米軍放出の寝袋
1965年(昭和43年)ころ、山の仲間が、アメリカ軍の寝袋を使っていた。
横山厚夫の「山書の森へ(山と渓谷社)」寝袋の007にこんな内容があった。
昭和28年(1953)に朝鮮戦争が終わると、余った軍用品の一部が日本でも売られるようになり、寝袋もその一つだった。
秋葉原の放出品専門店に行くとテント、寝袋、軍靴等が山と積んであった。
寝袋は程度のよいものが1000円くらい、使い古しで汚れがひどいと7〜800円であり、お小遣いのとぼしい学生にもなんとか買える値段だった。
米軍の放出した寝袋は、モスグリーン色でジッパーが一気に下がるようになっていた。
俺達は、仲間の寝袋を見るとからかった。
松本清張は小説『黒地の絵』と、友人の寝袋とが重なり、面白がってからかった。
米軍放出の寝袋は、朝鮮戦争の時に遺体を半島の戦地の半島から日本に運んだ際に、遺体を寝袋に入れて運んだと言われていた。
友人の寝袋は、そんな寝袋だろうと冷やかした。
俺達が山を始めたときは、高度成長の時代であり、1965年(昭和31年)マナスルが西堀隊によって初登頂され、そのアプローチで活躍したのがキャラバン・シューズでその軽登山靴には、特徴のある金具があった。
ザイルは会の共同装具で11ミリの縒りザイルだった。縒りザイルの特徴は、3本のストランドを縒り合わせたもので、編みザイルよりやや硬い。また、よじれができやすい。
寝袋は化繊だった。
化繊の寝袋の時代に、羽毛の寝袋が羨ましかったのもあるが、それよりも話題が欲しくていたのだろうか。
長い冬の夜、テントや山小屋の中では格好の話題として、遺体移送用(?)の寝袋がそこにあった。
米軍の遺体の処理に、学生などがアルバイトとして働いていたという。寝
袋の遺体を一度出し、アルコールで消毒し、綺麗にして本国の親御さんの元に送り届けていた。その、寝袋を軍が払下げたのか。
米軍だって、死体の入っていた寝袋を巷に出すことはないだろう。焼却していただろう。
綺麗な寝袋で、古くなったものだけ出していただろうが、その頃は、そんなことまで考えていなかった。
『黒地の絵』
朝鮮戦争のため、福岡県小倉にある米軍のキャンプに、三個大隊の兵隊が集結し、半島に移動する日を待っていた
準備がほぼ完了していた。三個大隊の主力は「黒人兵」が多数を占めていて、その日を待っていた。
1950年7月11日祇園祭で賑わう小倉。
祇園祭りの小倉太鼓が鳴り響いた夜、武装をした米軍兵(黒人兵)約百六十人がキャンプ地を脱走し、市内の民家を襲った。
夏の夜のため雨戸が開け放たれていたため、民家への侵入は容易であった。
武装した集団脱走兵は婦女暴行、強盗を行い、米軍鎮圧部隊との市街戦を行なった事件があった。
米軍兵は戦争への恐怖から最期の憂さ晴らしなどのため市街での凶悪な行動に出た。しかし、脱走兵は翌日には朝鮮半島に移動した。
朝鮮半島では、中国の共産軍と国連軍の米軍が北緯38度線付近で激しい戦闘のため多数の戦死・傷者が出た。
米国へ送り返す死者の数は膨大な数へと膨れ上がり、米軍の軍医等関係者だけでは作業が追いつかない状況となった。
小倉のキャンプに、続々と朝鮮半島から兵士の遺体が運び込まれ、キャンプ地の一画が、米軍により死体処理施設として使用された。
日本人等の民間の一般労務者を雇い入れた死体処理をしていた。一般労務者を雇い入れた死体処理施設における生々しい描写は‐‐‐。
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