広隆寺 |
中宮寺 |
飛鳥時代を代表する二体の半跏像。左は京都広隆寺の弥勒菩薩像、右は奈良中宮寺の伝如意輪観音像。光背の有無を除けばほぼ同じポーズで、かすかに微笑んだ表情まで共通している。世界に誇れる圧倒的美しさの半跏思惟像だ。
私はついこの間まで、双方とも弥勒菩薩像だと思っていた。そう書いてある書物も多いし、上の写真を見ていただいても、疑いを持つ方は殆どおられないだろう。ところがある日、仏像について調べていたところ、気になる記述があった。中宮寺の仏様は伝如意輪観音像だというのだ。
『仏像の見分け方』西村公朝、小川光三著(新潮社)にこのような記述がある。
中宮寺の伝如意輪観音は手が二本だが、平安時代前期につくられた観心寺の如意輪観音には、手が六本ある。その理由は?
この問いに対して、
中宮寺の像は観心寺の六手のうち、思惟の右手と地を指す左手を本性としてつくられたのです。
と答えている。
また『日本の仏像』土門拳著(小学館)には次のような記述がある。
頬にあてられている右手の細くたおやかな指先は色っぽく、官能的といえるほどしなやかな表現を与えている。ぼくはこの観音像くらい、女、それもゆたかな母性を感じさせる仏像をほかに知らない。(写真左)
確かにこのおもざしは、どう見たって女性のものだし、同時代に作られた法隆寺の百済観音像と比べても圧倒的に魅力的な表情をしている。
私は法隆寺、中宮寺と続けて参拝し、二体の観音像を拝んできた。百済観音像にはどこか異国の雰囲気を感じたのだが、中宮寺の半跏像には(日本の)理想の女性にめぐりあった気がした。この半跏像を手がけた仏師も同じ気持ちだったんじゃないのかな。
仏教伝来間もないこともあり、これほど完成度の高い仏像は、朝鮮、中国から来た仏師の手になるものだろうと思う。とくに広隆寺の弥勒菩薩は、どこか西域風の顔立ちに思えるのは、すこしつり上がった眼差しのせいだろうか?『日本の仏像』には、この菩薩像について、朝鮮三国時代または飛鳥時代との記述がある。この仏像は朝鮮のアカマツ材を使って一木造りで彫られている。ちょっと前傾姿勢なのは原木が少し曲がっていたためらしい。そういう木を使った理由としては、この木が霊木・神木とされた貴重なものだったからであろう。
明治維新後の廃仏毀釈で、広隆寺は見る影もなく荒れ果て、乞食のすみかとなっていたこともあるらしい。この仏像もかなり傷んでいたらしいが、明治中期に修復され今に至っている。外国に持ち去られたり、薪にされなくて幸いであった。
この弥勒菩薩の美しさについてはこんなエピソードがある。
昭和35年、この像を拝観に来た京大生が、つい美しい姿に魅せられ、ほおずりしようとして右手の薬指を折ってしまった。恐ろしくなりその指を持ち帰り捨てたが、その後発見され修復された。
確かにこの美しさを見れば、その気持ち、男としてわからないでもない。実は私はこの仏様にまだお目に掛かったことがない。京都には何度も行っているのだが、なぜだかチャンスがなくて。しかし持って帰りたくなるといけないので、写真で止めといた方がいいかな。
この二体の菩薩像を見比べると、広隆寺のそれはどこか庶民的で人なつっこく、人を引き寄せてしまう魅力があるのに対して、中宮寺のそれは凛として気高く、ちょっと近寄りがたい雰囲気がある。確かに中宮寺の菩薩像には「遠くで見ているだけでしあわせ」という気持ちを抱いたのは事実であった。
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