山陰日日新聞
(大正7年2月14日(木)付)より
日本陸軍の鳥取連隊は、ロシア革命直後、シベリア出兵直前の1918年の2月登山だった。
同連隊は2月6日鳥取を出発し9日午後大山寺着、翌10日約300名が案内人を先頭にして、阿弥陀堂の辺りから森林を登り三時間半かけて山頂に到着。
竹の皮に包んだ弁当を食べて下山した。
この時の山頂付近の気温は零下6.5度で
「閉ざした雲が少し晴れて碧色をなす西部伯耆の山野がパッと見ゆる」
同連隊の「髭の伍長」が因伯時報に書いている
(1918.2.8~2.23、大阪新聞等も報道)
八甲田雪中行軍遭難事件
1902年(明治35年)1月
陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森県の青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。
訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故である。
|