り上がり、また、美代ちゃんの「コンドルが飛んでいる」は、思い出となったが、小屋の女将松澤さんに注意されて気がついた。もう19時半を過ぎていた。
 臥所に帰ると、辺りは小さな蛙、食用蛙の合奏が始まっていた。私の横に父子の寝姿があった。私と美しい人は並んで寝る。心地良い寝息につられていった。
 四時半に起き、枕元のヘッドライトやペットボトルをザックにしまうと、朝食の膳につく。
 朝食が済み下足棚を見て驚いた、私の登山靴が無い。
 しまった、誰かが履いて行ったのかと慌ててその辺りを捜しているうちに思い出した。昨日西日の当たる軒下に放置していた。
 飲みつぶれたが、適切な場所を選んだため夜露に濡れなかった。酔っていても判断の狂いは無い私の素晴らしさよ。登山靴の紐を締めていると、美しい人も準備をしている。
 ザックを担ぐと小屋を後に昨日の道を5分ほど登り分岐点で左に進み七倉岳の直下の水平道から下りとなり平坦な広場に出た。ザックを降ろすと美しい人と急斜面の水場にて甘露水を飲みペットボトルを満たすと再び樹林帯の道を歩き100m程下ると船窪乗越につく。
 船窪乗越は右手から上がってくる道が在るだけの見通しが悪く、風のも無く、虻だけが飛んでいる。最悪の場所であった。分岐に草刈機が放置されていた。船窪の人が昨日使ったものだろう。分岐を見渡し「昔はこんな所だったっけ」と呟いている。美しい人は重たいキスリングの思い出が蘇ったようだ。
 乗越から100m程登ると船窪岳の頂きに立った。何の感慨もなくただ黙々と歩くだけだった。ガレの斜面に作れた道を歩き木橋を渡り梯子を登り樹林帯の道を上下しつつ進んでいった。
p2459の地点を過ぎると不動沢側の崩壊が激しい地点を進む。足場は30Cm程で崩壊した斜面は300m程もある。
 昨日飲んでいる時、烏帽子から来た人が「烏帽子からの道は下りが恐ろしいかった。船窪岳からは烏帽子には大半登りだから体力勝負だ」と言っていた。なるほど下りでは勢いがつき止めようにも止める事が出来ないような斜面である。我々は登りの斜面であり一歩一歩慎重に足場をきめ登って行く。
 小さなピークを幾つ越えたのか、ただ黙々と歩を進める。傾斜が緩くなりハイマツの中を進むと不動岳の頂に着いた。頂きは南北に長い馬の背のような稜線の先にあり、頂きの近くで南西に下り北西方向に急激に下る。強い太陽光線を避け風のある樹林帯の中で昼食にする。
 p2290からここまで他の登山者の姿が見えない。二人だけの世界となった。船窪の小屋で頂いたお弁当を広げる。お互いに同じ弁当を広げる。
 数十m程登り100m下ると南沢岳の登りとなった。下って登りとなると身体は急に重く脚の筋肉は張り、呼吸はついてこない。忍の一文字でただ歩を進める。呼吸は吐くことだけを考え、足を進めるのも同じリズムに進めて行くとようやく調子が出てきた。
 針葉樹から背の低い潅木となり、ハイマツ帯となった。道は平坦となり開けた砂礫の場所に出ると石の上にザックを降ろす。ここは綺麗な砂礫とハイマツの頂上南沢岳である。
苦しかったこれまでのことを忘れ、ペットボトルの水を飲み辺りの景色を眺めるだけである。「昔もこんな感じだったのかしら」と、思い出す顔には汗が美しく光っている。
 黙々と歩いてきた南沢岳の先には美しい緑の平地と四十八池の水面が光っている。
 15分ほど休んだ後、再び自ら求めて苦行を重ねなければならない。花崗岩と砂礫の急な斜面を百数十m下る。下りには強いはずの私の足や膝が悲鳴を上げ始めた。潅木と草地の中を進むと小さな池塘が現れ始める。稜線のオアシスのような烏帽子の田園「四十八池」の中で一番大きそうな池の岸にザックを降ろすと、タオルを水に浸し顔を拭き見えないようにしつつ胸の汗を拭き取る。腕や頭に水をかける。
 美しい人はぬらしたハンカチでほてった首筋や腕を拭いている。「わたくしも水を被りたいなー」と呟く。私は「天女に成るのなら、もう少し綺麗な隠れた場所を探しましょうか」「貴方わたくしの羽衣を隠さないでね」「ドキ――」「オホホ」
