鳥 取 県 の 歴 史

           鰯売りは鰯売りだ。
 元弘3年のある日のことである。
 鰯売りが、仲間を集めて酒盛りをしていた。
 鰯売りは、兄弟が多く暴れん坊揃いであったが、よく仕事はしていた。
 財力があるから、毎晩大酒を飲み、女と○○をしては、近郷の者まで集めては、よく飲んだ。
 今日も夕方から、酒を飲んでいると、薄汚い見知らぬ者が入ってきた。
 「この辺の者に聞いてきた。」
 「貴方は、一生を賭けて見ないか。財も、力も、一族も、だがこのままでは鰯売りは鰯売りだ。」
 「俺に付いてくるつもりは無いのか。俺の主人にあって見ないか。」
 鰯売りは、この男と連れだって夕暮れの港に出てみると、40過ぎの男と若い男が待っていた。
 8時47分になった。突然、男が怒鳴った。
 「頭が高い、控えおろう。この紋所が目に入らぬか。ここにおわす お方こそ、さきの天皇 後醍醐天皇であるぞ。」
 と二人の男が怒鳴りだした。 
 こうして、名和長年と後醍醐天皇の「太平記巻七」が始まった。
 後醍醐天皇(1288〜39)は、鎌倉幕府に捕まり出雲の沖合「隠岐国」に元弘2年(1332)3月に流され翌年2月に脱出して、名和長年を頼った。
 当時長年は海上の権利を持つ者で紋所を「帆掛け船」としていた。
 一夜にして船上山に、軍、馬、食料等沢山の武器を集めて籠城する。
 付近の百姓もその一味に加わった。
 大山の僧兵も信濃坊源盛を大将として加わってきた。
 この信濃坊源盛は、長年の弟であり大山の別当という僧兵の大将であった。
 船上山は、三方を断崖絶壁、背後は険峻の甲ヶ山の稜線と原生林であり、智積寺の本堂を大本営として、天皇の京都復帰までここに一大勢力が結集するのであった。
 長年は、挙兵3年後に京都の市街戦で破れ戦死、信濃坊は、1358年九州の肥後八代で57歳の生涯を閉じた。
 こうして始まった、建武の中興は数年で終わるが、長年は伯耆と因幡を受領し一時の栄華を極めた。
 明治の時代となり、足利尊氏は逆賊となり、天皇側となり戦った武将は各地に神社が建立され神となり歴史の人となった。
 誉めてあげたい鳥取県人の一人である。
 一方、河内の楠木正成は、陸の輸送業者(馬借、車借)であったとか。
 商品経済の流通の中で、生きた二人が、実力を付けのし上がり、鎌倉幕府と戦ったその底力が歴史を作っていった。
 ただ、本当に馬車引きと鰯売りであったかどうかは疑わしいが、義経がジンギスカンになり蒙古軍の大将と成ったのと同じくらい重要なお話しである。