918年(大正7年)2月の大山登頂

大正7年の新聞から

◎鳥取連隊◇◆◇雪中行軍
  ◆大山の頂上に万歳を三唱
      ・・・・・元気旺盛なる行軍隊と倉吉町の歓迎・・・・

 鳥取歩兵第40連隊の雪中行軍隊は9日大山の麓に到着し大山軍馬補充部より長野原道を阿弥陀川に沿い上流に出で地方人の最も▽ 雪多く危険なりと云う難所を突破して、川床に出で、頻りに襲う雪崩を物ともせず、先発隊は午後3時半に、本隊は午後4時半に通過して、大山に到着宿営したるが、翌10日は午前8時大山村を発足し、登山を企て、逢坂村より佐々木旅団副官、井手井師団副官等は視察のため同行し、午前11時30分膝を没する雪を踏破して頂上に達し、茲に天地も裂けよとばかりに万歳を三唱したり、時に気温零度以下6度。奥田連隊長以下700余名はいづれも元気旺盛に下山して大山村に宿営し11日の梅の佳節祝して同地に休養したるが翌くれば12日朝帰営の就くべく茲を を発し
▽ 雪の船上山を幾多の危険と闘いつつ踏破し茲に奥田連隊長は一同に対し名和長年の治蹟を語り士気いやが上にも旺盛にして東伯郡大父木村に達し露営を為し更に13日同地を発足し上福田村に出で壮烈なる演習を試み倉吉付近にて休憩。此の間将校一同を集めて演習中の講評を為し終って午後3時頃士気盛んに小鴨川を渡りて倉吉町に入れり先町は
▽ 歓迎準備に・・・町役場は・・・歓迎事務所・・・小鴨川橋付近・・・歓迎するに・・・
▽ 全町風呂屋は悉く之等健児の一週間の労苦を洗い・・・雪と寒さと闘ひたる労苦を忘れ町民の厚き歓迎裡に休養したるが同夜11時頃更に連隊命令を受け取りたる各隊は14日の三徳越えの雪の険路を突破すべき元気を養いつつ
▽ 快き眠に入りたり因みに今14日は鹿野に出で一泊する予定なるが全員元気旺盛にして意気衝天の概あり(倉吉電話)

 
 

山陰日日新聞

(大正7年2月14日(木)付)より

 日本陸軍の鳥取連隊は、ロシア革命直後、シベリア出兵直前の1918年の2月登山だった。
 同連隊は2月6日鳥取を出発し9日午後大山寺着、翌10日約300名が案内人を先頭にして、阿弥陀堂の辺りから森林を登り三時間半かけて山頂に到着。
 竹の皮に包んだ弁当を食べて下山した。
 この時の山頂付近の気温は零下6.5度で「閉ざした雲が少し晴れて碧色をなす西部伯耆の山野がパッと見ゆる」天気だったと同連隊の「髭の伍長」が因伯時報に書いている

(1918.2.8~2.23、大阪新聞等も報道)