 不安を隠さない美しい人と、本心を指摘された私たちは、寡黙な二人に仮しトボトボと美しい道を進む。
 大小の池塘を左右に見ながら草原の道を歩いて行く。行く手に大きな岩が現れ歩きづらくなり、低い潅木の中をわけていく。
 左手に大きな斜面が現れると烏帽子岳の分岐に着いた。道標にザックを降ろし、頂への道を往復をする。
 花崗岩の奇峰は天に突き上げており、自分を誇示している。クサリとペンキに導かれ登って行くと、頂きは狭く詰め掛ける登山者に気を使いながら360度の展望を楽しむ。
 烏帽子の頂から歩いてきた四十八池を見ると緑の草原に大小様々な池塘が転々と広がり青空を写している。
 分岐まで帰るとザックを担ぎ、前(ニセ)烏帽子岳への砂礫の斜面を登っていくが、幾らも歩かないうちに休憩を取る。
 体力が無くなっている。美しい人は「あと10分程で登りも終わり、後は下りよ」と、促してくれるがどうにも足が進まない。前烏帽子の中腹にある石の上にザックを降ろし休憩する。
 ここから振り返る烏帽子岳は天空に雄雄しく突き出した素晴らしい岩峰である。
 烏帽子小屋から烏帽子岳の往復をする連中が三々五々やってくる。アミノ酸系の飲み物を飲み、ストレッチ等をして、ようやく歩けるほどに回復してきたのでザックを背負うと、斜面を登っていく。

 前烏帽子岳の直下を通過し緩やかな下りとなる。前方に煙突上のものと旗竿のような物が見えてから結構歩いた気がする。小屋の近くになりブナ立尾根からの道と合流した所に、手にビールを持った美しい人が佇んでいた。「はい、元気のもとよ。後数分で小屋だから」
 嬉しくなる、アルプスの稜線で缶ビールの出前があるなんて。これで喉の渇きが完全にとれた。
 15時に烏帽子小屋についてみると小屋の周りは沢山の人が休んでいる。
 小屋は古い造りの落ち着いた明るい小屋で和みを感じさせる。私たちは宿泊の手続きを済ませると小屋の中に入った。我々の寝床は2階であり他の登山者のため一応畳一枚に一人にして欲しいとのことだが少し広めに占領した。
 ザックを開くと靴下の交換に掛かる。6日間履いた靴下はビニール袋を二重にして匂いが漏れないようにした。明日からは綺麗な靴下を履けるぞ。
 寝床を確保すると必然的に身体が要求する特殊液体高所用栄養補助食品を求め売店に移動する。
 小屋の前には小さな花壇が作られコマクサ等の高山植物が咲き誇り、私の姿をみると精一杯の微笑みで美しい人に戦いを挑んでいる。
 私の翌日の行動は、三俣山荘まで歩く予定であったが「高天原の温泉でも入り、洗濯もしたい」と変更した。1週間着たきりで、ズボン、シャツ、靴下等汗臭くてたまらないので洗濯したい。彼女は雲ノ平山荘に宿泊予定だと言う。
 朝食が終わると私は美しい人に一足先に出ることを伝えた。昨日疲れて後半バテタから今日は適当な所で休憩しつつ稜線を先行するので途中で会えるだろう。
 小屋を05:25に出るとキャンプ場の中の道を下り、そして砂礫地帯の穏やかな綺麗な道を三ッ岳目指して登っていく。振り返ってみると美しい人は15分くらい後をひたすら登り追ってくる。
 三ッ岳を通過して道から外れた窪地で小休止を取る。ビスケットをつまんでいると美しい人が追いついてきた。
 小屋を出て1時間半ほど歩いて私と美しい人もしばし佇む。ふと出会い、こうして歩いている。そして峰に流れる雲を見つめている。
 三ッ岳の南の地点から歩き始めると正面遠くに野口五郎岳らしき頂きが見えるが穏やかな稜線のわずかな膨らみでしかない。登山道は快適な稜線散歩である。右手には赤牛岳から水晶岳、左には餓鬼岳から続く燕岳の素晴らしい景色が続く、穏やかなのんびりとした道である。
