厳冬期大山天狗沢登攀から船上山への縦走  (1973.1.14〜16)

 古い手帳を取り出し、書きなぐった文章を判別しながら思い起こしてキーボードを叩いている。
 大山北壁が扇のように広がりその要の位置に元谷小屋がある。
夜の元谷小屋に集まったのは、某山の会の小谷、出雲山岳会の植氏、吉氏そして私の4人である。
 4人の目的は、厳冬期の天狗沢登攀後大山の主稜線から野田ヶ山を通過して、大休小屋に泊まり甲ヶ山、そして後醍醐天皇を助けて名和長年が挙兵の地「船上山」までの冬季縦走と船上山の岩壁の登攀である。
 大山の北壁を登攀後縦走し船上山までの縦走をあまり聞かなかった。
 穂高等では屏風岩の登攀後北尾根を縦走し前穂高の東壁等の連続登攀は聞いていた。しかし、大山は登攀後直ぐ下山する人が多くこのような登山を耳にしていなかった。
 北壁のどのルートから縦走に結びつけていくのか、話し合った結果、小谷の所属する山の会では、過去に天狗沢で遭難者を出したため登った者がいないので、是非とも登ってみたいとあった。
 過去に天狗沢の登攀を無雪期・厳冬期(単独)を通じて登った者は、私だけであり、登攀歴等からリーダーとなった。
 ザイルは植氏と小谷、そして一番経験の浅い吉氏と私が結ぶことにした。
 米子駅のバス停で顔をそろえると、最終のバスで大山寺に向かう。集落の酒屋で(沢山の)御神酒を購入し、凍った山道を元谷小屋に到着すると明日の準備をする。
 壁の釘にピッケル、アイスバイル、ザイル、アイゼン、輪かん、安全ベルト等、明日の登攀に使用する物をぶら下げると、夜食と御神酒の準備をする。
 明け方近くなって何十分おきかに眠気が覚め、また軽い眠りに落ち、もうどうしょうも無くなって起きだし、コンロに火を入れる。
 小屋の中でも快晴と判る冷え込みであった。
 簡単な朝食を取ると宿泊用の資材をザックの一番下に入れ、羽毛服と行動食そして登攀具を入れると、ザックを閉めザックの本体と蓋の部分にザイルを挟み、上下のウインドブレーカーを着込み登山靴を履き、オーバースパッツを着けると土間に出てアイゼンそして輪かんを着けると、ザックを担ぎアイスバイルとピッケルを握ると小屋を後にする。
 小屋の右手から山下ケルン、ローソク沢出会いを過ぎると、元谷沢等からの雪崩を恐れて屏風岩の中央部分に向かって登っていく。ラッセルを交互に繰り返しながら。
 屏風岩に守られるようにして、安全ベルトを装着し、捨て縄にカラビナ、アイスハーケンの束を着けると肩に掛ける。輪かんをはずしザックに装着、ザイルを結び登攀の準備が完了する。
 私が先頭になって天狗沢の中央部に躍り出る。ピッケルとバイルを叩き込みアイゼンの爪を利かせて登っていく。ザイル一杯に登り切ると吉氏の確保する。交互にトップを交代し凍ったF1を登っていく。
 植氏・小谷両名も交互にトップを交代し登っていくと、体力勝負とばかりに私達を徐々に追い越していく。吉氏のアイゼンは八本歯の縦走用であり仕方がないか。F1を終了し雪の回廊に入り、登山靴まで没する雪の斜面を雪崩に注意しつつ、F2に向かう。雪の回廊は通常クラストし、アイゼンの爪が小気味よく食い込む部分である。
 F2は完全に凍結しており、F2は標高も高く高度感もあり氷の登攀は楽しいが、最後の部分がハング気味になりこの部分のみが嫌らしい。単独登攀と違い、今日は、確保されているため安心感がある。吉氏の確保のもとに乗越したあと少しザイルを延ばして、確保の体勢を取る。
 吉氏が登り始めたが、八本歯のアイゼンでは登攀するには難しく苦労しているので、強引に引き上げる。
 今日のF2上部は嫌らしい雪の斜面である。ここで滑落又は雪崩に遭遇すると北壁を500m以上は叩き落とされる。
