鳥 取 県 の 歴 史

    伯耆大山の中腹に大山寺という集落がある。
 大山寺に「南光院」、「中門院」そして「西明門」の三院があった。仁安3年(1168)に高倉天皇即位後初の大嘗会(新嘗祭)の祭りにあたり費用の一部を大山寺にも割り当ててきた。
 南光院だけは受け入れを示したが、二院は拒絶した。そこで国衙の役人は大山寺に兵を差し向けてきたため、戦場となり、国衙に味方する南光院と二院との間に合戦が始まり、大山寺の藷院・堂閣は、全て炎上した。
 美徳山三仏寺の法師が南光院に味方したため、二院の僧兵が報復のため美徳山に押し掛け本堂・講堂等を焼き払ってしまった事件など、院政の初期から平家時代の終わりにかけて、山岳仏教寺院相互の間の衝突や寺院内部の紛争や、僧兵の乱行と並んで伯耆国にもしばしば見られた。
 あの狭い大山寺の集落の中で、境内で、戦いをすれば市街戦の様相となり、骨肉あい乱れ、それは悲惨、無惨、阿鼻叫喚といった状態であったろう。その大山寺の集落から南光ヶ河原を越えて原生林の中を分け入って行くと阿弥陀堂(天文21年(1552)の建立)があり、藤原時代末期の阿弥陀如来像、観音菩薩立像等が安置されている。

  「伯耆国河村郡東郷荘下地中分図」
 中学の頃、歴史か地理の時間に習ったと思うが、「伯耆国河村郡東郷荘下地中分図」の話である。
 蒙古襲来の16年以前に伯耆国東郷荘(東伯郡東郷町)の領主である、京都の松尾神社と在地の地頭原田氏とのあいだに荘園支配の和解が成立し絵図として書き記された。
 これが「伯耆国河村郡東郷荘下地中分図(正嘉2年1258)」である。
 北の日本海に、帆掛け船3艘、中央に池があり手こぎの舟、周囲を山々が囲み、その中を細分されている。
 荘園の地を東西に分け地頭分、領家分とする。境界線は路であり、溝であり、溝の掘れないところは延長線とする等細かく記されており、現在もその跡が残っている。

 
銀山の歴史
 ここで金銀財宝のお話をするが、絶対に内緒であり秘密が守れない方は、HPから退出してください。
 ヒスイの話はしたが、またまだ裕福な鳥取県を紹介する。
 秀吉が鳥取城を攻略(1582)したころ、岩美郡岩美町に銀山があった。
 秀吉は、この因幡銀山を鳥取城の功労者の一人「継潤」に管理させた。
 鳥取城の城主になった宮部継潤は、関ヶ原合戦の折西軍に属し、戦後領地没収となる。
 昔の記録によると、「伏見に9282枚3両6分もの銀を宮部法印の名で運上として送る。」とあるが、残念なことに銀山の稼業は7〜8年で終わった。山崩れで坑道がつぶれ、銀山の歴史が終わってしまった。栄枯盛衰の寒村であった。