 大きな岩の道を進み稜線から少し外れた野口五郎小屋は、水タンクが置かれ屋根には布団が干してあるが、小屋の人や登山者の姿が見えない。小屋のかたわらを歩き野口五郎岳を目指して登って行く。
 野口五郎岳山頂は小さなケルンがあり、その周りに数名の登山者が休憩しているが、個性が少なく感慨が沸かないから、我々は淡々と通過(08:10)するだけである。山頂からは槍ヶ岳の鋭鋒が見える。
 野口五郎岳を通過し、主稜線の右手(西側)の東沢のカールが広がり、ここから300m下方の緑の草原には五郎池が小さく見える。野口五郎の頂から山の中腹を巻くように進むと、前方が広がり大きな鞍部の見える地点に道標が現れ、地図を取り出して確認すると、竹村新道の分岐点である。
 私と美しい人は真砂岳の頂を踏みたかったが、真砂の中腹を歩き通過してしまった。真砂岳は2862mであり2800mを越える頂きは踏みたかった。
 二人は真砂の思いをふっきり、水晶への思いを新たにし歩を進めた。分岐からの登山道はこれまでの道とは違い、痩せた尾根の道となり2833m地点を通過すると崩壊の道を下り2734mの東沢乗越に着いた。ここには右手の東沢からの踏み跡がある。崩壊の赤く風化したガレの斜面につけられた道を一歩一歩大事に登って行く。170mの登りは今日最後の登りとなる。
 風化したガレた斜面を登りきると、沢山の登山者が休んでいる水晶小屋に10:45着いた。
 小屋から見える水晶の頂きは一年前と同じであった。これまで歩いてきた全ての頂きが見える。小屋は2900mでありこれまでの最高地点である。五竜、鹿島槍、爺、針ノ木、蓮華、烏帽子、野口五郎の各峯が見える。立山方向には剣岳表銀座は燕岳とアルプス北部の峯が全て見える。
 頂上小屋の前で烏帽子小屋のお弁当を頂く。水晶小屋の周辺は赤い岩山であり昔「赤岳」と呼ばれていたらしい。標高は2900mもあり水晶岳から1Km程離隔しているから、地名として赤岳を勧めるが、南八に1m低い赤岳が存在するから、「元祖赤岳」「本家赤岳」「北赤岳」か「水晶赤岳」とすべきだ。
 水晶岳は苦い思い出がある。
 俺は、奴隷にされそうになった。
 俺を奴隷にして、財宝を手に栄華を極めようとした、先輩夫婦がいた。
 先輩夫婦は無い頭(頭は一応ある)を駆使し、酒に弱い俺を「酒と岩魚と美人のお酌」と、言葉巧みに山中に誘い出した。
 それは昨年のことである。先輩夫婦は、岩魚を釣り、旨い酒を飲もうと、富山にいた俺を山中に呼び出し、「水晶」の事は隠し、酔って寝入ったら、手足に鎖をつけ、作業員として、奴隷として働かせ一山当てようと画策した。
 俺が、雲ノ平に現れるまで先輩は物見遊山とばかりに周辺の山々を散策しているうちに、食料が切れてしまった。彼らは食糧・燃料を考えていなかった。酒だけを担ぎ上げ食糧を山に求めた。岩魚を釣り、登山者に売り、物々交換するという非現実的商いを考えたが、岩魚が釣れないことには上手くいくわけが無い。俺が雲の平に着く前に下山した。
 俺は、先輩夫婦を出し抜き、今年こそと紫水晶を求めて、遠く八方尾根から企図を秘匿してやって来たのである。ここだけの話だけど、「水晶岳周辺では高価な紫水晶が沢山転がり数億の財宝」があるという。だが、そんな俺の計画を狂わす美しい人が現れた。
 美しい人は、爺さんに登り、雲ノ平小屋に向かうため少し早く「水晶赤岳」を出発して行った。
 財宝より美しい人だ。美しい人と別れ私は、弾む鞠のごとく下って行く。水晶赤岳から下る道はお花畑の緩やかな下りであり船窪のような小さな草原に池塘が点在する地点を過ぎ、ワリモ乗越を目指して岩屑の道を登って行く。ミヤマオダマキ等の美しい花は俺の心を見透かし笑っている。
 ワリモ乗越から少し下った岩苔乗越に着いて見ると美しい人が、佇んでいる。
 美しい人曰く、「貴方から聞いていた黄銀を求めて高天原に下ろうと思うのオホホ」。
 私は美しい人に魅せられ、黄金でなく黄銀の在り処を、「貴方だけだからネ」と教えていた。