 稜線が近づくと吉氏を先頭に登らせ登攀の感動を体験させようとしていくと、天狗ヶ峯では植氏がカメラで狙っている。
 稜線に立って天狗ヶ峯にある道標は、2m半程あるのに1m程になっている。
 この道標は、小谷の所属する山の会の先輩の遭難碑である。
 ザックを道標に固定すると、手袋を脱ぎ取ると4人で手を握り合う。
 挨拶の言葉があったのか、無言だったのか完登の喜びを共有し合った。
 周囲の山々を眺めていると道標から南側に伸びる槍尾根を登っている登山者が見えた。
 尾根には雪庇が2m程発達している様に見える。
 我々の進む主稜線にも雪庇があるのか眺めると、数カ所発達しているように見える。
 休憩をやめて、ザイルを外してザックを担ぎ上げると、主稜線を象ヶ鼻に向かって下っていく。
 振子沢の方向に張り出した雪庇を避けるように注意しつつ下っていく。
 1636mのピークを越すまでは東壁の絶壁には細心の注意をする。ピークを越えて振子沢の上部に出ると尾根は少し広くなってきた。
 象ヶ鼻からは、アイゼンの下にワカンを装着する。
 主稜線の痩せ尾根から幅のある尾根となり雪崩の心配が出てくる。
 尾根の一番高いところを忠実に下っていく。
 ここで雪崩が発生すると振子沢の大斜面か、反対側の三鈷峰東谷(阿弥陀沢の左俣)に落とされる。
 どちらも雪崩の巣窟であり生きては帰れないだろう。
 最低鞍部を通過して、振子山から親指ピークに向かって急激に下り、痩せ尾根を進んでいく。
 右は大休谷、左手は三鈷峯東谷で気を抜くと地獄に一直線の痩せ尾根であり、特に親指ピークの通過は難所である。
 キャラボクの大木の上を通過するため、足下を踏み抜き雪の中に溺れ、それを見ては笑い合いながら4人は進み、野田ヶ山の登りは短い、ラッセルを交代しつつ頂上に立つ。
 野田ヶ山は古期大山火山活動による外輪山連峰の最も西端に位置し、三鈷峰の東850mの位置にあるが、その間には先程の三鈷峰東谷の険しい野田ヶ山の西壁(泥壁)をもっている。
 頂上からは私を先頭に、真東に向かって樹林帯の広い緩やかな尾根を下って大休峠に向かう。
 夏には、トレースがあるが、冬は銀世界の一面であり、目印のテープを確認しながら前進し、15時に大休小屋に到着する。
 大休峠(1012m)は、鳥取県東伯郡東伯町から、大山寺へ越す峠で江戸時代には現倉吉市、東伯町方面からの大山詣での道(大山道)で、一面ブナ林に覆われ昔ながらの石畳の道が雪の下に続いている。
 大休小屋周辺には、人の踏み跡一つなく、人の気配はない。
 小屋の中は土間と2段に分かれた寝室の板場があり、下の板場に4人の荷物を入れると、宿泊の準備と水の準備を吉氏に指示して、3人で矢筈ヶ山付近までのラッセルと登り道の確認に出発する。
 晴れと風のない天候であり、アイゼンとワカンにピッケルだけの軽装で小屋を後にして、裏手より真東にブナ林の中を登っていく。
 急坂のため苦労しつつラッセルをし、登っていく。数分おきにトップを交代しつつ、矢筈ヶ山の頂上近くになり、傾斜が緩くなったとき、頂上から3人のパーティが下ってきた。
 彼らは、本日の朝船上山を出発し、矢筈に到着したとのことである。
 我々の逆コースで大山の頂上を目指しているとのことであり、連れだって小屋に帰った。
 小屋の2階部分を彼らが使用することにして、小屋の土間にあるゴミを焼却する。
 大山は我々のゲレンデであり、小屋の清掃、整理・整頓等は泊まる都度、通過する都度にやっているが、山小屋は汚れるばかりであった。
 夜半から風が強くなり、地吹雪状態になってきた。
 翌朝、装具を装着して外に飛び出し唖然とする。