宮部継潤

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
 浅井家臣から秀吉家臣へ
 近江国浅井郡宮部村の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。
 宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。
 武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月秀吉の調略に応じてその与力となった。
 寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。『信長公記』にはこれより少し早い8〜9月に、信長によって宮部村の要害を守るよう命じられたとある。
 居城である宮部城は、小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年(1573)8月の小谷城落城まで多く勲功を上げている。
 この時期に秀吉の甥秀次を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の元に返還されている。
中国攻めでの活躍
 その後は、秀吉の与力につけられて天正5年(1577)からは中国攻めに従い、主として羽柴秀長に従いながら但馬国方面の攻略に貢献し、秀長が山陽方面に赴いた場合には秀長に代わって山陰方面全体の指揮を担った。
 天正8年(1580)頃には、山名氏討伐後に但馬豊岡城主として2万石を有している。鳥取城攻めでは最前線にあって吉川元春の援軍と戦い続けた。
 荒木村重離反の際に村重の小姓から秀吉に転仕した荒木重堅(木下重堅)、但馬平定を通じて羽柴方に従った垣屋光成・豊続、出雲国出身で、かつて山中幸盛と行動を共にしてきた亀井茲矩などは、いずれも継潤の配下として山陰方面での毛利勢との戦闘に参加したものと考えられる。
 天正10年(1582)、山陰での戦功が認められ、因幡国鳥取城代となった。
 また、本能寺の変時、鳥取城は毛利氏に攻撃される可能性が最も高い拠点であったが、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと秀吉勢の主力が中国地方を離れている間も、その拠点を任され続けたことから秀吉の信頼の厚さがうかがえる。
九州・小田原参陣と嫡子への家督相続
 本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。
 天正13年の佐々成政攻めや、九州平定にも南条元続、亀井茲矩、荒木重堅、垣屋光成らの軍を従えて参戦し、日向国高城にて島津家久軍を撃退している(根白坂の戦い)。この戦いでの働きは「継潤が事は巧者のものにて、天下無双」と秀吉をうならせたという。
 九州征伐後、因幡・但馬国内で加増され、5万971石を知行。軍役は5,350人とある。
 天正18年(1590)の小田原征伐にも参陣。同年に嫡子・長房に家督を譲っているが、形式上なものであって本人が隠居したわけではなく、戦場での活動は減るものの、政務上での活動は続く。
 文禄元年(1592)の文禄の役の際には、肥前名護屋へ在陣。渡海を要請したが許されなかった。
 文禄2年には、大友義統が改易されたのちの豊後国の検地を山口宗弘と共に担当、また同年、因幡巨濃郡蒲生郷荒井村に因幡銀山を開いて、秀吉から銀山経営を任されている。
 文禄3年には伏見城の普請にも参加。この時点で知行は8万1,000石に加増されている。
 慶長元年(1596)、高齢を理由に隠居した。秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として、秀吉の相談相手を務めながらも、秀吉重臣として政務にも関わった。
 慶長4年(1599)閏3月25日死去。享年は64、71など諸説ある

宮部長房(長煕)。父:宮部継潤
 宮部長房は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、鳥取城城主。
 天正9年(1581)宮部継潤の嫡男として誕生。
 天正14年(1586)には従五位下・兵部少輔に叙任され豊臣姓を与えられた秀吉の側近である父・継潤や義理兄弟関係にあった豊臣秀次とのこともあり、各有力大名を抑えて早期に豊臣姓を与えられた。
 朝鮮出兵にも八番隊で中川秀政や浅野幸長らと参加した、その陣で饗応を受けた加藤光泰がその直後に吐血して急死するという事件が起きているが、石田三成と対立をしていたため三成による毒殺であるという説もある。
 慶長元年(1596)12月28日秀吉より、宮部継潤、宮部長熙へ因幡国及び但馬国二方郡に拝領した。父の隠居により家督を継ぐ。
関ヶ原の戦い
 慶長5年(1600)の会津征伐には500人を率いて従軍。その途中、上方で石田三成が挙兵した報を受けて反転して西上、鳴海まで来たところで小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう要請してきた。
 与力の木下重堅・垣屋恒総が西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談すると、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は西軍に付くよう進言したが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対する。
 しかし、長房の心は西軍に動いていたため、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが見張りがいて船の往来ができず、夜に渡ろうと船を一艘借り出した。
 一艘に大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、約束した船がおらず辺りを捜しまわった。
 その頃、家臣らは陣中に長房が見えなくなったことにより、長房は西軍に走ったに違いないと考えたが、これに追いつく方法もなく、また総大将が居なくなったことにより宮部家臣らはどうしようもなくなり、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わった。
 結局、長房らは船を見つけられないまま夜明けを迎えてしまい、空となった自陣へ戻ってきたところを、騒動を聞きつけた徳川の目付けが長房を拘束、岡崎城に押し込められた。
 西軍の敗戦後、居城の鳥取城は亀井茲矩らの攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収された。
 戦後、敵味方の処分詮議の際、長房は死罪となったが、吉政が自分の旧主で昔の恩義が忘れられない、と助命嘆願をしたため、七人衆で西軍加担を進言した三田村と高坂の二人は切腹させられたが、長房は当分の間、吉政に預け置かれることとなった。
 翌年12月17日にその身柄を南部利直に預けられ、約460石を給されて暮らし、その後、剃髪して長令と号し寛永11年(1634)盛岡で没した。