  (「雲の平から涸沢」)
 俺は美しい人と、アルプス最奥、神秘の高天原温泉の「隠れ湯」に二人だけで入れる。去年の夢がかなう事になったのだ。
 岩苔小谷を走るように下る。わたしは二人だけのウフフ。美しい人は黄銀を求めて。
 お花畑の花々はにやけた俺を笑っている。高度を下げると水晶池の分岐に着たが、急いでいる俺は素通りし、沢の中を歩き針葉樹林の美しい林を進み、岩苔小谷湿原、山荘の屋根が見え始めると、振り返ると美しい人はオホホと微笑んでいる。

 高天原山荘は大東鉱山(モリブデン鉱山)の従業員小屋であった。
 大東鉱山の名前が残っている大東新道とは、薬師沢の小屋から黒部の谷を下り高天原峠から山荘に至る道から竜晶池の先までであろうか。こんな山中にまで求めたモリブデンは、1トン数十億円くらいの価値があるようだ。
 日本ではモリブデンは明治の頃から採掘されたようである。
 モリブデンは「特殊鋼」で、クロム、ニッケル、マンガン、パナジウム、タングステン、コバルト等の材料を少しずつ配合した鋼で、硬さや柔らかさが欲しいときに、加える材料の量と種類を変えると、特性が変る。
 剃刀刃、鋏や包丁や金属を削ったり切ったりする「切削工具」、テレビやパソコン、携帯電話などエレクトロニクス機器の「エレクトロニクス材料部品」、金属やプラスチック等の「金型材」、その他航空機部品、原子力関係部品、高速回転部品など機械的、物理的、化学的性質の要求の厳しい分野に使用される。
 黒部の大東鉱山は島根県の大東鉱山の持ち物であっただろうか。島根県の大東鉱山はドイツ人が日本刀のよく切れ細身でありながら強いことから「あめのむらくもの剣」を思いだし、斐伊川上流域に何か秘められているのではと推測して分析した結果、モリブデンが含まれていることを発見したことによって、その価値が急に出てきました。
 ス スルト、島根県出身で某製鋼所に勤めいた先輩は、既にこの鉱山を知っていて、夫婦して俺にモリブデンを掘らせようとしたのではないのか。酔わせて、足に鎖と錘を着け、奥さんが仮面を着けレオタード姿で鞭を持ち、「働け、ハタラケ、オラー ビシ バシ コラー」と。

 宿泊の手続きを済ませ2階の寝室に二人並べてザックを降ろすと、缶ビールを手にすると、昨年見つけておいた黄銀を求めて小屋を後にする。小屋から10分程下ると新湯の分岐であるが、入口で男が立っていて、団体が入っているから下の温泉に行けと指図する。美しい人は「下に行きましょネ」と、小さくささやく。鈴の様な声で。「ウン、行くイキマス。ハイ」
 沢に架けられた橋を渡り対岸の温泉に着いて見ると、塀で囲まれた女風呂と簡単な囲いの混浴風呂がある。俺はここで別れ混浴に行くと「一緒にネ」と言われてウンとうなずく。脱ぎ始めて気が付いた。胸がない。男だったのか。オカマと一緒の旅だった。
 慌てて、俺はパンツ一枚で「お湯に入る前に、河原で洗濯をします」ズボン、シャツ、靴下等を持つと河原に降り立ち、水洗いして暖かい岩の上に干す。「貴方も洗いませんか」と、河原にカマちゃんを誘い出すと、今度は俺の番と湯船に飛び込む。
 俺は何のために、針の木から一緒に歩いていたのか。
 「今夜の寝床は隣り合せだ、明日の出立は早いから小屋の人に変更して貰おう」。などと、考えていると目の前に足が見えた。俺は股間を隠すと立ち上がり河原に出る。パンツ一枚で熱った身体を風にまかせ、缶ビールをグイとあおるしかない。
 俺は完全に打ち砕かれた。樹林帯の道をトボトボと登っていく。
 小屋のベンチの片隅に細引きを張り、河原で洗った下着や手ぬぐいを干す。夕餉前の一時をベンチで過ごす。ベンチから見上げる水晶岳の壁は昨年と変わらず俺を慰める。ビールを飲み干すと、八方尾根からここまで担いできたウイスキーの水割りを楽しむ。
 昨年は、ウフフーーの思い出、今年はオホホの思い出。涙が月を霞ませる。