 昨日苦労したラッセルの跡形もなく、4人で交代しながらの前進することになる。進んでいくと、ブナの木陰の所々にラッセルの跡が残りルートの確認が取れるくらいである。
 急坂を登り、傾斜が落ちると尾根状となり、矢筈ヶ山の一等三角点の頂上(1358.6m)に登りきった。頂上には三角点の大きな櫓が、崩れそうに立っていた。
 東西に切り立った小矢筈の急な登りは、灌木を頼りに登り切った。
 小矢筈ヶ山から見る甲ヶ山は、地名の由来となった甲の形に似ているのが判る。甲ヶ山はのルートは判っているが、岩壁の真下をトラバースして取付点に立てるのか。右手の岩稜は登れるのか。
 小矢筈の細長い稜線をたどり、小矢筈からの急な稜線を下り、甲ヶ山のトラバースの開始地点まで移動して、岩壁の下にたどり着いて、雪質を見ると以外と落ち着いているのを確認する。
 ワカンを外しアイゼンとなり、各人の距離を充分に開き通過することとする。
 夏場は頂上の岩稜から、垂直に40m程の岩壁の下に外傾した一枚岩で、常に濡れていおり、滑りやすい。
 今回は、厳冬期であり雪の下は氷で覆われているのではと、思われるので慎重に移動、トラバースし登路となる岩稜下に集まった。
 ザイルを結び合って60度近い斜面を登りきり、岩稜の甲ヶ山頂に立つと勝田ヶ山に向かって移動する。
 岩稜の縦走は大山の主稜線と違い、岩は安定しすこぶる快適である。
 樹林帯に入り快調に下り勝田ヶ山(1149.1m)の頂上を通過し快調に下っていく。
 東方を望むことが出来る所で我が古里が見える。古里には3年ほど帰っていなかった。
 ブナの林となり傾斜が落ち広い尾根の道となる。
 アイゼンをはずし、冬山の服装からロングスパッツだけの服装になり、下っていくと雪の上から土だらけの登山道となり、滝の音が近づき、船上神社の拝殿前を通過し、船上山行宮碑の所から、岩場をザイルで下る予定であったが、下る地点が判明せずに登山道から茶園原経由で、岩壁の基部に移動する。
 船上山の古戦場を通り、茶園原上部の屏風岩探勝路(横手道)を歩いて、岩小屋広場にザックを降ろし、練習岩を登ってバランス登攀のトレーニングをする。
 練習岩は、高さ10m傾斜は60度強で適当に登ったり、トラバース、下降をしてコンディションを見るが、どうも調子が悪い。
 ここ船上山の岩場は、鳥取県西伯郡淀江町に本部を置く岳友会の開拓したルートが30本以上あるが、私は登ったことが無く、過去に小谷が登っており、彼の案内で登ることにした。
 練習岩から岩壁下の探勝路を移動し、小谷に各ルートの取り付き点とルートの説明を受ける。
 千丈のぞきの下を通過して「松の木ルート」の基部に着いた。
 松の木ルートの下部10mを私がトップで登る。
 スラブ状態で快適に登ると、大きな岩のテラスでピッチを切る。小谷が次のピッチを登る。
 小さなハング帯を登り始める。今回の登山にはアブミを携行していないため、フリーに近い状態の登攀となり、苦労しながら登り切ると、チムニーの中に入った。
 小谷は登り切ると、次々と仲間を登らせる。
 私の番となり、スラブから小さなハング帯となり、ここは簡単に突破して、松の木からチムニーの登攀になると、どうも上手く動けない。苦労するが登れない。
 何分にも出雲の岩場には内面登攀のルートがない。しかもここは逆層で足場がない。ホールドも確実な物が無いため、ザイルにて引き上げられるようにして、登り切る。
 次は、探勝路を雄・雌滝の方向に移動して、「変形チムニールート」を登ることになった。
 このルートはバンドまで登って、核心部の凹角をアブミで乗り越していくが、今回は取付点を滝の方向に移動した。
 植氏がトップで、穏やかなフェースを登り核心部をパスして、灌木の快適なテラスに達した。
