趣味のスキーについて

 私がスキーを始めたのは昭和43年2月である。
 植と松井の3人で伯耆大山の中の原スキー場の近くに夏山用のテントを張って五日間滑った。
 テントを張ってスキーを始める1週間前に、職場の者十数名が大山の桝水原スキー場に厚生活動としてスキーをやった。
 私は始めてスキーを履き、スキーの先生として教えてくれたのが植であった。
 彼は北海道での経験があり走るスキー(ノルディク)をやっていたが、回転もかなりの腕前であり基本技術を初心者の我々に判りやすく教えてくれた。
 夜、仲間達が酒を飲んでいるときも、植を引っ張り出しては蛍の光のように雪の薄明かりを頼りに滑り転んだ。
 松井と二人で指導を受けた。滑りながら松井と私は次のスキーをねだった。
 生まれて始めてであり、1泊二日の旅行が終わったときの実力はプルーク・ボーゲンがやっとできる程度の初心者であった。
 職場に帰り、休憩時間等を利用して、植・松井の三人のスキー合宿を計画した。
 有給休暇をいただき、厚生科にて夏用のテント、寝袋、鍋釜食器を借用し、スキーを先輩から借用し、出雲市内のスパーで食料を購入した。
  米を購入しようとしたとき、「米穀通帳」の提出を求められたが、会社の寮に入っていたため持っていなかった。
 購入できないと計画は挫折する。
 だが、数キロであり店の主人は、快く売ってくれた。
 大山寺に到着したときの3人の装備は、バス停からキャンプ場まで一度では持ち上げられない量であり、2回の往復でやっとテント場に揚げることが出来た。
 テントを張り終わり、食事の準備に掛かったが、始めての雪中キャンプの設営に時間だけが過ぎ、テントに潜り込み、夜食を食べ終わったときは、寝るときだった。
 夏山用のテントでも寒さは感じなかった。
 なぜなら朝起きて直ぐにスキー、夕方日が暮れてなお周辺の旅館等の明かりを利用して滑りまくったため、スキーの疲れで寒さなど感じなかったと思う。
 朝食はラーメンを食べ、昼食と夕食はスキー場の食堂で食べ、夜食はラーメンであり、苦労して購入した米はテントの中で残っていった。
  計画では、昼食も自炊の予定が、滑るために手を抜き、また作る時間が無く、食堂に行ったものだから財布の中はどんどん減っていく。
 帰りのバス代、列車代を計算するとそんなに残っていない。
 風呂は近くの旅館に一回だけ入りに行った。
 お金がないから、お米を持っていき、現物交換方式による入浴をお願いすると、亭主は快く応じてくれた。
 終わりになってくると、スキーの腕前も上手くなってきた。
 そこで、やっと滑れる女性に目が向いてくる。
 九州から来た若い女性を見つけると、優しく教えてあげる。
 これがスキーを始めた時の思い出である。
 昭和四十三年冬の事であるが、その当時から上達はしていない。 
 その当時、スキーの服装はみんなみすぼらしく、どんな服装でも楽しめたが、昨今の華美さには驚きである。
 服装・用具共に全員が上級者の様な品物を揃えている。
 滑る楽しみはファションもあるが、沢山滑り楽しんで上達するためには、いま一度考えた金銭使用をして楽しんでもらいたい。
  スキーの上達は、転ぶことである。
 転ぶことを怖がらずに積極的に滑ることであり、三千回転ぶと上手になると言うが、転んでも上達しなかったのは私が悪かっただけである。

 スキーの先生である、帯広の佐藤氏、紺野氏や前出の植氏には感謝しています。

  
大山北壁と中の原(左)、豪円山(手前)のスキー場      (5月)