この頁は、俺の山に関する思い出を綴ったものです。
昔の仲間、ゴメンナサイ。
車の無い時代 昭和40年代、車は本当に少なかった。 自家用車など見るのが珍しいくらいだった。 職場の人の通勤も、バスや列車(SL)に自転車・バイクそして徒歩、裕福な人はカゴか馬車。 たまに乗用車を見かけるだけだ。 10分間に何台車が走るか賭けが出来る位だった。 そんな、優雅な時代に生きていた。 だから、俺たちは山に入るのも、他の町に行くにも列車やバスだった。 俺が高校生の頃、単車通学が許されてはいたが、ほとんどが自転車か列車などの通学だった。 その延長で、高校時代にバイク通勤していたUが持っていた。 Uは、バイクでどこでも行った。断魚渓のルート開拓もやってきた。 よく考えると、実家は断魚渓より遠いから、断魚渓はお茶の子サイサイだったのだろう。 もう一人、裕福な家庭に育ったKFさんだった。 俺達は金がないので、その日暮らしのバスの乗客だった。 KFさんたちが開いた北浦のゲレンデにUと出かけた。 穂高の屏風岩へのトレーニングである。 出雲から延々100kmをUの運転する90cc単車の後ろに乗って北浦に着き、トレーニング後、乗って往復200kmを移動した。男同志が抱き合って乗っていた。 出雲市駅のバス停に集まって、知谷橋までバスで20分程。 満員になる位乗客が乗っている。 ヘルメットにザック。薄汚れた山の格好で乗り組むと乗客は少し距離を取る。 そんな時、山のヘルメットをかぶって、ハリマオのように登場するのはKFさん。 颯爽と現れる。 KFさんは、単車に乗っているので、時代の先を行くハイカラ者だった。 北海道旅行した、TMが車のとりこになり、親にねだったのか車を購入した。 突然大山に車でやってきた。 大体、山をやっている者に金を持っているやつはいない。 「親に買わせたので。」きっとそうだ。決め付けておこう。 それに、乗せてもらうと色々な山にゲレンデに移動した。 大きな男が何人も乗り込んだので、車は下りに強い。 出雲大社横から北山山系を越えて、鷺浦のゲレンデ開拓や、烏ヶ山の西壁に出かけた。 それから遅れて、SGも、自動車を買った。 軽だが、なんとタイヤが4個もついていた。 昭和40年から50年代の移動は、バスが最適だった。 今と違いバス便が多くどんな山奥でも走っていた。 スキーに行くのもバスであった。 バスに乗車して山に入るのも楽しみだった。 米子からバスに乗り、大山寺で下車するとキャラボクで入山の準備をする。 冬の大山に入る為21時頃大山寺に着いて、元谷小屋に入ったことがあった。 その時に「キャラボク」が、開いているか、閉まっているかが問題だった。 「キャラ」のおばちゃんは、何時もニコニコ顔で癒されるが、俺たちの関心は娘にあった。 俺が車を買ったのは、昭和51年の春だった。 昭和50年の秋に、日高山脈の近くに紅葉(モミジでない楓)を見に行った。 行きの時刻表を確認し、帰りは現地で確認する。 昼飯も終わった、バス停で時刻表を見て驚いた。 15時過ぎまで3時間もある。そしてバス停に「熊」が出ます。 近くの神社にも、熊、熊の標識だらけだ。 熊が牛を襲った話を聞いたいたので、後ろ、横ときょろきょろ、ソワソワ。 春が来たので、車屋さんを呼んだ。 車屋さんは即決で購入したから喜んだ。 以上 |