この頁は、俺の山に関する思い出を綴ったものです。
昔の仲間、ゴメンナサイ。
前穂高東壁の思い出 俺とSGさんは、五六のコルから奥又白側に出て奥又白のガレ場を登り、インゼルのW峰側B沢の雪渓に入った。 雪渓は東に向いている為に、朝の5時過ぎから太陽に温められ腐れ腐れグズグズである。 今思うと、なんと恐ろしい所を登った事か。 落石の巣の中に飛び込んでそこをキックステップで登って行くため遅々として進まない。 Dフェースや右岩稜等から音も無く飛んでくる石は、私の側を通過する瞬間にブーンを唸って通り過ぎる。 音がしたときは避ける事が出来ないほどの速さで、降ってくる石は百キロ以上の速さであろう。 物体が空気中を落下すると、一定の距離を落ちると、速度はそれ程上がらなくなる。 それ程って、ドンだけー。落下傘を使って降りるスポーツがある。 高度4000mでフリー落下(落下傘を使わない)すると、時速200kmまで達するがそれ以上は上がらないらしい。 400mで飛び降りても時速200kmまで出るらしい。 そして何時かは速度が時速0kmになるらしい。試した事はないが。 落下傘を使用しないでも0kmになるらしい。そして命がなくなるらしい。 では2700m付近の雪渓上で落石を受けたらどうなるか。 3090mが前穂の頂で3000mの東壁から出たとすると、一回どこかの壁に当って減速したとして、時速100kmとしょう。 1秒間に30mでやってくる。 その大きさはゴルフボール大とすると見つけるのは、1秒前が限度だろう。 そうして詰めた後にCBAフェースのBフェースの凹角ルートを攀じた。 その当時凹角ルートはA1とフリーの5級で難しいとされていた。 アブミを使用せずに登った。 前穂の頂から紀美子平方面に少し移動し、吊尾根の稜線に戻り最低コルから涸沢に下った。 わずかな踏跡を求めて急な斜面を駆け下りた。 雪渓の上に立って一安心したのがいけなかった。 急な雪渓をグリセードで下り始めて直ぐに転倒し頭から滑落していった。 直ぐにピッケルを使用し体勢を入れ替えて、頭を上にするとピッケルを打ち込み停止した。 腕まくりをしていたため、腕に擦り傷が出来ていた。 岩を登るときは、長袖姿でいるのだが、終了して一般道に出た為に腕まくりした。 グリセードなどをするときは、長袖になろう。 FJさんとは、前穂の北尾根の三四のコルから急な雪渓を下り、Dフェースの田山ルートを登るため壁の取り付きに移動した。 当時Dフェースの田山ルートは前穂高東面では最後まで残った壁であった。 右岩稜の右側の壁際に進んで、見上げるDフェースには先行のパーティや時間待ちの組があり、俺たちは随分待ったが、先行のパーティは田山ルートのスラブに移る部分で動かなくなってしまっている。 俺たちは北壁に進路を取り直した。右よりの部分を登り、俺はDフェースを登っている組を見ながら登っていた。 俺は不注意で大きな落石を出しFJさんのザックに当ててしまった。 Aフェースは適当に一番難しそうな部分を選びながら登り登った。 FJさんと最低コルから涸沢に下るときは、十分注意して下った。 稜線から1時間ほどでテント場に下った このルートは今も下る事が出来るのであろうか。 最低コルからの下降ルートについては、責任は持てません。 昭和50年代の話です。 |