わが町、東郷町に「伯耆一之宮」がある。
山陰本線松崎駅から北に3q、お椀を伏せたような御冠山(186m)の近くにある神社である。
正式名称「倭文神社」は、祭神を建葉槌命(たけはづちのみこと天羽槌雄神)を主として、下照姫命のほか5柱を合わせ祭っている。
「倭(しづ)」だけで織物をさし、「文」をくわえて「倭文(しとり)」とし、「文」は模様をと言うらしい。朝鮮半島の新羅あたりから来たようである。
古代からこの地方にいた倭文部、すなわち綾・錦の類を織る業を主としていた部民が、その祖神「建葉槌命」を祭った。
配祀の主柱は、のちに出雲族が東進(大国主の国譲り後、これに服従しなかった国を平定したのが「建葉槌命」)し、伯耆に及んでから、縁故ある諸神を合祀したもので、承和4年(837)に国守クラスの従五位下を与えられ、また、斉衡3年(858)授位の記述もあり、朱雀天皇の天慶3年(940)正三位を授かっている。
宇野・宇谷や東郷池周辺に広大な所領があり、のち安楽寿院領や八条院領となり、皇室経済を支え、中世には大覚寺統系の荘園となり、一方、京都の松尾大社も東郷池周辺を私領化するとう中央のうねりの中で翻弄されていった。
康和5年(1103)には、伯耆一宮の京尊というお坊さんが法華経を写した青銅製の経筒を地中深く埋納し、五十六億年以上もの後まで経典を残そうとした。
平安の末期に流行した末法思想は経筒などを埋めて、功徳が自分に及ぶことを期待した。
埋納する者は権力者であり、場所は寺院とか神社の周辺が多い。
この経筒は、鎌倉当初「未来の弥勒出現」を願っていた。
なお、銅経筒の銘文に、東郷という地名が見え、12世紀から当地が既に東郷と呼ばれていた。
(現在までに見つかった一番古い地名である。)
(「東郷」と名乗った武将「家平」が初めてである。家平は治承3年(1179)鳥取県西伯郡淀江町の合戦で戦死し、その墓は東郷町長和田といわれていたが、田畑字和田でそこには五輪塔が現存している。)
時代が経過すると「現世利益」という、現実的なもの代わっていった。
昭和・平成そして令和の時代になり、「神のお告げである。この壺は1千万円、この石は五百万円、現世御利益−−。」という時代になった。
「百円の馬券が1万円に、時には数百万円に−−」と「日本競馬会」の方が、御利益があると言っている。
「御利益、御利益 ありがたや・・・ありがたや・・・」
倭文神社は、山陰本線松崎駅から東郷湖沿いに車を走らせると、宮内集落を過ぎ果樹園の中を進んでいくと、コケラぶきの古い門の手前で下車する。
石柱に「国幣小社倭文神社」と刻まれ、杉、ヒノキ、モミなどが茂っており社殿は宏大で、千石の朱印地があったといわれ、伯耆国の一之宮で、中世から総社ともされた。
明治5年県社、昭和14年国幣中社に昇格した。
祭神の下照姫は、大国主の妹でこの地に嫁入りした姫である。安産のお宮として有名であるから、幸せな一生を過ごした神であったろう。
経塚一帯は、古くから一ノ宮の祭神・下照姫命の墓であると言い伝えられ、昔から「元日の朝に金の鶏が鳴く」といわれ経塚といって聖地とし、人を寄せ付けなかった。
昔から各地の古墳等を盗掘する輩が横行していた。
大正4年に、羽合町浅津の住人が盗掘の為に、理屈を並び立てた。
この倭文神社の経塚を「お告げがあった。」と言って堀始め、京尊が法華経を写した青銅製の「経筒」や仏像等を掘り起こしてしまった。
後日、あまりの立派さと、たたりを恐れ5日後に警察に届け出た。
下照姫命の伝説に相応しく、経塚の中から発見されたすべての物が国宝となり、塚は国の史跡に指定されている。
御冠山城(湯梨浜町宮内)
秀吉の兵糧攻めにより、毛利方の鳥取城が落城した。
鳥取城の救援に向かっていた吉川元春が、鳥取城の落城を知り馬ノ山に着陣した。
毛利方から寝返った羽衣石城主南条氏は、秀吉に援軍派遣を願い出た。
南条氏の寝返りは、南条氏が毒殺されたことでその一族が離反した。
南条氏から、吉川元春が馬ノ山に着陣し羽衣石城の攻撃にかかるからと、助勢を頼んできたので秀吉は承諾した。
10月27日、秀吉は御冠山(宮内)に着陣し、馬ノ山の吉川元春と対陣した。
秀吉の軍勢は三万とも四万五千とも、あるいは八万ともいわれるが、吉川勢は僅か六千。
鳥取落城の悲報に接し、経家の弔い合戦と決死の覚悟で意気盛んであった。
安来、米子方面から出陣した吉川は、舟を全て陸にあげ、背水の陣である。
これを見てとった秀吉は、いたずらに血戦して将兵を犠牲にする事を避け、羽衣石城に糧食・弾薬を補給した。
元春はこれを知り、松崎城付近まで部下を出撃させ妨害を加えた。
秀吉は輸送を完了さたので、蜂須賀小六らを残して元春に備え、10月29日 御冠山を引き払った。
元春父子も小寺又三郎を馬ノ山の守備に残し、11月1日主力を率いて帰陣した。
結局、両軍の主力は衝突することなく撤退したのである。 (東郷町誌より)
俺の実家の田畑を秀吉が歩き、東郷池に向かって放水したのかもしれない。
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