 4時に寝床を抜け出すと土間に降り立ち、ランプを点けると、小屋のベンチで朝飯を造る。
 誰もいないベンチで開放感に浸りながらの食事は、寂しくもあり嬉しくもあった。今朝で美しい人と別れ、悲しい思い出を高天原に残して行こう。
 ザックを担ぎ上げると、後ろに人の視線を感じつつ湿原の道を霧に包まれて一人歩く。昨日歩いた道、昨年も歩いた道。これで3回目の道。ゆっくりと歩を進める私は、今年も黄金の夢に破れた。
 夜露に濡れた道は昨日の俺の涙か、歩くほどに裾を濡らし纏いつくは美しい人の情けか。
 水晶池の分岐を過ぎると、ゆるい登りが続き針葉樹からダケカンバに変わり涸れた沢を少し下り、樹林帯から草原の道に変わり沢沿いの道になり、ジグザクにガレた道を登ると、乗越が近くなり空はどんよりとし、冷たい風が吹き抜けていく。
 岩苔乗越に到達し、ザックを降ろすと烏帽子小屋で購入したビスケットを食べる。ザックカバーを装着し雨具の上着を着込むと、祖父岳へ続く稜線を歩く。
 ガスに包まれた稜線を石の上、ハイマツの中を進むと広い祖父岳の山頂に着いたが、そのまま引き返し岩苔乗越に引き返した。黒部の源流の水を飲みたいためである。
 乗越から少し下った地点から鷲羽岳の斜面を見るが、ガスに包まれ源流付近が確認できない。ガレた道を下り水の流れが確認できると、ここが俺の黒部の源流と決め、右側の道を下り、沢幅が広くなり、左岸に移ると次第に沢から離れるように進み、祖父岳からの道と合流し、三俣山荘への道に入ると雨脚が強くなる。傘をさして歩く。
  三俣山荘の横を通過すると、テントサイトの中を進み三俣蓮華岳の直下そして蓮華岳から双六岳の巻き道を双六小屋に向かう。晴れていれば稜線の道を鷲羽岳から燕岳そして槍ガ岳の景観を満喫しつつ進むが、本日の天候は雨、霧そして雨が風を呼んでは、近道を進みたい。双六から笠ガ岳山荘まで足を伸ばしたい。
 雨脚が強くなり、途中で雨具を着込むが途中で脱ぎ、傘だけで稜線を進む。雨具を着けていては、歩く速度が落ちるためであるが、気がつくと双六小屋の下りに差し掛かっていた。ここまでくればハイマツ帯の下りで風が落ち、濡れが少なくなった。
 小屋に着くと、雨宿りとばかりに入って見ると、小屋の中からラーメンの香りで怠けの虫が騒ぎ始めた。
 ザックを降ろし、自炊で宿泊を申し込む。寝床に案内されて、落ち着くと、食堂に出かける。後は生ビールを飲むだけだ。
 飲んだ後は、先ほどのラーメンを食べ、おでんを頼むとまた、ビールである。
 こんな堕落した生活を人生50数年間やってきたのには、訳がある。
 俺に山を教えた、出雲にある製鋼所のKというリーダーだった。ニンニクと酒が入会の条件だった。
 (彼の夜のお供をさせるという崇高な目的の為)
 純情な俺は、安全に山を登るためにザックの中に酒が入っていないと遭難すると勘違いしていた。

 俺の人生には、酒があり、ニンニクがありホンの少し山に登り、たまに仕事をし、仕事の合間に酒があるという、人間五十年流転のうちに酒で終わったのだ。と感激した。
 良き酒に恵まれ、薄情という友情に恵まれた。
 家庭には妻という物(者)がいて俺は幸福者だ(と、思いたい。)。
 双六小屋の夕餉の時間になって、俺は自室に引き上げた。
 自炊は狭い炊事場で行う。ウイスキーの水割りを造り、不味い夕食を魚にまた飲む。つまみはつまらないものだが、酔うほどに美味しく感じる。

 明日の歩く道を地図上で確認し、コースタイムを確認し、登り下りの標高を確認する。
 計算では富士山を上りモンブランを登りチョモランマに登るくらい歩かないといけないらしい。
 酸素はどうしようか。テントはどこに張るのか、シェルパは何人必要か考えている。
 俺は、登攀隊長である。また、地図を見つめていると、ルート工作にザイル用意し、氷河を横断し、セラックに苦しみつつ、前進するのだ。
 アルコールのお陰で計画が進む。今日の俺は冴えている。   天才ダー