 次のピッチは、小谷が登りブッシュ混じりの凹角を登り、言葉も楽しい「4畳半テラス(襖はない。)」に到達した。
 その上の10mの変形チムニーを、私がトップで登ってこのルートを終了した。下降は松の木から40mの懸垂下降で探勝路に降り立った。
 練習岩に帰り、ザックを回収すると「S字尾根」を下り、茶園原下にある休憩舎前を通って、山川木地の集落からバスに乗車し国鉄山陰本線赤崎駅に移動した。
 山陰本線の車窓に登った歩いた山塊が眺められ、流れ去っていく。
 一つの山が終わって、祝福と感謝と再会を誓い合うために、手を握り合い、更なる登山を期待し、分かれた。
 当時の山小屋は、建て替えられ新しい山小屋となっている。石造りの元谷小舎、ブロック・コンクリの大休小屋が、新しい小屋となり、三の沢の小屋が壊された。懐かしい小屋が新しくなるのは仕方がないのか。
 大休峠を通る大山道は川床道と呼ばれ、その他に横手道、溝口道、尾高道、坊領道の五つがあり「大山道」と呼ばれている。
 山岳仏教の霊地とされた9世紀以降に修験者・廻国行者のたどる道、信者・参拝者等の信仰の道となり、大山寺で行われた牛馬の博労市へ通ずる道として整備されていった。
 特に、川床道は当時の状況が残っており東伯町の野井倉から一向ヶ平キャンプ場から大山滝、大休峠、川床に出て大山寺に向かう道は、ブナ、ヒノキとミズナラの林の中を歩き、不動明王の祠、タタラ師の住居跡、石畳の道、苔むした地蔵や木地屋跡、烏栖佐摩明王等の歴史の古道とである。
 石畳道は今から150年ほど前に大山町別所の庄屋が私財を投じて造ったと伝えられている。
 大休峠には、大山詣が盛んな当時には、大山会式の時に2〜3軒の茶屋が開かれ、のちに博労宿も兼ねるようになったと伝えられ、茶屋・博労宿となるほど沢山の往来があったのであろう。
 一向ヶ平キャンプ場から加勢蛇川沿いに登っていくと、鮎返りの滝、大山滝の他に大小の有名無名の滝が見られる。
 特に大山滝は落差43mの2段滝で水量も豊富である。
 川床道は、キャンプ場から大山寺まで4時間程の森林浴のウオーキングが楽しめるが、地図と、水、昼食そして足拵えをして歩いて見てください。
 車が2台ある場合は1台を川床口に1台を出発点と活用すると便利であろう。
 甲ヶ山の山名は、明治の初期か江戸末期かに描かれた大山寺領の絵地図に「兜山」として描かれている。
 「甲」は鎧の意味だ。矢筈から見る山の形からして、「兜」のほうが似合っているが、西側のスキー場方向や、東側の倉吉氏市方向からは、台形状で岩壁が鎧と見え、そこから着いたのであろうか。
 船上山は、大山外輪山として古期大山火山群の一つで、勝田ヶ山・甲ヶ山・矢筈ヶ山及び野田ヶ山と連なる外輪山群の東北端に位置し、東・北・西の三面が断崖絶壁であり、山頂は平坦な高台状地形であり、要害の地である。
 鎌倉末期には、後醍醐天皇が隠岐島に配流されたが、元弘三年(1333)閏2月26日に隠岐島を脱出し、隠岐・伯耆守護の追っ手を防ぐため立て籠もった。
 このとき、近郷の豪族名和長年の一族が挙兵し窮地を救った。名和一族郎党はもとより大山寺衆徒、近郷の勤王派とともに立て籠った。その時の行在所が、船上山智積寺本堂であった。
 隠岐判官佐々木清高の軍勢3千余騎が攻めたが、これを撃退し5月7日六波羅を倒し、5月23日に後醍醐天皇は船上山を出発した。
 当時、船上山には9院14坊があったが、戦国期天文13年には戦火により全山焼亡し僧衆もおおかた離散したが、天文22年尼子晴久が坊舎30余宇を整備したが、幕末には智積寺を残すのみとなり、明治維新の神仏分離により仏教色を取り払われ、船上神社として改称した。