天 狗 沢 の 遭 難
大山は、歴史といい山の品格といい、西日本の山々では抜きんでている。
大山の中腹に大山寺の集落があり、集落は全体が山岳宗教の僧院の跡であり本当に静かな奥深い部落である。その部落の東側に寂静山の展望台がある。展望台が要となり両翼を頂上からの尾根と宝珠尾根が堅め、荒々しい北壁が扇状に広がっている。
厳冬期北壁が真っ白になっても黒々として雪をつけない壁が屏風岩である。扇の中心より東に少し寄っている。その左にテカテカに磨き上げられた様なブルーアイスを誇らしげにしているのが天狗沢である。
天狗沢は五つの部分となり、第1は標高約1100〜1300b付近のF1の取付までの「雪崩の巣」の通過であり、雪の状況がよい場合はデブリの上を通過できる。
第2はF1で約160bほどのブルーアイスの斜面であり雪が着くことは少なく、核心部は2ピッチで、右下と左上は垂直な壁となり、西日本では珍しい本格的なアイスクライミングが楽しめる。
第3はF2までの雪の回廊(約100b)であり傾斜が落ち雪崩発生の絶好の場所である。
第4はF2は小さいながらも手強く最後の部分が空中にせりだしていている氷の壁である。
F2の上部は稜線までの雪の大斜面であり、ここから雪崩が発生した場合標高差400b以上のものとなり全てのものを奪い去る。
私は今から三十年前の1971年1月22日(金)の夜を凍てついた元谷の小屋で友の訪れるのを待っていた。土曜日の朝になっても友の入山はなく私は一人でその天狗沢をよじ登った。
次の土曜日の夜も友の入山を待っていた。深夜酒に酔い眠っている元谷小屋にHI山の会の一行が3時頃あがってきた。
天狗の間を覗きこんだあと、彼らは土間でくつろぎ、山登りの準備が出来ると出発していった。いつも早朝入山してくるHIの連中には吃驚させられる。
この中に、高氏の姿があったように記憶している。
特に、今朝の冷気は一段と強く一人寝の私は震えた。昨日と一緒で晴天に恵まれそうだが、クライマーが何もせずに一人で山小屋に居るのはつらい。
昨日と同じ天狗沢のアイスクライミングに出かけることにした。
HI山の会は2パーティに分かれた1パーティを天狗沢のブルーアイスの中で追い越し、F2でもう一つのパーティに追いつき、同時に天狗の頭に着いた。
天狗沢の登攀の翌週の29日か30日に、大山小屏風岩でHIの登山者が遭難された。
そうして登った思い出のある天狗沢で、1998年2月22日9時40分頃に世界的な登山者高氏(52才、会社員、HI山の会々員)が滑落し亡くなられた。
高氏は1991年に日中合同登山隊のナムチャバルワ峰の登攀隊長を努め、チョモランマ(エベレスト)北壁、K2を始めとするヒマラヤの高峰にしばしば遠征した登山家である。
高氏は友人の森氏(35才、小学校教諭)と2月21日(土)元谷小屋近くにツエルトを張りビバークし、翌早朝0630元谷小屋から天狗沢に、他のHI山の会々員らと2パーティに分かれ、0730頃天狗沢の登攀を開始し、天狗ヶ峰〜剣ヶ峰〜大山山頂と縦走し別山に向かった。
私の想像では、高・森氏のパーティはコンスタントに登り、F1を登り切り、氷化した回廊をF2目指して詰めていった。
F2を二人のうちどちらかが乗り越し、核心部を突破した喜びに包まれつつ氷の斜面ををコンテで登っていったのではないだろうか。
当時は強風が吹いていたと言う人がいる。
松江の友人小藤(クラブ員との雪中トレーニングをするため入山中)は、高氏らしい登山者がF2上部の雪の斜面を登っている姿を、山下ケルンとローソク沢の中間でその姿を見ている。
9時30分頃小藤はローソク沢の出会い近くでF2上部の登攀者を確認している。
その後小藤はアイゼンを装着しているとき、彼の横をヘルメットが滑り落ちていくのを見た。
不思議な感覚にとらわれていると、また小藤の目の前を凍った手袋が、ヘルメットを追いかけるように滑り落ちていった。
天狗沢を登っている登攀者達から「助けて下さい。」という悲鳴に近い言葉を聞いた。
小藤は、天狗沢は私とも登っていて夏冬十数回は登っているベテランである。
彼らのアクシデントを頬って置く訳がない。彼は、直ちにアイゼンをつけ終わると、彼らの救出に向かった。
出会いから登ると、冬季には雪の中に隠れてしまう伏見の千ちゃんのケルン付近(標高1200b付近)まで登ると、雪原の中に、ザイルにつながれた二人の男性の姿を発見したがすでに意識はなかった。
遭難者は、ヘルメットが無く顔の長い男である。ザイルが身体に巻き着いていた。
当初天狗沢の中程で悲鳴を上げた登山者と想っていたが違った。と小藤は言っている。
天狗沢の連中は、おっかなビックリで下っている姿が見えたが、遅々として降りてこれない。
小藤は元谷の小屋に常設されているスノーボートを取りに行かせたり、携帯電話で警察に急報した。
米子警察署員と鳥取県山岳協会のパトロールの一行は、夏山登山道の5合目付近において、登山者に対する山岳事故防止の指導中であったが、警察署からの無線での通報により天狗沢の事故を知った。
直ちに6合目付近まで登り行者尾根の登山道を現場に向かって駆け下りた。
警察・パトロール隊員達が行者尾根を駆け下りた後で、旧友植は夏山登山道を頂上に向かって登っていた。彼はスキーで山頂から北壁の斜面を滑り元谷に向かって下るためであった。
植によると前日は20日と21日に雨があり、登山道等は氷に近い状況であり、スキー滑降に不安を感じるほどであった。
大山中腹にある町の大山観光案内所の話によると、22日は未明に小雪が舞ったものの夜明け前には晴れ渡った登山日和で、表層雪崩の心配があっただけだと言うが、頂上に立った植氏はその様な雪の状況ではなかったという。
植は8合目付近まで登って元谷を見ると、伏見ケルン当たりに人垣ができなにやら騒いでいるのをみた。
不審に思っていると相前後して登っていた登山者の中から、それは遭難らしいと聞いた。
その後植は、頂上まで登ると頂上台地でスキー滑走を繰り返し、午後になって六合沢を下ったが雪は堅く閉まったままであった。
小藤が現場において救難等の処置をしている間に、天狗沢隣の屏風岩を登っていた、大阪府岳連の登山者達は懸垂で下り、現場にやってきた。
天狗沢を登っていた登攀者達は、滑落者の元まで降りてきた。
その人達は広○の方であり、「高氏」「高氏」の声に初めて世界的な登山者「高○和成氏達」であることが判明した。
小藤は、高氏は「四角顔」でがっちりしているはずなのに、顔が変形し長細く成っているため、判らなかったと言うから、かなり激しく氷の斜面にたたきつけられたと感じたらしい。
警察が正午過ぎに現場に来ると近くにいた医師の診断により死亡が確認され、スノーボートによる搬出が開始され元谷小屋付近に収容された。
ここに世界的な登山家高氏の遭難という事実が報道されるに至った。
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